|
〜住宅ローン返済記:バブル景気初めにローン返済が始まり、やがて株大暴落〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
初めに、今回以後の住宅ローン返済記に記す当時の時代背景は、どこか今の状況によく似ている気がします。当ブログの訪問者の皆さんには、そんな事も念頭に置いて読んでいただき、その共通点や是非を知識として吸収し、自ら考察することをお勧めします。
そうすることが、今から、もしくは今正に住宅ローン返済を無事完済する上で有益となるのでは?と思っています。
私にとっての住宅ローン返済は、1986年(昭和62年)8月7日から始まります。
バブル時代の始まったのが1986年(昭和61年)12月であることから、その始まりの半年以後から返済が始まりました。
上の画像でお分かりのように、当時住専と呼ばれた住宅金融専門会社から借入額1100万円、年利7.14%、返済年数25年、
(一言:現在の大手銀行での住宅ローン金利は2.475%ですから、とんでもない高金利ですよね。)
返済額は月々78,730円、ボーナス払い無しでした。
この月々の返済額は、一般的な?賃貸マンションの家賃程度で、当時の時代的雰囲気の中では、大騒ぎするほどの額ではないように思えましたが、今の私の感覚で言えば、とんでもない大金です。
時代とその時々の年齢、立場などによって、経済観念は大きく変わって来るのです。
このような自身の中での経済感覚の変化は、今正に住宅ローン返済が始まった方々にとっては、いずれ体験する事になるのかもしれませんね。
当時の私は、バブル景気による住宅需要の高まりや、高速道路の用地買収による土地成金が多く現れたことにより、建築に携わっていた私も比較的高い収入を得ていました。
旧我我家には独身の私と弟に両親の4人で暮らすこととなります。
父はまだ50歳代と若く、生活費は概ね父の収入で賄われ、弟も既に就労していたため、私は母に月々5万円を手渡していましたが、残りの稼ぎは自由に使う事ができました。
従って当時私はローンを返済した残りのお金の大半を株式投資に費やして運用していました。
ご存じのようにバブル時代の当時は株式を買えば、必ずと言っていいほど値上がりしました。
なので数字の上では蓄財は増えていたはずなのですが、現金として手元あったわけではなかったので、それによって色々と贅沢できたかと言うと、全くありませんでした。
常に株式相場が気になり、実際の損金は出ていないのに、値上がり前の銘柄が買えなかったり、直近の高値で売り抜けなかったりするだけで損をした気がする。
更に手持ちの株が急落すれば、それを取り戻そうと借金をしてでも株を買い増ししたくなる。
それが株式の怖いところです。
(一言:ちなみに私、お酒は好きですが、ギャンブル、女遊び、タバコ、ゲームなどには、長い人生の中で一度もはまった事がありませんが、株取引についてははまってしまい、面白いと思いました。時代の流れや動きを知り、投資すると言う事は、面白いと。)
ですが今にして思えば、現金にすれば何百万円もの蓄財があっても、相場が気になり、損をしていなくても損をした思いが常にあり、心がそのことに振り回されて休まらない。そんな日々でした。
しかし当時の人々は、バブル景気が経済実態に即したものではなく、泡のように空気で大きく膨らんでいるに過ぎないことに気付かず、誰もがこの好景気は多少の落ち着きを見せる局面はあるものの、恒久的に続くだろうと信じて疑わなかったのです。
ブラックマンデー - Wikipediaによれば、
この好景気が始まって2年後、1985年1月のアメリカがユネスコを脱退した翌月の2月、NY株価は過去最高の1300ドルを記録、日本株価は、1989年12月29日 - 算出開始以来の最高値(ザラ場 38957.44円、終値38915.87円)となります。
ところが同年12月に今度はイギリスがユネスコを脱退した翌月の1986年1月に一部の泡がはじけます。ブラックマンデーです。
