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〜二度目の東京オリンピック開催決定に思う:追憶1960年代〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/東京オリンピック(2)
1964年の東京オリンピックが開催された頃の私の記憶は、舗装された道路はほとんどなく、小学3年生の頃でも、幹線道路の府道大阪泉泉南線の道路の端で陣地取りという小石を指ではじいてする遊びをしていましたが、車に跳ねられることもありませんでした。
トイレは当然、ポットン=くみとり式で、ご飯を食べながらハエたたきでハエを畳みやちゃぶ台の上で叩きつぶしていましたし、そのハエたたきが遊びだったりするほどに、ハエだらけでした。
商店街の魚屋さんなどの上にははえ採り紙が幾つも吊りさげられていて、そこにはビッシリとハエがくっついていましたが、気にすることもなく、その下の魚を買って帰りました。
寝るときは、夏は蚊屋(かや)を寝間(寝室)に張った中に布団を敷いて寝るのですが、少し前に蚊屋の中にも殺虫剤を噴霧してから寝ました。
大阪から和歌山県橋本市へと向かう道の紀見峠を超えるには、軽三輪自動車では登りかねるほどで、もちろん舗装されていませんでしたから、真夏でもクーラーが付いていないのに窓を閉め切ったままでないと、舞い上がったホコリで真っ白になってしまいました。
大阪市と堺市を分けて流れる大和川の下流では、時折牛が放牧され、河原のバッタを捕まえようと追っかけて、牛糞をふんづけてしまったりと、牧歌的な思い出も有ります。
流行った玩具はダッコちゃん人形・スーパーボール・プラフープなどで、私もこれらは買ってもらいました。
ジュースやかき氷を飲んだり食べたりすると、舌が、そのジュースやシロップの色に濃く染まってしまいます。
それは清涼飲料水というより、染料飲料水と言ったほうが当たっている代物で、発がん性の人口甘味料もバンバン入っていましたが、今なお私は元気に育っています。
小学校のプールにも固形の殺菌剤がバンバン投入されていて、そのプールで泳いで出ると眼は真っ赤です。
給食では鯨の竜田揚げや煮物などがヘビーローテーションで出てくる程、安い肉=鯨肉で、缶詰も鯨肉が最も安い商品でした。脱脂粉乳は小学2〜3年まで給食にでたでしょうか。
冬には、ダルマストーブの燃料を運ぶ当番もあって、コークス(石炭のようなもの)置き場でコークスをバケツに入れ込み、それを二人一組で教室まで運んだものです。
私の実家は商売をしていたので、電話もテレビももの心が付いた頃からあって、近所の人が電話をよく借りに来て、十円玉を置いて行ったものです。
冷蔵庫は木のボディーの内側と外側にブリキが張られた金庫のようなもので、2相に分かれた内部の内、上の相には氷屋さんで買った大きな氷の固まりを入れて、その冷気で痛みやすい食品を保冷するものでした。
洗濯は私の記憶の中にもタライと洗濯板で洗濯する母の姿がありますが、それが洗濯機に変わっても、洗濯機の脱水機は、2本平行に並んだローラーの間に洗濯して濡れた衣料を挟み込んでペッタンコにすることで脱水するもので、ローラーはハンドルで手動で回すのですが、子供にはかなりの力が必要なのですが、
ペッタンコになって出てくる洗濯物が面白くて必要以上に手伝ったものです。
夏のお風呂はもっぱら大きなタライに湯を張った中に入ってギョウズイです。実家には家の中に比較的広いコンクリート張りの土間があったので、他人に見られる事はありませんでした。
夏の冷蔵庫で麦茶を冷やすための入れ物は、我が家ではもっぱら瓶ビールの空き瓶で、かすかにほろ苦い味がする麦茶が、とても美味しかったと記憶しています。
洗濯後の干し物は、家の前の電柱と電柱の間に竿竹を掛けて、そこに干すもので、それは他の家々も同じようなものでした。
そう、そんな風景や生活が当たり前に見られた時代、それが1964年の東京オリンピックが開催された頃の大阪市内の光景でした。
世は正に高度経済成長のまっただ中、まだまだ世の中の大半は貧しい時代でしたが、社会や経済は、これより豊かになる一方の夢や希望に満ちた、ある意味とても幸せな時代だった。
そして、その象徴のビッグイベントがオリンピックで、ようやく普及しだした 商品の大きさに比べてとても小さなブラウン管の白黒画面を、ある時は家庭で、ある時は電気屋さんのウィンドウの中の視聴用テレビで、人々が群がり、食い入るように競技を見たのです。
ちゃぶ台の上に丼めしとおかずと醤油差し
母は和服ですが、これが普段着でした。醤油差しが特に時代を表わしています。正に昭和です。
トヨタ パブリカ700バンかな?左側に私と母。
三輪車にまたがる私。
生家は大阪市住吉区でしたが、道は舗装されていません。
次回につづく。 |
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2013年09月10日
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