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〜真田庵の謎、善名称院には、なぜ天皇家の家紋?である菊花紋が瓦に?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今年12月3日に真田昌幸・幸村・大助らが幽閉されていた真田庵こと善名称院(ぜんみょうしょういん)に出かけて、棒の先にカメラをくっつけて撮影した画像を、これまで3ページに渡って紹介しました。
恐らく『NHK大河ドラマ 真田丸』を見てこの地に訪れる観光の方は、真田庵は幸村親子が徳川家康に背いた罪により、幽閉されたことに思いをはせて訪れる方が殆どだと思います。
そんな真田ファンにしてみれば、幽閉地である九度山の真田庵にあしらわれいる紋章は、当然のように六文銭だと思っているでしょう。
事実、真田庵を囲む土塀の上にある軒先瓦(万十瓦)や山門の扉には、六文銭の家紋が誇らしげに施されています。
ですがそもそも反逆者を幽閉する屋敷に、家紋を施すことが許されるものでしょうか?
常識的に考えれば、それはノーと答えるほかないでしょう。
真田親子が幽閉されていた当時、真田庵に六文銭の家紋は無かった。
しかしその後幸村の大坂の陣における「日の本一の兵(つわもの)」と称せられるほどの活躍が、江戸時代の人々の間でも噂されるようになり、幸村の死後に六文銭の家紋が施されるようになった。
それはたぶん、幸村の兄:信之の命によってのものだった、でなければ、高野山の真田家ゆかりのお寺である蓮華上院の僧らによる配慮から、六文銭の家紋が施されたのではないでしょうか?
そのような経緯から、蓮華上院は通称 真田坊とも言われれ、合わせて真田坊蓮華上院とも言われます。
ところで、真田庵こと善名称院の本堂には、六文銭の家紋ではなく、天皇家の家紋:十六八重表菊花紋に似た菊花紋が施されていることをご存じでしょうか?
なぜ真田昌幸・幸村ゆかりのお寺に十六八重表菊に似た菊花紋が施されているのでしょう?
先にその謎に対する答えを述べれば、善名称院に天皇家の十六八重表菊が施されている理由は不明です。
鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現皇室)の紋である」との説明も見かけるが根拠不明である)。
江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由とされ、一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。
菊紋のうち、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は、日本の天皇及び皇室を表す紋章である。俗に菊の御紋とも呼ばれる。親王などの皇族はこの紋の使用が1869年(明治2年)の太政官布告をもって制限され、1926年(大正15年)の皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各宮家の紋としている。
との記述があります。
ということで、天皇家の家紋は「十六八重表菊」であり、実は善名称院に施されている十六弁菊は南朝の紋なのです。
また、菊花紋章 - 天台宗の菊紋 - Weblio辞書には、
菊花紋章 天台宗の菊紋 天台宗正法院、東京都豊島区仏教の一宗派である日本天台宗は、十六菊の中央に3つの星をあしらった紋(三諦章)を宗章としている。
との記述もあります。
以上のことから、善名称院に天皇家のそれに似た紋があしらわれている理由は定かではありませんが、私の思う推測はご紹介できます。
そもそも南朝とは、武士による幕府の始まりとなった足利尊氏の時代を南北朝時代と呼び、足利氏が押す朝廷は北朝となり、これに対抗する後醍醐天皇は、尊氏によって都を追われ吉野へと逃れて南朝となります。
ちなみに南北朝時代の英雄と言えば、楠公(なんこう)こと楠正成(くすのきまさしげ)ですよね。
以上のような歴史を踏まえれば、真田幸村らの幽閉地:真田庵のある九度山は、南朝に近く、高野山のお寺は南朝に所縁が深いと推察できます。
真言宗は、大同2年(807)平城(へいぜい)天皇から立宗が認められ始まった。 お祖師様は、弘法大師空海。 密教の教え全てを伝授されて唐から帰国した空海は、弘仁7年(816)嵯峨天皇から高野山(こうやさん)を修行の山として ...
との記述があり、
後醍醐天皇と密教 内田啓一著 (シリーズ権力者と仏教, 2) 法藏館, 2010.7 タイトル読み ゴダイゴ テンノウ ト ミッキョウ ... 政治的な望みを祈祷に込め、密教の力を用いて王権の強化をはかった後醍醐天皇。鎌倉幕府の滅亡、足利尊氏 ...
