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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜住宅ローン返済記:マイホームを買う決意と頭金を作るための方法は?
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編          

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そもそも人がマイホームを購入したいという思う執着心は、どこから来るのでしょう?
夢?家族への思い?安住の場所?それともステータスでしょうか?
それは人それぞれでしょうが、私の場合は社会人となる前に痛感した持家が無いことの惨めさや、それを取り戻したいという執念だったように思えます。

ところでマイホームを購入するには、まずはその頭金を貯める必要があります。
私の場合それは20歳代前半に始まります。

私が生まれ育った家庭は貧乏でしたが、あばら屋ながら大阪市住吉区墨江(現在は地名が遠里小野となっている)に平屋の一戸建てに住んでいました。
私が高校生の頃には父は屋根工事の自営業を営み、約8人の従業員を雇う親方となり、私は私学の清風学園に通わせてもらえる程度の財力がありました。
ところが私が高校を卒業する頃に家業が破産して夜逃げとなり、借金取りから逃れるために住処(すみか)を1年に9回も転々とするはめに陥ります。
具体的に言えば、家族が転々としたのは、概ね家賃の安い文化住宅です。
債権者が移り住んだ家を探しあてて正月三が日に借金取りに来たこともありました。
そんな理由もあって私は1977年(昭和52年)に高卒で大阪市阿倍野区の印刷会社に就職すると共に京都市左京区にある夜間の短期大学に進学し、左京区のプレハブ住宅に下宿します。

月給としての収入は手取りで8万円程度で、支出としては概ね学費が国立校だったために年間4万8千円、下宿代は月額8千円、プラス大阪から京都市左京区まで通う交通費と食費が最低限必要でした。
以下にその証拠となる当時の給料明細書や定期券の画像を紹介しています。
当時の私は何でもかんでもスクラップに張って保存する週間があったために、このような資料が残っているのですが、残念ながら京阪電車の定期券は一枚もみつかりませんでした。
大昔のことなので覚えていませんが、京阪電車の定期券が残っていないのは、新たな定期券を買うには使用済みの定期券を返却しる必要があったからだと思われます。
そこで確かに京阪電車で京都に通っていたことを証拠づける定期券購入のための通学証明書の画像を紹介しておきます。

細かい話になりましたが、要するに一家が破産したために高校卒業後に就職し、同時に夜間短大に通ったのですが、安月給で生活に必要な学費・交通費・生活費などの全てを自力で払っていたのです。
なので貯金など普通の社会人や学生さんのようには貯まるはずもありません。
夜間短大の授業は一日3時間程度、昼の大学のように選択科目だけに出席するために空き時間が多いという訳には行かず、授業が終わると夜9時頃になるのですが、極力授業を終えて下宿で自炊をしていました。
それでも貯金はきついのですが、会社での昼食を抜いたり、2百円以下の立ち食いうどんなどで食費を削り、欲しいものを買ったり、クラブ活動の山登りの費用を貯めたり、貯金に回していました。
そのように爪に火を灯すようにコツコツと貯めた数十万円の貯金を、私は当時金利が高かった国債購入にあてたのです。
当時の5年物国債などは、その5年間に元金が1.5倍になりました。
そのようにして何度か買った国債により、いつしか貯金は百万円を超えるようになります。
おりしも時代は伝説のバブル時代に突入しつつありました。
ウィキぺディアによると、バブル期は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月です。

そんなバブル時代初期、NTT株上場の日がやって来ます。
国債購入のために若くから証券会社に出入りするようになっていた私は、窓口でNTT株購入を薦められ、一株購入したのです。
NTT上場に際して、抽選により購入資格を得、政府保有の185万株(※)が第一次売出として1,197,000円で投資家に売却されました。
そして上場日、1987年2月9日は売買が成立せず、2月10日に1,600,000円の初値が付きました。
当時、夜間短大で知り合った友達は、私が「NTT株を買った。」と言うと、「1株120万円もする株をかうなんて、アホちゃう。」と皆に言われたものです。
結局NTTの株価は、終値で318万円が最高値となるまでに値上がりしたのですが、私はこれを310万円で売って堺市中区の中古物件購入の頭金にあてたのです。
当時私が「NTT株を310万円で売った。」と知り合いに言うと、「その内400万円になるのに、アホやなー。」とまだNTT株を持ったままの人に言われたものです。
でもそんな人は、その後株価が下がり、バブルが崩壊しても、NTT株を売りぬくことが出来なかった人が殆どでした。
ちなみに私が当時買った株はNTT株だけではなく、他にも数銘柄の株も国債を売った資金で購入していて、これらの一部も売って初めてのマイホーム購入の頭金にあてたのです。

時は1987年(昭和62年)7月1日、この頃1986年(昭和61年)12月に始まったバブルにより、東京圏では狂乱地価が始まっていましたが、関西にはまだ殆ど波及していませんでした。
だからこそこの時私は、まだもっと高値になるかもしれない(きっともっと高くなるであろうと皆が思っていた)NTT株を310万円で指し値で売り、家を買ったのでした。

今マイホーム購入を考えている人にとっては、私が家を買った時代とは違いますので、今の時代にあった頭金づくりを皆さん考えて下さいね。

今回のお話は、ここまで。

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給与明細1

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給与明細2

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夜間短大前期授業料領収書

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京阪電車定期券購入のための通学証明書

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地下鉄谷町線・阪堺線の定期券など

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法隆寺町に住んでいた頃のJR定期券

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〜住宅ローン返済記:旧我家のローンは、29年前から今日までの長きに渡り〜
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皆さんのお住まいは賃貸ですか?それとも持家ですか?
親からの持家が無い場合の住まいを考える時、家族のライフスタイルを鑑みて、賃貸・持家のどちらにすべきか?どちらが徳か?については、皆さんが考える事だと思います。
そして持家を選択した時、よほどの資金が無い限り、大多数人は住宅ローンを長年に渡って背負うこととなりますね。