この大暴落の発端は、アメリカ海軍の艦船がイラン・イラク戦争において、アーネスト・ウィル作戦としてクウェートの保有するアメリカ船籍の石油タンカーの護衛についていた際、イラン側から攻撃を受け、1987年10月19日に、そのことを理由としてイランの持つ2つの油田に対し報復をしたことでしたが、 本当の要因は、アメリカの貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたことや、1985年のプラザ合意以後のドル安を打開するためにドルの金利が引き上げられる観測が広がっていたこと、そしてブラックマンデーの2ヶ月前、FRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれていたことなどは株価下落の要因として挙げられています。
ブラックマンデーで日本のバブルの一部ははじけ、株価は大幅安となりますが、私の持っていた銘柄の多くは極端な影響を受けず、手持ちの銘柄を合算するとおよそ1万株(仕手銘柄の船舶株も多く含む)、金額にして1000万円近くになっていました。
しかし1991年、ついにバブルが完全崩壊し、平成不況(第1次平成不況)へと経済状況は後退します。
バブル崩壊 - Wikipediaによれば、
バブル崩壊の原因は、
経済学者の田中秀臣は「日銀がバブル潰しのために金融引き締め政策を行い、その結果1991年にバブルが崩壊した」「日銀が金融引き締めを行ったため、市場から株・不動産を買うための資金が一気になくなり、株価・不動産価格が暴落したのがバブル崩壊の真実である」と指摘している。田中は「1989年の消費者物価指数上昇率は、総務省の統計によると2.3%とされているが、消費税の影響を除いた実質的な物価上昇率は、1%以下と見られている」と指摘している。
経済学者の高橋洋一は「当時のバブルは資産市場にだけ金が流れ込んだため、資金規正で潰すだけで金融政策の対応は必要なかった」と指摘している。
高橋は「インフレ率からは正当化できないにもかかわらず、金融引き締めを行いバブルを潰そうとしたのは、日銀の失敗である。結果的にバブルではなく、日本経済全体を潰してしまった」と指摘している。
と記されています。
つまりバブル景気は、これ以上のバブル増大を防ぐ目的で政府が言わば針で突くような政策を行いますが、結果的にはバブル部分以上の部分までも潰してしまい、長きにわたる平成不況へと突入することとなった。と、言うことでしょう。
かくして経済は一気に冷え込み、地価は暴落、住宅価格も下落して行きます。売れないからより安くするという悪循環で。
当然この影響は私の収入の減少にも直結してゆきますが、私はまだバブル景気後の不況のどん底が、どこにあるのかの判断を見誤っていたのです。きっと当時の人々の大多数がそうであったように。
皆さんは今回の話を読んでいただいて、何か思うことはありませんでしたか?
「株式で1000万円ほどの蓄財を得ていたなら、それを全て売れば1100万円借り入れた住宅ローンの殆どを返済できるじゃないか?」と。
ですがそうは思えなくなるのが、バブル景気だったのです。
つまり、「ローンを返済するよりも、マネーゲームを続けなければ損だ。本業で稼げなければ尚更・・・・・。」と思ってしまう。
そんな時代だったのです。
そして私もまた・・・・・・。
今回のお話は、ここまで。
|
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
〜住宅ローン返済記:住宅ローンは職業柄、金利の安い銀行からは借りれず〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
マイホームを購入するための頭金となる資金を貯め始めた頃の収入は、高校卒業後に就職した印刷会社での月額約10万円前後(ボーナスも10万円の年2回)でした。
年収にすると、たった140万円です。
いくら食費を削って頭金を貯めていったとしても、果たしてこんな収入で住宅ローンを借りる事が出来るでしょうか?