との記述があります。
ということで結論です。
真田庵の謎、善名称院には、なぜ天皇家の家紋?である菊花紋が瓦に?
それは真田昌幸・幸村らが幽閉される以前から、善名称院は南朝である後醍醐天皇との係わりが深く、南朝の紋である十六弁菊の菊花紋が施されていたのでしょう。
ちなみにお寺の瓦に菊花紋が施されていることは決して珍しいことではありませんが、善名称院の鬼瓦や棟瓦のように、大々的に十六弁菊の菊花紋が施されてる例は、やはり特例で、後醍醐天皇と高野山との係わりに由来すると考えることはごく自然だと思われます。
夕日に照らされる真田庵の西面(人目線で撮影)
夕日に照らされる真田庵の西面(高さ4メートルから撮影) 夕日に照らされる真田庵の西面(高さ6メートルから撮影)
夕日に照らされる真田庵の西面(高さ9メートルから撮影)
真田庵の鬼瓦には南朝の十六弁菊の菊花紋
真田庵の棟瓦にも大きな南朝の十六弁菊の菊花紋
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〜真田丸:千姫は大坂夏の陣前、「江戸へ帰りたいのじゃ。」と思っていた?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』では、大坂冬の陣の後、和睦によって一時休戦状態になると、大坂城内では決起にはやる浪人達の気を紛らわすために、それらの家族を城内に招きいれる事を、幸村は秀頼に嘆願して許されます。
家族や旧家臣たちとのつかの間の再会で浪人達は、家族や元家臣たちとの語らいにより、大坂城内は和やかな笑い声が響きます。
そんな中、幸村は甥(兄:信幸の子)らに会いに行くことを報告するため、秀頼・千姫・淀殿らに面会します。
淀殿:「何んだか、お城中が賑やかですね。」
幸村:「これより私は、甥たちに会うてまいります。」 淀殿:「甥?」
秀頼:「徳川についた真田の兄のこらか?」
幸村:「せっかくのおりなので、一度会おうと文を出しました。」
淀殿:「そのまま向こうについてはなりませんよ。」
幸村:「左衛門助は終生、豊臣家の家臣でございます。」
淀殿は幸村のこの言葉に満面の笑みを浮かべます。
秀頼:「肉親が敵味方に別れるということは、辛いものだ。」
幸村:「それを申せば、姫様の方がもっとお辛いめに。」
秀頼:「夫と実の父親が戦をしたのだ、さぞ苦しかっただろう。済まなかった。」
秀頼のこの言葉に、千姫は無言のまま微笑を浮かべ、首を左右に振ります。
この後秀頼は、前もって幸村の申し出によって、いずれは大坂を離れ、四国へ移る決意をしたことを淀殿と千姫に告げます。
その際秀頼は、妻である千姫にも四国へ移ることへの同意を求め、千姫もまた、二つ返事で「はい。」と即答します。
ところがこの後千姫は、廊下で幸村を見かけて呼び止めます。
千姫:「左衛門助!」
幸村:「姫様。」
千姫:「また戦になるのですか?」
幸村:「いずれは。」
千姫:「私が江戸へ戻るかわりに、戦をやめるよう、大御所様に掛け合ってはくれまいか?」
幸村:「姫様はいわば人質、戻す訳には行きません。」
千姫:「だめか?」
幸村:「お許しください。」
千姫:「江戸へ、帰りたいのじゃ。」
千姫は戸惑いの表情を見せながら、消え入るような声でそう訴えます。
幸村:「覗わなかったことにいたします。」
幸村の返答に返す言葉もなく千姫は、只々子羊のように戸惑いながら立ち尽くし、目は涙が浮かんでいるようです。
そしてその姫の様子をジッと見つめる幸村の表情には、千姫に対する同情の思いを持ちながらも、彼女に対して許しを請うような切ない思いを秘めながらも、ただ無言で控えていました。
大坂冬の陣の後に和睦となった時、
果たして千姫は、本当に江戸へ戻りたいと思ったのでしょうか?