高額の我家購入を決断した時、果たして人はその長きに渡る返済の年月の重みをどれほど認識・覚悟して決断していのか?と改めて思うのです。
なぜなら私がその経験者であり、29歳で約1500万円の中古物件を買入した事からローン返済生活が始まり、3年後には中古物件を更にもう一軒購入したことで、1800万円のローン返済生活となり、これを58歳となった今年、漸く全額完済した経験があるからです。
ちなみに2件の中古物件購入の合計金額は、3800万円でした。もちろん住宅購入には、物件価格意外に、100万円以上となる多額の税金や諸費用が別途かかりますよね。
(一言:今にして思えば、とんでもない無茶をしたものです。)

さて、29歳〜58歳まで返済したということは、実に足掛け29年の年月をローン返済のために費やしたということです。
その間バブル時代・バブル崩壊・長い長い不況・阪神淡路大震災などの歴史を潜り抜けて、ある時は失業し、有る時は労災による両足骨折をしてまともに歩くことも出来なくなった5年間も有るなど、正に波乱に満ちた年月でした。
そして今思うのです。「よくもまあ無事に全額完済できたなぁ。」と。

そんな経験を数回に分けてご紹介する事で、今住宅ローンに苦しむ人、これから家を買おうと計画中の人の参考になればと思い、今回からのシリーズ、『住宅ローン返済記』を記して行きたい。
これまでの生涯を通して労働による平均年収が、200万円に満たなかった?この私が、ローンを無事に全額返済することが出来たノウハウをご紹介したいと思うわけです。

ところで、ここで言う私が29歳で購入した中古物件こそ、
〜旧我家自力解体記:やっと連休を利用して自力で旧我家の解体を開始です〜から始まる『旧我家自力解体記』でご紹介した家でした。
ちなみにこの堺市中区にある中古物件は、『旧我家自力解体記』でご紹介したように、自力で平屋を解体して更地とし、お陰様で現在売買契約成立過程にあり、売却価格は1000万円弱です。

それでは皆さん、以後の、『住宅ローン返済記』をお楽しみに、今回はここまで。

在りし日の旧我家
画面右に建つ二階建ての物置小屋は、入居時に建てたものです。

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新聞チラシにあった旧我家の広告
一番目の画像にある現実の物件画像に比べ、広告にある物件の見取り図から受ける印象とには、何と大きなギャップがあることか?と、思いませんか?

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〜直虎:『おんな城主対おんな大名』では直虎が寿桂尼の許しを得るまでを描き〜
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前回のページで記したように、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第15回放送『おんな城主対おんな大名』では、小野政次は、表面上は直虎に敵対しながらも、直虎の窮地において今川の魔の手から救うために、あえて井伊家の裏切り者として振るまっていたことが描かれました。

政次は、直虎が鶴松の後見人を小野政次とせす、瀬戸・祝田(ほうだ)の両村に徳政令を出さぬなど、再三にわたり今川の命に従わぬ理由について、寿桂尼より駿府まで直虎が申し開きに来るようにと書かれた書状を届けるために、直虎の前に参上します。
しかし本心では直虎の命を救いたいと思う政次が直虎に伝えたのは、寿桂尼からの書状の内容だけではありませんでした。
政次は、直虎がかつての直親の荷の前にならぬよう、以下のような提言を付け加えたのです。
「行けば、どのような事が待っているのかは、重々お分かりの事と存じんます。駿府へ行かずとも済む手立てはただ一つ、私を、乕松様の後見になさる事でございます。さすれば、後の事は万事私が取り計らいましょう。」と。
ところが、政次の本心を知らず、井伊家乗っ取りを企てている者として政次を敵対視する直虎は、
「ならば、申し開きに行くしかなかろうの。」と政次に答えたのです。
直虎の自身に対する感情を知る政次は、予想しえた直虎の返答に、苦笑いを浮かべてこの場での直虎に対する説得をあきらめ、
「わかりました。では、お供しますゆえ、出立の日などを後ほどお教えくださいませ。」と座を立ち、去ってゆきました。
ですが政次は、直虎を救う手立てをあきらめたのではありません。
次なる手立てとして、しのの前に現れ、
「乕松様の御生母様はあくまで、直虎様の後見を望んではおらんれぬと、一筆いただきたいのです。」と申し入れたのです。
ですがしのは、
「私の意見など、誰も聞く耳もたぬでしょう。」と取り合いません。
すると政次は、
「しの様、今川もまた、直虎様の後見を望んではおらぬのでございます。今川に一筆渡れば、小さな意見でも大きく響かせることができます。」
直虎の存在を心良く思わぬしのは、この政次の言葉に井伊の主家である今川が後ろ盾となってくれるのであれば直虎を後見の座から降ろす事は確かにかのうであろうと意を強くし、
「しばしお待ちあれ。」と一筆記す事を了承したのです。
しのが直虎が虎松の後見になる事をのぞんでおらるとする書状を記すために座を立ち去ると、政次は天井を仰いで目を閉じ、思わず安堵のため息を吐きます。
恐らく政次は、これで直虎を後見の座から降ろすことができ、今川から命を狙われる心配もなくなるであろうと安心したのでしょう。
ですが政次の本音が直虎に敵対する立場ではなく、逆にその命を救い、今川から守りたい思いから出た行動であるとしのが知れば、恐らくしのは政次に激怒したことでしょう。
直虎の存在を心良く思わぬしのの思いを、直虎を救うために政次は利用したのですから。
政次のこうした一連の行動は、表面的には今川に加担して井伊家に背く行動に見えますが、政次の本心はどうやらそうではないらしいという事を見抜いている女性がいました。
その女性とは、しの実妹であり、政次の義妹でもあるなつです。
なつはしのと政次の密談を、物陰から聞いていたのです。