答えはNOです。
じゃあ私はなぜ旧我家を購入することができたのかと言うと、印刷会社に7年務めた後、より多くの収入を得られる職業に転職したからです。
皆さんもご存じだと思いますが、住宅ローンを借り入れるには、そのローンを返済する能力があることを証明するために、3年間の年収(前々年度・前年度・東燃度)をローン申込書に前年度の年収を記載しなければならず、その年収を裏付けるため支払証明書を添付しなければなりません。
旧我家を購入した頃の私の職業は、瓦職人(屋根工事)で、これは蛙の子は蛙という諺通りに、父がそうであったことから、幼い頃よりその手伝いを折りつけしていたことから自然に身に付いていた仕事だったのです。
そこで旧我家購入当時の年収を証明する住宅ローン借り入申込書に添付した支払証明です。
ご覧の通り当時の年収は約387万円。時は、昭和61年(1986年)です。
これなら人並みの年収で、ローンの返済が可能な年収と金融会社に認めてもらえる。と、言えるでしょう。
バブル景気 - Wikipediaによれば、空前絶後の好景気に沸いたバブル時代は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までのまでの51か月間(2年と7か月)とされていますが、
そしてその拡大期の始まりは、おおむね、1986年12月からだそうです。
ということは、私が旧我家を買うための所得証明の昭和61年(1986年)は、正にバブル景気の始まった年です。地価の高騰が、東京から既に始まりつつありました。
ですが少なくと1987年(昭和52年)の春までは、東京での地価高騰は、大阪圏に極端な影響が及んでいませんでした。
では堺市近辺では当時どのような事が起こっていたかと言えば、近畿自動車道 - Wikipediaによれば、1987年(昭和62年)3月3日 : 東大阪JCT - 八尾IC開通し、1988年(昭和63年)3月17日 : 八尾IC - 近畿自動車道の松原JCT開通し、全線開通。同時に西名阪自動車道と接続。
阪和自動車道 - Wikipediaによば、1989年(平成元年)3月29日 : 松原IC - 美原北IC間 開通(全線6車線)。
1990年(平成2年)3月29日 : 岸和田和泉IC - 阪南IC間 開通(全線4車線)。
1991年(平成3年)12月7日 : 美原北IC - 堺IC間 開通(全線6車線)。
1993年(平成5年)9月25日 : 堺IC - 岸和田和泉IC間 開通(全線4車線)。
1994年(平成6年)7月11日 : 一般国道42号湯浅御坊道路の吉備IC(現・有田IC) - 広川IC間 開通(当時は全線2車線)。
と、通勤のための高速道路というよりも、休日のレジャーに出かけるための高速道路が南紀方面へと延されそのための用地買収による土地成金が多数生まれました。
(一言:高速道路建設のための用地買収は、上記の区間開通の数年前から用地買収が行われますから、1987年(昭和52年)には既に用地買収を終えていたことが 想像できます。)
私の旧我家近辺での具体的なエピソードで言えば、旧我家へ引っ越した当初、町内会の寄合に行ってみると、近畿自動車道の用地買収に町が共有する農業用ため池が買収され、町内会に2億年が入ったことを知らされました。
堺市中区八田北町という小さな町内のストック金が2億円だなんて、凄すぎるとおもいませんか?
ほとほとさように、住宅用地であるにせよ、公共の用地であるにせよ、多くの地主や自治会にはその用地買収による多額のお金を手に入れた時代でした。
そしてそのようにして多額の買収金を手に入れた地主たちは、税金対策もあって、二階建ての入母屋=錣屋根(しころやね)の豪邸を数多く新築しました。
従ってこの頃の私の仕事(屋根工事業)は、年中多忙で、私の高収入を約束してくれていたのです。
ですが、銀行さんから見れば、やはり建築業の職人は、会社員に比べて極めて収入が不安定な職業としか見られず、銀行は住宅ローンを貸してはくれなかったのです。
そこでやむなく借りた先が、日本ハウジングローン(株)さんでした。
また、住宅金融専門会社 - Wikipediaによれば、
日本において一般個人(給与所得者世帯)向けの住宅ローンは、前出の通り1970年〜1980年代に住専が担っていたものは徐々に銀行ら預金取扱金融機関による住宅ローン(不動産担保付融資)へシフトして行った。預金取扱金融機関での貸付金利は市場金利(プライムレート、公定歩合、国債金利など)と連動していたが、借入に際しての職業・年収・頭金や他債務の比率など借入者個人に対する基準が厳しかった。そのため、融資の条件が適合しない者を中心に、借入者に対する基準が緩やかで、段階制金利制度や住宅政策などにより貸付金利が低廉であった住宅金融公庫による融資(住宅公庫融資)のシェアが2001年頃まで圧倒的に大きかった。しかし、公庫融資は民業を圧迫するという批判が燻りながらもあった。
2001年に小泉政権が発足すると行政改革の推進により、2007年に独立行政法人住宅金融支援機構が発足・承継され、公庫融資は実質廃止されることになった。代替策として2003年からフラット35の名称で知られる「証券化支援事業」が導入された。