私には必ずしもそうではなかったように思えます。
この時千姫は数え7歳。秀頼は数え11歳の幼い子供でした。
この二人の婚儀は、実は豊臣秀吉の遺言でした。
千姫が生まれた翌年に秀吉は他界していますが、秀吉は早々に自身の命が尽きるとは思っていませんでしたから、自身の後継者の嫁に、ナンバー2の実力を持つ家康の孫を迎えることで、豊臣の天下の安定を図るために千姫と秀頼の婚儀の約定を家康から取り付けたのです。
そして自らの思いに反して早くも死期を迎えた時にも、秀吉亡き後も秀頼が天下人を継ぎ、五大老が支えてくれるものと思っていた(いや、思いたかった。そう思わなければ死んでも死にきれなかった。)はずです。
ところが秀吉が亡くなると、家康は本音を露わにし、豊臣をほろぼそうと動きますが、
家康は、秀吉とのこの約定を破棄せず、幕府を開いた半年後に実現させます。
この秀頼と千姫の婚儀は、元々は秀吉の思惑によって交わされた約定でしたが、秀吉亡き後は、家康にとってもこの約定は都合の良いものとなったのです。豊臣家をつぶすためにも。
それはつまり、『NHK大河ドラマ 真田丸』でも描かれたように、かつて家康が秀頼に年賀の挨拶を求めて実現した二条城での会見は、孫を嫁がせた家康が、舅(しゅうと)としての立場から「妻の実家に挨拶しろ」と大義名分を変えて京都まで挨拶に来るよう秀頼に再三命じたということです。
淀殿はこれを断固拒否し、家康は説得し、なんとか実現させたのです。
以上のように幼かった秀頼と千姫の婚儀は、秀吉や家康の思惑による政略結婚でしたが、数え年7歳での豊臣家への輿入れは、当人にしてみればその意味もハッキリとは理解出来ず、さしたる覚悟もないものだったと思えます。
幼い少女が親や祖父に言われるままに他家へ来てみれば、そこにはさほど年の離れていない少年がいて、二人は幼馴染のように仲良く暮らすうちに、その成長と共にごくごく自然に夫婦のかたちになって行ったと思えます。
千姫が輿入れしてから12年が経過した1615年、大坂冬の陣の後の和睦の時、秀頼は23歳、千姫は19歳になっていました。
思うに幼い頃より大坂城で暮らし、12年間過ごした年月は、千姫にとって決して辛い日々ではなく、実家との戦が始まったからと言って、共に暮らした秀頼から離れて江戸へと帰りたいという思いに駆られる出来事ではなかった気がします。
もちろん実家と嫁ぎ先の家とが戦う事への悲しみはあったとは思いますが・・・・・。
ですが、ドラマにおいて千姫が「江戸へ帰りたいのじゃ。」と語ったとするのには、彼女が豊臣家滅亡後に徳川家へと戻り、更にその後他家へと嫁ぎ(姫路城へ)、70歳の天命を全うしたという生涯から逆算したセリフだったと思えます。
きっと千姫は、秀頼との別れなど決して望んでいなかったと。
皆さんはどう思われますか?
それにしても千姫役の永野芽郁(16)さんは可憐で可愛いですね。
私は永野さんという方を全く知らなかったのですが、このドラマ上の可憐さが、彼女の性格そのままではなく、全くの演技だとしたら、素晴らしい演技ですよね。
(一言:褒めてるんだか?疑ってるんだか?)
秀頼と千姫
永野芽郁さん
この画像を見る限り、けっこうはっちゃけた女の子のように思えますが・・・・・。
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〜真田丸:真田庵の山門を潜った所で目の位置を9mまで上げれば街並みが〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今年12月3日に真田昌幸・幸村・大助らが幽閉されていた真田庵こと善名称院(ぜんみょうしょういん)に出かけて、棒の先にカメラをくっつけて撮影した画像を、これまで2ページでご紹介しました。
ですがそれらは魚眼レンズによる撮影でした。
真田庵の山門を潜り抜けて直ぐに見える光景としては、今回ご紹介するのは真田地主大権現越しに見る本堂の姿で、真田庵を訪れた方が素直に境内に足を踏み入れた時に見る光景でしょう。
ですが、その位置から9メートルの高さまで目の位置を上げて行けば、どんな光景がみえるでしょう?
