東京でのオリンピック開催を目指す動きが始まったのは、昭和4年(1929年)の国際陸上競技連盟会長エドストレームの来日がきっかけでした。昭和6年(1931年)には、東京市議会でオリンピック招致活動の開始が正式に決定されます。開催予定年は昭和15年(1940年)、この年は日本では紀元2600年―『日本書紀』に書かれた神武天皇の即位から2600年目という意味です―にもあたり、これを記念する一大行事としてオリンピックが位置付けられたのです。
昭和13年(1938年)4月6日付の『写真週報』の「準備は進む 東京オリンピック」と題された記事です。記事の本文や掲げられた写真に添えられた文章には会場計画などの準備状況について書かれています。既に記念品が多数販売されていることも紹介されています。主競技場には、明治神宮外苑競技場を作り変えて使用する案や、駒沢に新たに建設する案などがあり、この時点では検討中だったようです。他にも、駒沢にプールを建設する計画、芝浦の埋め立て地に自転車競技場を建設する計画など、さまざまなものがあったことがわかります。
しかし、この『写真週報』が発行された頃には、実は、オリンピックの実現に向けた道のりには大きな影が差していました。国内外で、開催に反対する動きが起こっていたのです。
東京オリンピック開催に対する反対の動きが起こることとなった大きなきっかけは、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件―日本軍と中国軍との間で起きた衝突事件―が勃発したことと、この翌年には日本と中国との間の戦争(日中戦争)が長期化する見通しが強まっていたことでした。
国内では、国際的な緊張が高まっている状況で、オリンピックなどを開催するべきかどうか、という疑問が出ていました。その一方で、国外からは、日本と中国との軍事的な衝突が問題視され、日本がオリンピックの開催地として適当かどうかが問われていました。特に、国際社会における日本批判は勢いを増し、IOC会長ラトゥール伯爵のもとには、東京オリンピック開催に反対する声が多数寄せられました。こうした事態を受け、日本に辞退を求めることを決めたラトゥール伯爵は、昭和13年(1938年)4月2日、自ら駐ブリュッセル大使の来栖三郎のもとを訪れました。 (5) は、来栖大使が本国の外務大臣に対してラトゥール伯爵の来訪を報告した電報の一部です。これによれば、ラトゥール伯爵は、東京オリンピックの招待状が発送される翌年1月までに日本が戦争をやめていなければ、イギリス、アメリカ、スウェーデンはもちろんのこと、他の国々からも参加拒否の動きが出てくるだろうと述べ、そのような事態を迎えるよりは、自ら辞退を申し出る方が日本にとっても良いだろう、と勧めてきたということです。
結局、日本の国内でも国外でも、東京オリンピックを開催するべきではない、という考え方がさらに広まっていき、日本政府は、昭和13年(1938年)7月15日の閣議で、辞退を正式に決定しました。