一方政次の本心に気づかぬ直虎は、寿桂尼に対する申し開きのために駿府へ向かう道中に政次も同行する事について南渓和尚と意見を交わします。
和尚:「政次も共に行くのか?」
直虎:「はい、しかし、ひるがえって考えてみるとこれは、何かあれば即座に政次を(今川に対する)人質に取れるという事にございます。こちらが腕のたる者を揃えておれば、(今川の手の者たちに)負けはせぬと思うのですが、どう思われますか?」
和尚:「次郎は益々物騒なおなごになって行くのうー。」
直虎:「いたしかたござりますまい、己で身を守らねば、誰も守ってはくれぬのですから。」
このように直虎は、今川により命を狙わた時には、こちらも武力で対抗する意志を示しますが、和尚は直虎がこの窮地に必ず生き残れる策として、もうダメじゃと思った時には、政次に後見を譲ると言ってさーっと帰ってしまうのじゃと語った後、
「何事も命あっての物種じゃ。」とさとす和尚の言葉に、直虎は、「棟に刻んでおきまする。」と答え、和尚と別れます。
結果として直虎が必ず生き残れる方法として考えられる政次と和尚の意見は、くしくも一致していたのです。
そして直虎を大事に思う本心を素直に示せず、逆説的な態度でしか直虎に接する事が出来ない者は、政次だけではありまんでした。
直虎が井伊の屋敷に戻って来ると、そこには中野直之らが待ち構えていたのです。
直虎が戻ったのを見るや直之は、
「駿府より呼び出しがあったというのは誠ですか?」と直虎を問い正します。
これに直虎が、「誠じゃ。」と答えると直之は、
「すぐに後見を降り、駿府の言う事をお聞きなされ!!」と強い口調で言い放ちます。
同じ意見でも、和尚の言う事には耳を傾けた直虎でしたが、直之のこのようなの高慢に思える言葉には強い反感を覚え、
「いやじゃ。」と即答。
これに対し直之は、直虎の気性を知りながら、更に高慢な物言いを直虎に浴びせかけます。
「直親様の御最後をお忘れになられたのか?あの二の舞となればどうするおつもりじゃ!!」と。
すると直虎は売り言葉に買い言葉で、
「そうならぬよう、方策を考えておる。」と返し、
直之も、殿の命が第一と言えばいいものを、
「共の者を犬死にさせるおつもりか?殿が駿府へ行く。ズラズラと人が付いて行く。その先には犬死にしか無かろうがー!!これ以上人を亡くしてどうするおつもりかー!!」と直虎の感情を更に逆なでするような言葉でしか直虎と接することができません。
これに直虎が、
「死ぬとは限らぬ。」と返すと、
「後見を降りると言えーっ!!」と家臣に有るまじき言葉を浴びせます。
これには直虎も、
「誰に向かってものを言うておる!」とブチ切れます。
そんな、直虎を救いたい思いがありながら、その反感を買う言葉でしか直虎に接することが出来ぬ直之に対し、その場に居合わせた奥山六左衛門は、この後直之に対し態度を改めるよう説得を続けますが、直之は完全にヘソを曲げてしまうのでした。
一言:やはやもう不器用な男の優しさとは、こうしたものなのでしょうか?こうしたものなのでしょうねー、身に覚えが有るよな無いような・・・・・女性の視聴者には、こんな男の行いを、理解いただけますか?不器用な男の一人である私としては、無理を承知で理解してくれる方がいてほしいと思うのですが・・・・・やはりこのような男に対しては、無理、ムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリ、無理!を連呼しちゃうのでしょうね。)

結局直之がヘソを曲げてしまったために、直虎が駿府へ向かうおりのボディーガードは、龍潭寺(りょうたんじ)の腕利きの僧たちが務めることとなったのです。
直之は、
「あのあま、あれほど言うたのに。」と呟きながら直虎達が駿府へと向かう姿を見送り、直虎に随行しませんでした。
南渓和尚は、そんな直之の様子を見て「暇そうじゃのう、ちょいと手伝うてはくれんか?。」と声をかけ、
直虎が徳政令騒動のおりに百姓衆と交わした、彼らに字を教えるという約束を果たすための代行役として誘います。
和尚に言われるままに直之が寺で百姓達に字を書く指導をしていると、百姓達の長老である権兵衛が、「殿さまは、直虎様はいかがお過ごしですかいやぁ?」と直之に対し、にこやかに訪ねます。
この問いに直之は正直に「殿は、駿府から呼び出しを食らったのじゃ。」とこたえたのです。
すると甚兵衛は、
「へぇ?駿府からお呼び出し?それは、わしらのお願いのせいで?まっさかー、先代の直親様の時のようにゃー・・・」と大声を張り上げます。
するとその廻りで思い思いに字を書く練習をしていた百姓達もみな驚き、
「こんなことしてる場合じゃねーずら、」
「ほーでぇ。」
「わしら、瀬戸村に声をかけてまわるで・・・・・。、」と口々に騒ぎ、直虎の窮地にかけつけようとしますが、
直之はそんな百姓達を、
「待て待て、おえっ!」とひきとめようとします。
すると百姓達は、
「直虎様が五先代のようになっちまうかも知れんにー、だったら行かんといけんらー。」と声を張り上げます・
しかしそれでも直之は、
「そなたらが行ってもどうにもならぬー。足手まといになるだけじゃ。」と百姓達の行動を引き留めようとします。
すると百姓達は、、
「うんでも、直虎様はおなごだで。」
「お守り出来んじゃ、男じゃねーだー!」と反発したのです。
この言葉に直之は、己が直虎に同行しなかったことを恥じる思いが浮かんだかのようで、返す言葉を失ってしまいます。
刀を手にしてひとしきり目を閉じて心の整理をした後、直之は直虎の後を追ったのです。