「買取型」を例にすると、住宅金融支援機構と提携した銀行など預金取扱金融機関や新たに設立された(住専とは全く接点のない)モーゲージローン専業会社が住宅購入資金を直接融資し、その債権を支援機構が買い上げ、公取得債権を纏めさせたものを裏付けに不動産担保証券を発行(証券化)し、機関投資家に売却する。これにより支援機構が調達した資金を、モーゲージローン会社など融資実行者に買付相当額を売却(資金供給)し、債務者は毎月融資実行者に返済して行く仕組みとなっている。この資金調達は住宅支援機構の信用力がバックボーンにあり、銀行単独では超長期間固定での資金調達が難しいとされる中、最長35年間固定金利のフラット35を開発することになった。 |
|
〜住宅ローン返済記:家を買ったら税務署から購入資金を訪ねる封書が来た〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
前回の『住宅ローン返済記』で予告したように、今回は、『家を買ったら国税税務署から購入資金を訪ねる封書が来た』というお話です。
以前当ブログにおいて、現在の家にまつわるお話として、〜家を購入すると、国土交通省からこんな調査票が送られて来ます〜において家を買うと国土交通省から地価の動向を知るための調査書が送られて来ることをご紹介しましたが、堺市にあった旧我家を購入した時には、そのような封書は送られて来ませんでした。
それもそのはずです。そのような調査が行われるようになったのは、平成8年からなのですから。
その代わりと言っちゃあ少々物騒なのですが、旧我家を購入して移り住み、暫くすると、国税庁から一通の封書が届きました。
それは、旧我家を購入するための資金はどのようにして捻出したのかを訪ねるものでした。
その封書が送られた理由は、怖い怖い国税庁から送られて来たことから言わずとも想像がつきますよね。
そうです、その封書は、不動産購入のための多額の資金が、正しく申告された収入によって支払われた物かどうかを確認するための調査書だったのです。
もっとあからさまに言えば、「あなたは家を買う程の収入を得ているのに、もしやそれを申告せず、脱税(所得隠し)をしたんじゃあないでしょうね?」と問いただすための調査書と言ってもいいでしょう。
もし仮に、脱税の伴う資金でマイホームを購入したとしたら、そしてその事が国税庁に知れたら、どうなると思います?
そうです、その者には追徴課税が課せられるのです。怖いですねー、ゾーッとしますねー。
自宅を買うと、税務署から「お買いになった資産の買い入れ価格などについてのお尋ね」との文書が届くことがあり、
これは、不動産の登記が行われると、その旨が法務局から税務署に通知され、 その事実に基づいて「お尋ね」が送られてきます。しかしこれはいわゆる「税務調査」でもないので、それほど驚く必要はありあません。不動産を現金で購入した方に届くことが多く、住宅ローンを組んでいる方にはほとんど「お尋ね」は来ないようです。
(一言:私はかつて旧我家をキャッシュで買ったわけではない。ちゃんとローンを組んで購入した。ならばなぜ税務署から「お尋ね」が来るのだ?理不尽な。)
● 税務署からの「お尋ね」があった場合のその内容は?
主に
①住宅の購入時期や価格
②買った人の職業や年収 ③購入資金をどうやって用意いしたかなど などを尋ねられ、とくに③の「購入資金をどうやって用意したか」がポイントとなるそうです。
たとえば、夫婦で4000万円のマンションを購入したとします。 夫と無収入の妻の共同所有という不動産取得登記(持ち分2分の1づつ)がされた場合、税務署から「お買いになった資産の買入価額等についてのお尋ね」の用紙が送られてくることがあります。税務署としては、無収入の妻がどうやって不動産購入資金を手当てしたのかが気になるわけです。(妻の収入がゼロまたは少額であることは、夫の所得税申告にある「配偶者控除」により税務署はきちんと把握をしています)
不動産の購入資金は実は全額夫の収入から得たお金であるが、登記は夫婦共同所有(持ち分2分の1づつ)とした場合には、夫から妻に贈与が行われたものとして贈与税がかかることになるそうです。
つまり税務署からの「お尋ね」は、贈与が行われているかどうかの確認のためのものなのです。
例えばその資金が独身時代の収入を貯金したお金だったとか、親から贈与(「住宅取得資金等の贈与の特例」を活用して行う贈与が一般的です)されたお金を財源として、妻が不動産を購入した、という場合には、その事実を用紙に記載して税務署に提出すれば合理性があるものとして税務署は認めてくれるでしょう。 合理性のない回答書を税務署に返送すると、税務署から改めて日を指定して「税務署にきてください」という通知が届くことになります。そこで、事情を聴かれて、資金の不明確さが分かれば税金を納めることになります。 面倒を避けるためには、2つの方法がございます。 ①不動産購入資金の負担割合と、住宅の名義の割合をそろえて登記すること。
夫が資金を全額拠出するなら、登記名義も100%として、夫の単独名義にすれば問題ありません。 ②資金負担と違う割合で持ち分登記するなら、ずれた分にあたる金額について夫婦間で「金銭消費貸借契約書」を作成し、実際に妻から夫に返済していきましょう。
また、不動産の取得後に税務署から「お尋ね」が来たら? [住宅購 …...によれば、
(一言:つまり私がかつて旧我家を買った事に対して、「低い所得の申告をしているくせに、なぜ家が買えるんじゃ?怪しい、怪し過ぎる。」と税務署に疑いをもったれたのです。)
皆さんにも不動産を購入したときに「お尋ね」が来る可能性も十分にありますから、購入資金を作った経緯で不正を行っていない事を立証できる状況でなければなりませんよ。 ただし、「お尋ね」に関する取り扱い基準などは、すべてが明らかにされているわけではないそうです。
● お尋ねの目的は?