それは、九度山町の民家の中にある真田庵です。
その光景の撮影には、やはり魚眼レンズから広角レンズへと交換しての撮影が適切です。
柿の木と松と真田庵(人目線で撮影)
真田地主大権現越しに見る真田庵(高さ4メートルから撮影)
真田地主大権現越しに見る真田庵(高さ6メートルから撮影)
真田庵と真田地主大権現と九度山町の街並み(高さ9メートルから撮影)
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〜旧我家解体記:室内のゴミ・廃材・残土などの処理は来る日も来る日も続き〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
〜旧我家解体記:室内の片づけにはゴミや廃材がいっぱいで気が遠くなるほど〜では旧我家の解体作業の作業工程の中で、ゴミや残材が想像以上の多く、その処理が大変だったことに触れました。
今回はゴミ・廃材がどれほど多く出たのかを見て頂くための先回の続きで、今年4月時点での解体の進行状況をご紹介します。
まずは先日ご紹介した台所と応接間の壁が写る1枚目の画像と、2枚目の4月22日時点で撮影した台所と元応接間の写る画像を比べて頂くと、1枚目の画像では台所には沢山のゴミやガラクタ・段ボール箱が山のように残っており、応接間には部屋を囲む壁や白い天井材がまだ残っているのが見えます。
更によく見ると、台所の奥にはまだ食器棚やキッチンのシンクが残っているのがお分かり頂けるでしょうか?実は1枚目の画像では、大型出窓や換気扇もまだ残っています。
また応接間の壁は、化粧ベニヤ板で覆われれていますが、それを剥がすとやはり土の荒壁が現れます。
これに対して2枚目の画像では、元台所だった部屋が、台所だったとわからないほどスッキリしており、応接間を囲っていた壁は見えず、白い天井材も取り払われています。
ですが元応接間には、1枚目の画像で台所に山積みになっていた段ボール箱は潰して板状にした上で束ねて積み上げ、ゴミなどはポリ袋に詰めて置かれているのが写っています。
作業は着実に進んでいるのがお分かり頂けると思いますが、それでもまだまだ処分すべき物が山のようにあることがお分かりいただけるでしょう。
段ボールの束は平積みにして軽トラックの荷台一面に及ぶ量でしたが、古紙を引きとる業者に持ち込んでも、2百数十円の値段にしかなりませんでした。
また6枚目の画像や下から2枚目の画像には、元私の部屋に外壁を剥がして出たモルタルや土の荒壁を壊して出た残土が山積みになっているのがお分かり頂けるでしょうか?
あの残土は全て壁土で、屋根土は含まれていません。
〜旧我家解体記:屋根瓦と屋根土を降ろせば、透け透けのスケルトンハウス〜でご紹介した画像で玄関に集積してあった屋根土は屋根の解体工程、つまりこの後の段階で玄関に集積されるのです。
軽トラックを正面から写している画像や、2トンダンプの荷台が写る画像をご覧頂ければ、まだ屋根の瓦が残っているのが分かります。
元私の部屋に山積みされた土壁の土は、一見するとダンプ一台で全て積め込める程度の量のように見えますが、実際にはその2割ほどが残ってしまいました。
土にしろ、モルタルやコンクリート片にしろ、2トンダンプ一車に積み上げて、処理業者に持ち込むだけで、まる一日かかってしまいます。それもマイペースな作業ではないですよ、必死にかき集めて乗せて、やっとこさで。
でご紹介した台所と応接間前の画像
●4月22日撮影の画像3枚●
画面左が元台所、画面中央は元応接間
元台所はかなり片づきましたが、元応接間には段ボールの束やゴミなどが山積みです。
画面中央は元居間、旧我家で一番広い部屋でした。
ポリ袋の中には布類やプラスチック類が、木箱には古釘が
●4月24日撮影の画像4枚●
壁は全て無くなってもゴミや廃材の処理はまだまだ
土壁を全て壊すとこんなに残土がでるんですよ。
廃材や残土に囲まれ、休憩にはスナック菓子とドリンクで。
●4月26日撮影の画像2枚●
土やガラ、モルタル片を積む前の2トンダンプ荷台
画面左奥の元私の部屋には、モルタル片や土が山盛り。
もちろんダンプはレンタルです。ただし無償で。
この日ダンプに積んだのは、この山のような土ですが、全ては積めなかった。
●4月29日撮影の画像1枚●
台所だった部屋から正面を望む
画面左側の元応接間に積まれていた段ボールの束と、
元私の部屋に山積みされていた残土が無くなっているのがわかるでしょうか?