一方その夜、なつは南渓和尚のもとを訪れ、義兄の政次の行動について思い当たる点を報告します。
なつ:「どうしても一つ、解せぬことがございまして。兄上には子が有りませぬ。井伊の後見に納まり、手に入れたところで、先の無いことと申しますか・・・、にもかかわらず、それほどまでに拘るのは、もしや・・・・井伊を、今川から守る盾になろうとしているのではないかと。」
和尚:「分からぬ、わしは、政次ではないからのう。じゃがもしそれが仮に、政次の本意だったとしても、政次は認めぬであろうのう。」
なつ:「何故?」
和尚:「本意を読まれれば、もう盾にはならぬからのう。」
なつは、和尚のこの意見が意外だったようで、驚いた表情を見せるのでした。

直虎一行は、ある寺で一夜を過ごし、翌朝再び駿府へ向けて歩き出そうとした時、政次は直虎に今一度後問いただします。
それはまるで、先日直之が直虎に行った言葉と同じ内容のものでした。
「今からでも遅くはない、後見を止めると言わぬか?・・・・危ない目に合うのは、お前だけではないと思わぬか?」と。
そんな二人に、突如多くの今川からの刺客が遅い仮、直虎は必死に逃げます。
ですがついには刺客に追い詰められ、切り殺されんとした時、政次が現れ、その命を救われます。
刺客を全て討ち果たした後直之は、
「男の姿をしようが、直虎という名をつけようが、そなたはおなごじゃ!・・・・守れねば、こちらの立つ瀬が無いと言うておるのじゃ。村の男たちは、話を聞き、そなたを守ると駆け出さぬばかりの勢いであった。殿はおなごゆえ、我らが守らねばと。そなたはさような事を考えた事もなかろう。」とさとします。
物影でそんな二人の様子を見ていた政次も、いざとなれば直虎を守るため抜いていた刀を鞘に納めます。
そして直之が直虎に諭した言葉は、正に政次が直虎に言わんとした言葉そのものだったのです。

政次と直之の言葉の意味を、漸く己の絶体絶命の危機において悟った直虎は、直ぐに政次を呼び、「政次、乕松の後見はお前に任す。」と告げます。
ですが直之はそんな直虎の言葉を聞いて、
「ここまで来て、何を言い出される。」と直虎の決断を止めようとしますが、
直虎は、
「もとより、そうせよと言うておったではないか。」と返します。
直之は、
「いやしかし、それがしが来た限りは必ずやお守りし・・・・」と言葉を続けようとしますが、それを遮るかのように直虎は言葉を発します。
「何事も、命あっての物種。まさかのの時はそうせよと、和尚様からの御指図でもある。但馬、直虎は引くことにしたと、駿府へ伝えてくれ。」と。
そして、「本当にそれでよいのですか?」と問う政次に、
「このような恐ろしいことはもう沢山じゃ。」と弱音をはくのですが、この弱音には裏があったのです。

この後直虎の決意を伝えるべく駿府へと向かう政次一行を見送り、直虎は、「では、我らは戻るか?」と傑山(けつざん)と昊天(こうてん)に言いますが、傍らの石段に腰を下ろしていた直之に対し、
「少し話さぬか?」と相談を持ちかけます。