「お尋ね」では、住宅の購入価格やその支払い方法、購入先、前年の所得金額、購入資金の調達方法などを回答することになっていますが、それらによって未申告の贈与がないか、脱税による隠匿資金がないかなどがチェックされます。
本人の申告所得や給与収入などと照らし合わせ、不釣合いなほど高額な住宅を購入していたり、返済に無理を生じるような住宅ローンの借り入れをしていたりすれば、当然ながら税務署は疑いの目を持つわけです。 また、購入した住宅に対する「売主の収入」や「媒介業者の手数料収入」などに申告漏れがないかどうかのチェックにも使われていることでしょう。不動産取引の相手側も絡んで来ることですから、虚偽の回答はいけません。 ● お尋ねに解答しないとどうなる?
「お尋ね」に対する回答は法律に定められた義務ではなく、回答しなくても何ら罰則規定はありませんが、税務署が少しでも不審に感じれば、さらに念入りな税務調査に発展してしまう可能性もあるため、やましいところがないかぎり正確にきちんと回答すべきものです。
当初から税務署が不審をいだいた相手が回答しないと、何度も繰り返して「お尋ね」が送付される場合もあるらしいですよ。 なお、納税義務の有無に関わらず、もし贈与税の申告漏れが発覚したとしても、それによって税務署が直ちに税金の徴収にやって来るわけではなく、まずは申告の指導(申告方法の説明)などが行なわれるようです。 ● お尋ねが来たときへの備え 購入資金の出どころについて、裏づけのある書類をしっかりと保管しておくことが必要です。自己資金であれば預金通帳や定期預金計算書、借入金であれば金銭消費貸借契約書(住宅ローンの契約書)、不動産その他資産の売却代金であればその契約書や明細書などです。
また、親などから「借金」をして購入資金を調達した場合には、返済期間、返済方法などを記載した借用書(または契約書など)とともに、一定の利息を付して定期的に返済している事実を証明する何らかの書類を用意しておくことも必要です。 それらがないときには、たとえ当人同士は貸し借りのつもりでも、贈与とみなされることになりかねません。 ある日突然、税務署からの「お尋ね」が来るとびっくりしてしまうかもしれませんが、その段階ではまだ税務調査や査察などではありませんから、住宅購入資金にやましい点が無いなら、落ち着いて対応しましょうね。 ちなみに私の場合は、〜住宅ローン返済記:マイホームを買う決意と頭金を作るための方法は?〜で記したように、早くから食費を削ってまで貯めたお金で利率のいい国債を幾度か買って貯金を殖やし、そのお金の一部でNTT株を買い、これを高値で売って中古物件購入の頭金にしたのですから、税務署から「お尋ね」が来てもビビる必要は全くありません。
(一言:税務署という文字にちょっと驚きましたが・・・・・。)
なのでその経緯を正直に記しました。
(一言:残念ながら実際の「お尋ね」書は送り返してしまったし、それをコピーして残すという知恵もこの時浮かばなかったので、「お尋ね」が来た事を証拠立てる物は残っていません。)
その後申告の指導(申告方法の説明)や追徴課税などが来なかったことから、税務署も納得してくれたのでしょう。
皆さんも住宅購入にあたっては、不正の無い、綺麗なお金で購入して下さいね。
でないと、恐ろしいことに・・・・。
今日のお話は、ここまで。
旧我家購入時の売買契約書内容の一部
買主たる私のここにある住所は、それまで住んでいた文化住宅の住所で、
今はもうその文化住宅は取り壊されて存在しません。
|
|
〜直虎:『消された種子島』では鉄砲を領内で造ると決めた直虎に対し政次が〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おんな城主直虎編
〜直虎:『綿毛の案』では政次に反発しつつも直虎は、その知恵を活用し〜の文末で記したように、前回放送の『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第16回放送『綿毛の案』のエンディングでは中野直之が種子島(火縄銃)を直虎に見せたシーンで終り、