画面右の枠には大型出窓がはめ込まれていました。
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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〜真田丸:第48回放送『引鉄』では、和睦後の豊臣・徳川の水面下の動きが〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』では、大坂冬の陣が豊臣・徳川間の和睦による休戦状態となり、双方の水面下の動きが描かれました。
家康は濠と真田丸を排除したことで、後は豊臣が再軍備の動きを見せるのを手ぐすね引いて待ちかまえます。
対して豊臣方の大阪城内では幸村が、徳川は戦を止めたのではないことを百も承知で次の策に思いをめぐらせますが、他の浪人衆は大坂城を去ることも無く再びの決戦に向けた決起の思いを治めることが出来ずにいました。
ドラマの冒頭、幸村は夜陰に乗じた少数兵による家康本陣へのゲリラ戦を慣行させることで家康に身の危険を覚えさせることで本陣から家康が出るように仕向けます。
この期に幸村は佐助を使って家康暗殺を謀りますが、佐助が討ったのは影武者でした。
家康はこの幸村の策に激情して総攻めを慣行することもなく、豊臣方が明らかな再軍備の動きを見せるまで待つ構えを見せ、駿府へと戻ります。
これにより大阪城にはつかの間の平穏が訪れ、長曾我部元親は家臣と語らい、毛利勝永は妻や嫡子との団らんの時を持ちます。
幸村もまた徳川方の矢沢三十郎・小山田茂誠や信之の子息である真田信吉・信政との対面を果たします。その場には大助の姿もありました。
信吉は大助と親しく語らいますが、信政は「大助もその父も、(同じ真田)一族などと思ったことは無いは!」と言い放ち、大助をなぎ倒して襲い掛かります。
信吉はこれを止めようとしますが、手におえません。
信政と大助の争いがエスカレートしようとしたその時、幸村・三十郎・茂誠が現れ、茂誠は「何事だ!」とこの争いについて問いただします。
信吉は茂誠の問いに対して「相撲をとっておりました。」と答えますが、三十郎は「よし、俺が相手だ。」と三人の争いに割って入ることでその争いを納めます。
その後幸村は茂誠に対して野戦での戦い方を尋ね、茂誠は野戦で大将を狙うには鉄砲が良いのではないかとアドバイスします。
信之側の真田の者との会見を終えて幸村が大坂城に戻ってみると、春・きり・堀田作兵衛らがかつて利休の茶室のあった場所で畑仕事をしています。
これを見た幸村は、自身も大助共々畑仕事を手伝おうとしたその時、作兵衛が畑の下から箱を掘り当てます。
その箱には利休のマークが入っていました。そうです、以前当ブログでも触れた利休の生家である堺の豪商の屋号:とと屋から三谷さんが思いついたと思われる魚の象形文字のようなマーク。それが箱に刻まれていたのです。中には短筒が二丁入っていました。
『NHK大河ドラマ 真田丸』では、利休は武器商人として敵方であった北条家に鉄砲玉の原料となる鉛を売っていた罪が露見し、斬首されるという設定が描かれました。
そして今回単筒が二丁利休の茶室跡地から掘り起こされたのです。この後の大坂夏の陣において、敵方の大将:家康を討つことだけが戦に勝つただ一つの方法だと考える幸村にとっては、都合良すぎる設定ですが、ドラマとしては面白い設定です。
毛利勝永にこの短筒を見せたところ、勝永は「これは馬上筒というものだ。イスパニヤ人から聞いたkとがある・・・・。」と語ります。
これで家康を討つ算段は出来ました。
しかし大坂方には更なる問題がありました。決起にはやる浪人衆の早まった行動を押さえなくては幸村の策も徒労に終わってしまいます。
しかしそんな幸村の悪い予感は早々に現実化し、大野治房は城内の藏を破って金を強奪したため、他の浪人たちへの不公平感を招かないために皆にも金を分け与えますが、その金で浪人衆は武器を買い集め、あげくの果てに濠を掘り返す行動を起こします。
これにより家康の思惑は貫徹し、家康は諸大名に戦支度を命じます。
幸村が小山田茂誠に託した手紙が信之に届き、信之は幸村が家康と刺し違えて死ぬ気であることを気取ります。
そして今回のドラマは、幸村が馬上筒を構えて、標的を討つシーンでエンディングを迎えます。
いよいよ次回のドラマでは、最終決戦、大坂夏の陣へと突入します。予告編では徳川の忠犬になり下がった伊達政宗との対決シーンがあることを予感させました。
『NHK大河ドラマ 真田丸』では、これまで独眼竜らしからぬキャラクターとして描かれている 政宗ですが、果たして次回では独眼竜政宗らしい姿が描かれるのでしょうか?
そしてきりと幸村は結ばれるのでしょうか?
三谷さん、お願いしますよ、政宗のイメージを壊さないでくださいね。
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