この後画面には直之らしき武者が夜道に馬を走らせ片手に松明を持って先を急ぐ映像が映りますが顔は笠で見えません。

翌朝駿府に到着した政次は、寿桂尼に直虎が後見を政次に任せると書き示した書状をさし出しますが、そこへ「申し上げます。井伊の中野という者が書状を持って・・・」と家臣が報告しまます。
寿桂尼がその中野と言う者の目通りを許すと、そこに現れたのは中野直之ではなく、何と直之の衣装を身に纏った直虎だったのです。
直虎は何ゆえ後見を政次に任せると言って井伊へ戻ったはずの自身が駿府へ申し開きのために姿を変え、政次を騙してまでの現れたのかについて「・・・・・此度こそは、決してお下知に逆らうまい。必ずや申し開きに参ろうと、勇んで井伊を出たのですが、道中何者かにつけ狙われまして。、これでは辿りつけぬ、またお下知に逆らうことになると、涙を呑んで、そこなる但馬を隠れ蓑に使い、その何者かを、欺きましてございます。」と寿桂尼に申し述べます。
そこで改めて寿桂尼は直虎が今川の命である徳政令をおこなわなかった理由として『仮名目録』の取り決めにある22条に従ったまでと申し開きを述べますが、
寿桂尼は、
「よう小理屈をひねり出したようじゃが、あいにくこの件は、義元公の追加の掟によって改められておる。守護氏不入とありとて、お下知に背くべけんや。」と条項の改定内容を示し、
速やかに徳政令を行うよう改めて直虎に命じます。
すると直虎は、私に徳政を行えと言うことは、自身を後見と認めてるからこその御下知と受け止めて良いのでしょうか?と述べます。
すると政次は、兼ねてより用意していた直松君の後見に直虎を望まぬと記されたしの手による文を寿桂尼に差し出したのです。
これを受け取った寿桂尼は、
「生母が望まぬ後見など、火種になるのは目に見えておる。井伊の事を思えば、さような事を認めるのは難しいのう。」と先の直虎の発言を否定したのです。
ところがそこへ徳政を願い出た瀬戸村・祝田(ほうだ)村の百姓衆の連名による、「井伊直虎様の後見を、伏して願い奉りまする。」との連署(れんしょ)が届けられたのです。
そして更にその連署には、南渓和尚による添え状も有り、そこには、
「かつて義元公は、己の力量をもって国を治むと宣われり、比ぶべきも無い小さき力量なれど、直虎にもそれをお許し願いたく存じ奉りまする。なぜならば、それが井伊の民が望むところであるが故、お伝えしたく、お目汚しとは承知の上、差し出したる次第にて候。」と記されていたのです。
これらの連署と添え状により感銘を受けたた寿桂尼は、
「直虎、もしそなたに井伊を任せれば、そなたはいかにして民を治める。」改めて直虎に問います。
すると直虎は、
「潤すことで。国というのは、まず民が潤わねばなりませぬ。民が潤わねば、国が潤うことは無いと存じます。民が潤えば、井伊が潤います。井伊が潤えば、それは今川の潤いとなって行くと私は考えております。」と自身の領主としての考えを申し述べたのです。
この言葉に寿桂尼は目に涙を浮かべ、
「井伊直虎、そなたに後見を許す。今後は、己の力量を持って井伊を潤すがよい。ただし、次は無い。もう二度と生きて申し開き出来ると思わぬことじゃ。」と直虎の後見を認めたのです。
この結末は、政次の図った後見とはさせぬ事で直虎の命を救うというものではありませんでしたが、結果として直虎の後見が寿桂尼に許されたことで直虎の命も救われたのです。
それは政次の直虎を救いたいという最終目的が叶えられる結果だったのですから、直虎の傍らで控えていた政次もまた心の緊張を解き、直虎と同様に安堵したのでした。
そして、絶体絶命の危機を逃れ、今川の屋敷を出た直虎を待っていたのは、直虎の命を奪わんとした寿桂尼の心を動かし、直虎の命を救う決め手となった連署と添え状を急ぎ平調(ひょうじょう)の場に届けた奥山六左衛門でした。

かくして直虎は、奥山六左衛門と共に村人や井伊家の者達らに熱烈な歓迎を受けて無事井伊谷に帰還します。
一方この頃、このような騒動の間留守をしていた氏真も駿府に戻って事の顛末を知り、小野政次とこの騒動について言葉を交わします。
真:「井伊の申し開きなど、撥ねつける手もあったものを。」
政次:「大御方様は、あのおなごがいかに井伊を治めるか、見てみたくなったのかもしれません。」
真:「御ばば様には、お仲間に思われたのかも知れんのう・・・・面白くないのー、但馬よ。」
政次:「いずれまた、好機はございましょう。」
このように、政次はに同調するかのような言葉を口にしますが、その表情には、とにもかくにも直虎が無事であった事にホッとしている穏やかな笑顔が浮かんでいたのです。

今回の放送の終りには、ナレーションによって以下のように締めくくられます。
「こうして、風変りなおなごの治める山間の小さな谷は、漸くその一歩を踏み出したのでござる。
つづく。」と。
そして、これをもって漸く、おんな城主直虎が、名実共に誕生したのです。

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〜直虎:『おんな城主対おんな大名』の冒頭では、寿桂尼による直虎の危機が
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前回の第14回放送『徳政令の行方』の放送では、井伊家領内の瀬戸村・祝田(ほうだ)村の百姓たちが、これまで商人(瀬戸方久)から借りた借財や、田租を棒引きにする法律(徳政令)発布の要求に対し直虎は、両村を貸し手である方久の所領とするという奇策を打ち出し、これに反発する百姓衆らと真心をもって本音をぶつけ合いました。
そして直虎は、徳政令を願い出た百姓達に、今より潤い、金を返せる仕組みを提案することで直虎は、無事百姓達の同意を得たのです。
ですがそれは同時に、主家である今川の命に背いた行動でもあったのです。

『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第15回放送『おんな城主対おんな大名』では、又しても今川の命に背いた直虎に対し怒りを募らせた今川氏真の母:寿桂尼が、小野政次に対し、その弁明を求めるべく直虎を、駿府に連行して来るよう命じます。
それはつまり直虎にとっては、かつて命(めい)に背いたとして今川の手の者によって暗殺された井伊直親の二の舞となる可能性をはらんだ大ピンチでした。
小野政次は、今川の命に従い、井伊家の動きを監視する目付役であり、今放送以前では、目付としての役職を利用して井伊家乗っ取りを企む者として描かれて来ました。
ですが今回の放送においては、それは政次の真の姿ではなく、直虎に対し幼き頃より密かに思いを寄せ、その後も生涯を通して幼き頃からの思いを変える事無く持ち続けていた男性として描かれました。
つまり政次は、表面上は直虎に敵対しながらも、直虎の窮地において今川の魔の手から救うために、あえて井伊家の裏切り者として振る舞っていたという設定で描かれたのです。