恐らく直之のこの行動の意図は「これまで活用されなかった荒地を耕しで綿の栽培に成功したことで領内が潤い安定すれば、次は井伊家がこの後戦国の世に打って出るための手立てとして火縄銃を持ち込んだと推察でき、
それはつまり、いよいよこの後のドラマ展開が、井伊が天下に名乗りを上げて突き進む段階に入ったことを象徴するシーンだと言えるでしょう。」と記しました。
戦国時代における井伊家は、昨年放送された真田家と同じく大名ではなく、遠江の中の井伊谷を中心とする小さな地域を領土とする国衆でした。ドラマの中に登場する井伊家家臣の数も、数えるほどですよね。
従ってそんな小さな存在が、戦国大名のように他国に攻め入り、領土を拡大するために、直之は鉄砲を手に入れたのではありません。
領土を広げる気がなくとも、戦って今ある領土を守らなければ外敵から攻め込まれますし、今川のような大名を主家として従属していても、その命によって他国と戦わなければなりません。
好むと好まざるとにかかわらず、国衆と言えども武力をもって自領を守らなければならない。それが戦国時代だったのです。
ということで今回放送の『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第17回放送『消された種子島』のお話です。
オープニングでは、種子島(火縄銃)という武器を見た事もなかった直虎の前で直之は、試し打ちでその威力を見せて言います。
「敵に近づくことなく、敵を仕留める事が出来る。これが、種子島にございます。今の井伊には、戦の采配を任せられる者も殆どおらず、武術の心得のある者も少のうございます。なれど、これならば、百姓でも訳なく使う事が出来ます。井伊にはうってつけの戦道具ではございませんでしょうか?」と。
しかし直虎は、種子島(火縄銃)の威力については目を丸くして納得したものの、直之よりその価格が一つ10貫と聴くや、
「ならぬならぬならぬ、さような・・・・それでなくても新しく来た者の面倒や何やで、借金は減らすどころか、増えるばかりなのじゃぞ。」と猛反発します。
ですがそれでも直之は、
「しかし今のままでは、」いざ戦となれば、あっという間にやられてしまいますぞ!それこそ、虎松様のお命も、とられてしまうかもしれませぬ。民・百姓を守れずして、何のご領主にでござりましょう。」と直虎にその必要性を説きます。
それでも直虎は、余りに高価な武器であるために、依然として多くの種子島(火縄銃)購入には反対します。
加えてその購入にあたって資金を提供する方久も、
「もちろん、ご入用とあれば、銭は私の方で用立てしますがー、実際に使うとなれば、玉薬も入用となりますし、それがまた高こうございますし、井伊には分不相応かと・・・。」と直之の考えを否定します。
これに対し直之は、
「戦備えは武家にとって最も重要な役目じゃ、銭の話ばかりするな!」と声を張り上げますが、
方久は、
「何事も先立つ物は銭にございますぞ。」と二人の意見は対立するばかりです。
すると直虎は、二人が考えもしなかったことを口にします。
「これ(鉄砲)を、井平(いだいら)で造ることはできぬのか?刀造りを命じておる井平は、優れた鍛冶の村と聴く、もしー造ることが出来れば、買うよりも安うあがろうし、それこそ、よそに売って稼ぐことも出来るのではないか?」と。
この直虎の考えに直之も即座に
「それでまいりましょう。」と賛同したのですが、
方久は、
「お待ち下さい。造ると言っても、綿を作るのとはわけが違うのですぞー。何より、手間も大そうかかりましょうしー。」と話の進展に水を差します。
それでも直虎が、
「しかし、造れる者もおるのだろう?」と食い下がると、
方久は、
「それはもう、○×△□・・・・。」と口ごもってしまい、
そこをすかさず直虎は、
「では、やってみなければ分からぬではないか。」と決まり文句で押し切り、とりあえず鉄砲を領内で造ってみるという案で決着。