今回の放送の冒頭では、直虎が徳政令を出すよう命じた今川に従わなかったことに怒りを覚えた寿桂尼が政次に対し、
「出家上がりのおなごに、何を手こずっておるのやら。もうよい、(直虎を)連れてまいれ。二度までも沙汰に背くとは、これは謀反の意有りと疑われても仕方あるまい。直虎を駿府に申し開きに来させよ。」との命じます。
この時政次の脳裏には、かつて井伊直親が謀反の濡れ衣を着せられて暗殺された事件の映像が過(よぎ)ります。
そして政次は寿桂尼の言葉に対し、
「恐れながら、出家上がりのおなごごときに、いつまでもかかずろうておられては、今川の御名(みな)に泥を塗ることになりかりまする。ここは、私にお任せ頂けぬでしょうか?」と進言します。
しかし寿桂尼は政次の言葉に対し、
「私は、申し開きに来いと言うておるだけじゃ。」とこれを撥ねつけます。
政次による寿桂尼への進言は、直虎を何とか直親のように惨殺されぬようにとの一心から出た言葉でしたが、寿桂尼の「何も直虎の命を直ちに取ろうというものではない。」という趣旨の言葉には、従うほかはありませんでした。

一方井伊家側では、直虎が南渓和尚に対し、
「二度までの沙汰に背き、あれが来ぬと思う方がおかしゅうございますが、ここは一つ、おなごのやることと見逃してはくれませんかねー。」と苦笑いをしながら語りますが、
和尚は、
「無理じゃろうのうー、なんせ、向こうの影の大将も、おなごであるからのー。おなごだらといってバカにもせねば、手加減もなかろうのー。」と返します。
この後今回放送の本筋では、直虎がこの絶体絶命の窮地を、いかに免れたかが描かれました。

が、この続きのお話しは、次のページにてご紹介させて頂きます。

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小野政次に対し、直虎を連れてまいれと命じる寿桂尼

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〜直虎:『城主はつらいよ』では、次郎法師が女城主直虎となる時の試練を描き
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おんな城主直虎編          

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ここの所ブログ更新を怠ていたために、ドラマの各回のあらすじ紹介の順番が逆になってしましますが、今回は第13回放送『城主はつらいよ』の放送内容をご紹介します。

『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第13回放送『城主はつらいよ』では、お家乗っ取りを図る小野政次の井伊家内でのこれ以上の台頭を許さないために、ついに次郎法師が言い直虎として城主の座に立ちますが、中野直之 奥山六左衛門はこれに反発したため、直虎が家中を治めるために孤軍奮闘する様子がえがかれました。
 
とりわけ中野直之は、女であり、出家の身であった直虎がにわかに城主となることに猛反発し、
「おなごになにが出来るというのです。おなごに井伊を任せるなど、和尚様、お気は確かか?お家におられたのならまだしも、この方は十歳(とう)の頃より寺暮らしのおなご、政(まつり)ごとが出来るとは思えませぬ。」とはやし立て、
穏健な 奥山六左衛門も、
「いっそのこと、南渓和尚が還俗なさってはいかがかと・・・・。」と中野直之に同調します。
こうした井伊家重臣の意見に対して南渓和尚は、
「駿府(今川家)からは、但馬を後見にとの話がきておるが、お主らは、その方が良いとお考えか?」
と切り返すと、小野政次のこれまの井伊家に対する配信行為を知る直之は、しばし和尚に返す言葉を失います。
すると今度は奥山六左衛門が、
「しかしながら次郎様・・・直虎様のご出家は、井伊の本領安堵と引き換えと伝え聞いておりますが?」と語り、
これに呼応して直之が、
「そうじゃ、還俗など出来ませぬ。」と責めます。
すると和尚は、
「還俗はせぬ。領主の名を直虎とし、虎松が元服するまでの間、それを後見するだけの話じゃ。そう目くじらを立てる事も有るまいと思うがのう。」
と、この度直虎が城主となるに至った井伊家の事情を説明し、二人の反感を鎮めようとます。
次に和尚は、政次に問いかけます。
「但馬殿は、どうお考えかのー?」と。
すると政次は、
「国を治めるのは、生半可な事ではございませぬ。次郎法師様にはどこまでの覚悟がお有りか?それがいささか・・・・。」と政次自身が後見となる事の方が井伊家のためになるのだということを暗に示します。
ここでようやく直虎(次郎法師)が口を開き、
「我は、我が父や、先代の意志を継ぎ、井伊を守って行きたいと思うておる。いたずらに(領内が他国より)侵害(おか)されることなく、皆が日々を安んじておくれる国にしたい。」と、直虎自身の決意を述べます。
すると政次は、
「なればそれがしごときに、何か申し上げる筋合いはございませぬ。小野但馬、家老として、誠心誠意、直虎様にお仕いいたしまする。」と直虎に対して深く頭そ下げます。
もちろんそれが上辺だけの言葉であるとは、直虎も百も承知です。直虎は頭を下げた政次を、心の内を見透かすかのように横目で鋭い視線で見やります。
これをもって直虎の城主としてのお披露目の場は終了し、その場に参席した井伊家の重臣たちはその場を立ち去って行きますが、誰一人とし直虎が城主となることに納得していないらしく、皆が苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべての解散でした。

とにもかくにもひとまず、家臣に対する城主としてのお披露目を終えた直虎でしたが、とりわけ中野直之の直虎に対する反発には、思わず母を前にして、
「おんなに、おなごのくせにと・、男のくせに女のようなネチッコさ・・・・」と愚痴がこぼれます。
そこへ南渓和尚が現れ、独り言のように愚痴をこぼす直虎に対し、
「直虎、直虎。」と二度声をかけますが、直虎はこの呼びかけが耳に入りません。
なぜなら直虎は、未だ自身が次郎法師から直虎となった事に馴れておらず、和尚の呼びかけが己に向けられていることを即座に理解出来なかったのです。
そして和尚がより大きな声で「直虎。」と三度目の呼びかけで直虎は自身に対しての呼びかけであることに漸く気づき、
それまでそれまで愚痴をこぼしてだらしのなく廊下に投げやっていた態勢を整えて正座し、
「あっ、失礼いたしました。まだなれず・・・・」と、和尚に向き合います。
すると和尚は、手にしていた巻物二巻を直虎の前へと差し出します。
その二つの巻物には、『仮名目録』という表題が書かれています。
和尚のこれを、
「その昔、今川の先々先代、氏親殿が、御身 代を譲る際、無用の争いが起きぬようにと、国を治めるためにつくった掟じゃ。寿桂尼様がおつくりになったとも言われているが・・・・、まぁ、読んでみるがいい。」と、云われを語って立ち去ります。
つまり『仮名目録』は、南渓和尚が意のままにならぬ家臣たちを服従させるたのヒントになればと、直虎に渡したものだったのです。
ところが、次期当主の母であり、先代当主:直親の妻であるしのは、小野政次もさることながら、直虎にも、我子:虎松の後見になることなど、絶対にいやじゃと言いはります。

その後井伊の財政事情を知らない直虎は、領内の百姓衆の借金を棒引きにするための徳政令を出してほしいとの訴えに対し、いとも容易くその願いを受け入れてしまいます。

そんな時、まだ直虎がおとわと呼ばれていた幼き頃に家出したおり、瀬戸村の外れにある小屋で一夜を共にしたことのある、身は汚れ、頭髪と髭は伸び放題の上にボロをまとったホームレス風の男だった瀬戸方久という者が、立派な商人となって直虎の前に現れ、今後とも商いの便宜をはかってもらうべく、領主となった祝いの品を携えて現れます。
その際方久は、おとわ(直虎の幼き頃)と出会ったその日に、一夜の宿賃としてもらった櫛を売って得た銭を元手に、天性の商才を発揮して次々と利益を得て財をなした経緯を直虎に語り、直虎はそんな方久のサクセスストーリーにひどく関心し、
「早速一つ、頼み事があるのじゃが・・・・、井伊の家の分は支払うゆえ、村の分は何とか負けてやってはくれんかの?」と、瀬戸村の百姓衆らに貸した借財の棒引きを申し入れます。
すると方久は、
「よろしゅうございますよ。井伊の家に冒ししている分、今ここで耳を揃えて全てお返し頂ければ。」
と答えます。
しかし直虎は「さような事、出来るわけがあるまい。」と返しますが、
方久は、
「出来ますよ。井伊のお屋敷と、村の二つ三つ頂けますれば・・・・。」とやり手の商人らしい答えを口にします。
この言葉に困惑した直虎が、
「そっ、それでは、井伊家が無くなってしまうではないか。」とバカ正直な返答をすると、
方久は、
「さようでございますよ、徳政令を出せば、井伊家は潰れてしまうのでございます。」と何の遠慮もなく現実の厳しさを直虎に突き付けたのです。
あまりの事に驚き、その夜直虎達は借財・領内の年貢などを洗い直して見た所、30年かけても返せる負債があることが判明します。
つまり井伊家の財政は、もはや百姓衆に約束した徳政令を発する事など行える状況ではなかったのですが、さりとて百姓衆とは既にその約束を明言してしまっており、直虎は途方に暮れます。
更に、後日瀬戸村が直虎と徳政令の約束をしたことを聞きつけ、祝田村(ほうだむら)の百姓衆までもが、徳政令を願い出る始末。
そんな百姓衆を前にして直虎、「とにかく今は、徳政令は出せぬじゃ。」と、逃げるようにその場を去ります。
すると百姓衆を前にして難儀する直虎に対し小野政次は、
「これでも、まだご領主になられますか?」と直虎の心の動揺に付け入ろうとしますが、
直虎は政次に対し、
「我が降りたら、そなたが後見人になるではないか、たとえ井伊を潰したとて、それだけは御免じゃ!」と、キッパリと言い切ります。

この頃三河の家康は、領内の一向一揆に足をすくわれて勢力を伸ばせず、一方今川は、遠江の反対勢力を鎮めて、勢いを盛り返していました。
ただしこの頃の今川にとっては、井伊の直虎が思いもかけず領主となったことだけが、憂いの種だったのです。
駿府において今川の思い通りにならない井伊家について寿桂尼よりとがめられた小野政次は、「一計がございます。」と語り、井伊家乗っ取りのための次なる策があることをほのめかします。