早速直虎達は井平(いだいら)に出向いて刀鍛冶に鉄砲を見せ、「これと同じ物はできるか?」と話をしてみたところ、刀鍛冶は分からない仕組みもあり、難しくはあるものの「やってみなければ分かりまぬ。」と、職人魂をもって鉄砲造りに挑んでみることを了承します。
ですが鉄砲を井平で造ってみる事は、六左衛門には知らせずにおきます。
なぜなら六左衛門は、政次に問い詰められると、直ぐに白状してしまうからです。 一方今川家の本拠地である駿府では小野政次が、氏真に対して先ごろ寿桂尼が直虎を虎松の後見と認めたことについて異議を申し立て、改めてかつて後見役となるのは自身(直次)であるとの今川家からの公認が有効であることの確認をします。
氏真からの後見役の了承を得た政次が井伊谷の小野屋敷に戻ってみると、義理の妹であるなつの子の亥之助(いのすけ)が、先日直之が試し打ちした種子島(鉄砲)の弾が落ちていたのを拾い、
「変わった物をみつけたので、叔父上ならわかるかと。お分かりですか?」と政次にその玉を見せます。
すると政次は、亥之助(いのすけ)に対しては
「いやーっ、皆目わからぬ。」と答えながらも、子供を見る優しい表情から一変し、険しい表情となります。そうです、政次は一見してそれが鉄砲の弾であることを理解し、その上で亥之助(いのすけ)にはとぼけて見せたのです。
井伊領内が綿の栽培で借金返済のめどがたったのはよかったのですが、その次期当主となる虎松はというと、当主となるための教育が始丸や否や、囲碁(五目並べ)において誰にも勝てず、挫折してしまいまい、自分の立場から逃げ出してしまいます。
直虎はそんな虎松を「悔しくはないのか?」と叱咤しますが、それはかえて逆効果となり、母であるしのはそんな虎松をかばいだてします。
そこで直虎は、今は亡き虎松の父:直親が、幼き頃にカメと呼ばれ、笛を吹く事しかできないと自分で思い込んでいたが、成長して当主となった直親は、武に長けた立派な若武者になった事を虎松に話して聞かせます。
すると虎松は母:しのに対し「母上、虎松は勝ちたいです。勝って、父上のようになりたいのです。」と思いを新たにし、そんな虎松を「我に鍛えさせてほしい。」としのに許しを請います。
このような直虎の虎松に対する接し方を見てしのは、
「取って行かれる気がするのです。虎松を・・・あの子は直親様の血を継いでいるから。」と、
かつて次郎法師(直虎)に直親を心身共に奪われてしまうのではないかといつも恐れていた頃と同じ思いが芽生えている事を侍女に漏らしますが、侍女は
「直虎様は母上様には成りませぬよ。成るとすればー、父上でしょう。うん、何だかー、父親のようではこざいませぬか。」と諭します。
実際直虎は、直親の代わりに虎松を立派は当主としていることを自らの口で語ったのです。
しかし虎松との特訓を重ねても、虎松の泣き虫癖はそう容易くは直りません。
そこで直虎は、再び虎松と亥之助が五目並べで対決する直前、虎松に負けない秘策を」耳打ちします。
恐らくこの時直虎は、虎松に「何度勝負に負けようと、何度でも挑戦し続けることじゃ。」と言ったのせしょう。
まだ幼くおとわと呼ばれていたかつて直虎が、無事に駿府から井伊谷へと帰還する願いを聞き入れてもらうため、蹴鞠比べにおいて今川の嫡子:氏真こと龍王丸が鞠を蹴り損なうまで挑み続けた時のように。
その結果虎松の逃げ癖は解消されたのですが、そこへ井平の刀鍛冶から鉄砲とそれを真似て造ろうとしていた政策途中の試作品も紛失したとの知らせが届き、更にその直ぐ後に政次が鉄砲と試作品を持って現れ、鉄砲を造らせようとした直虎には謀反の疑いがあることを今川に伝えると脅します。
そして、「助けて欲しければ、自ら後見を降りよ・・・・・・それが、井伊のため、そして御身のためだ。」と迫り、
政次らと直虎・直之らは睨みあい、一触即発の状況となったまま、今回の放送は終ります。
つづく。
|

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組