一方井伊谷において直虎は、村に出て領民と触れ合い、領民をないがしろには出来ないことを再認識し、方久の元へと足を運び、
「・・・・例えばしばしの間返済を待ってもらう事はできぬか?」と頼み込みjますが、
方久は、
「こちらも商いですからねー。お待ちした暁には、その間の利ザヤを、きちんと、頂けるというのであれば・・・・。」と損得勘定を譲ろうとはしません。
直虎は、
「それでは百姓に徳はない。疲れ切り、逃げる者が出てしまう。それに耕しての無い土地など、そなたにとって何の旨みもないのではないか?」と食い下がりますが、
方久は、
「土地を欲しがる者は他にもおりましょう。例えば今川様や、小野様。」と、直虎にとって最も望まぬ未来をためらいなく言ってのけた後で、
「私とて、井伊のお家には恩を感じております。これまで通り私を使こうて下さり、徳政令さえ出さずに下されば、さような事はいたしませんよ。」と解きます。
それでも直虎が、
「それでは百諸達が困るのじゃ。」と食い下がると、
方久は、
「良いではないですか、百姓達など。」と返し、
これに対し直虎は、
「ならぬ、我らは、百姓達の年貢に支えられておる。百姓達が疲れ切り、力を無くしては、良い事など見込めぬと我は思う。井伊のためにこれは決して、棄て置いて良い物ではないと思うのじゃ。」と熱く語ります。
すると方久は、
「では、村の土地を利用して、商いでも初めてみてはいかがですか?米を多く作れる工夫をし、頃合いを見て売りさばくもよし、米以外の高く売れる作物を作るのもよろしゅうございましょうし・・・・・。」と、さしたる結論があってのことではなく、ただ商いの上での大まかな指針を述べてみたところ、
それを述べた方久にも意外な答えとして直虎は、
「それじゃぁ。それ、それじゃぁ、方久。」と、頭に何か妙案が思い当たったらしく、大きな声を張り上げます。
その後直虎は、南渓和尚に会い、領主となるということの重みと怖さを打ち明けます。
すると和尚は、
「己の信じたものを灯りとし、進んで行くしかないのお。」と語り、
直虎はこれを、
「自灯明にございますか?」と確認します。
そして和尚は、
「自灯明は、人の上に立つ者の喜びであり、また辛さでもあろうのう。」と問答を返します。

その後一人になり、机に向かって筆を走らせた直虎は、一通の書状を書き上げ、改めて方久を引き連れ、小野政次・中野直之 奥山六左衛門らを招集し、瀬戸村・祝田村が、井伊家に対して徳政令を願い出ざるを得なくなった事の経緯を改めて述べ、これを解決するために自らが打ち出した方策を明かしたのです。
「・・・・・彼らは度重なる戦(いくさ)にて男手を失い、ここにおる方久に銭を借りるハメになり、今はその支払いと年貢との二重の支払いで難儀しておる。一方井伊も戦のかかりなどで、同じく方久に世話になっておる。故に井伊としは、徳政を出す事は出来ぬ。よって、この二つの問題を落着させるために、方久を家臣の列に加え、瀬戸・祝田の両村を、この方久の所領とすることにする。これにより、方久には年貢が入ることとなる。これをもって現状の借銭を猶予。猶予が明けるまでの間百姓達は、年貢のみを治めればよいことになる。加えて、村に新しい商いを起こし、百姓達が自ずと返済できるように方久が面倒を見るということになる。」と言い渡します。
これには家臣一同目を丸くして驚き、とりわけ中野直之は、
「お気は確かにござりますか?・・・・井伊家に素性も知れぬ商人を加えるなど。」と猛反発しますが、
直虎は、
「そもそも、ご初代様は拾らわれ子ではないか。ただならぬ者は、その身分にかかわらず取り立てることこそ、家風に適うというものではないのか?」と反論します。
しかし中野直之の気は納まりません。
「乗っ取りではないか、さようであろう!借金の形に土地をやらざるおえぬようにする。乗っ取りと言わず何と言う。某(それがし)はかような家に仕えるのは御免こうむる!!」と激怒して立ち去り、奥山六左衛門も
「瀬戸村は新野の娘たちのご所領、祝田は我妹しのの所領となっております。方久にやってしまっては、妹や新野の娘子たちは、今後いかに?」
と異を唱えます。
直虎はこれに対し、
「新野には、何らかの当て代えはするつもりじゃ。虎松としのには、小野より返された所領がある。それで十分じゃと思う。」と自身の判断の正当性を論じますが、
六左衛門は、
「祝田は、妹と直親様との思い出が詰まった土地にございます。」と語り、
これに直虎は、
「新野の屋敷に移って以来、虎松もその地に一度も戻ってはおられぬ。思い出の地というのは、言い過ぎではないか?」と返します。
しかし六左衛門は、
「そのような情を欠くお言葉、とても伝えられません。」と言い残し、中野の後を追うように六左衛門もまたその場を去ります。
その後小野政次もその場を去り、方久と直虎のみが場に残り、
「・・・・銭は力じゃ、・・・・・瀬戸村から銭が湧き出るようになってごらんなされ、・・・・直虎様のお陰じゃ。・・・・あの石頭どもの鼻を明かしてやりましょうぞ。」と方久は語ります。

ところが、そんな二人のもとに、二つの村の百姓衆が井伊を飛び越えて今川に徳政令を出すよう願い出たとの知らせが届きます。
この知らせに直虎は、「何が起こっておる。何が起こっておるのじゃ。」と想定外の現状を理解できずに困惑するばかりです。
一方、小野政次は、直虎に反発して去り行く中野直之 奥山六左衛門らを
「奥山殿、中野殿、少し、よろしゅうございますか?」と呼び止め、二人に歩み寄ります。
何やら政次には井伊家を乗っ取るために、二人の思いを利用しようとする思惑があるようです。
果たしてこの後井伊家はどうなって行くのでしょうか?
女城主の前途は、まだまだ多難のようです。

つづく。

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