カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜住吉行宮跡:後村上天皇の夢の跡(2013.8.26)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/南北朝編(4)
 
 
観心寺:楠木正儀と後村上天皇→楠木正儀と後村上天皇の思い  
平安時代〜南北朝時代の流れ 概論→天野山 金剛寺 南朝 御在所
南朝二代の天皇VS足利尊氏 概論→住吉大社の外観と南北朝の話
後醍醐天皇と後村上天皇ゆかりの地→堀家住宅:賀名生皇居跡  
なぜ南朝は住吉行宮に?住吉行宮跡:後村上天皇の夢の跡  
 
 
私はひょんなことから南北朝時代に興味を持った。持ってはみたものの、歴史学者でもないし、今はやり?の歴女でもありません。
ありていに言えば、ついこのあいだまで、昆虫の生態を追っかけていたおじさんに過ぎないのです。
鎌倉時代〜南北朝時代〜室町時代の史実を何度も読みかえし、難解な文章を荒っぽく要約して解ったつもりになりながら、いざその続きをブログに紹介しようとすると、また訳が分からなくなってくる。そんな繰り返しで時間が掛って仕方がない。
なぜなら、南朝側についたり、北朝側についたりする人物が何人も登場するし、足利尊氏は度々偽りの和睦を申しでたり、何度も何度も敗者が政権の奪回を繰り返したりと、真面目に南北朝時代の出来事を読んでいると、本当に頭がおかしくなります。
 
 
これまでに当ブログでは、粗筋(概論)として、鎌倉時代〜南北朝時代の流れを天野山 金剛寺 南朝 御在所で、室町時代になるまでの南朝二代の天皇VS足利尊氏の度重なる攻防を住吉大社の外観と南北朝の話で紹介しました。
 
今回は、これまでの話の流れから言うなら、なぜ南朝は住吉行宮に? 概論 という話になります。
これまでの話(天野山 金剛寺 南朝 御在所住吉大社の外観と南北朝の話)を更に荒っぽくまとめておきます。
 
【平安時代後期〜南北朝時代 :超概論と住吉行宮
平安時代後期平清盛から始る平家が王朝国家体制下で急速に勢力を拡大したのですが、平安時代のもう一つの武士集団であった源氏の源頼朝が平家を滅ぼし、初めて武士が政権を握る鎌倉時代になります。
ところが、源頼朝の死後、その直系の血筋が絶えると名目上の将軍が藤原家や宮家で、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制がしばらく続きます。2度に渡る元寇などによって財政が悪化したことなどにより幕府の体勢がゆるむ一方で、
後嵯峨天皇以後、天皇家の血筋が分裂しますが、その片方(後の南朝)の後醍醐天皇の命に応じ、鎌倉幕府:北条家の家臣であった足利尊氏が寝返り、新田義貞も挙兵したことにより鎌倉幕府が滅び、二派(後の北朝と南朝)に分かれていた天皇は、それぞれ正当性を主張する南北朝時代になります。
しかし、後醍醐天皇による建武の新政は武士の反感をかい、不満を抱えた武士たちの多くを従えた足利尊氏は挙兵しますが、結局は破れ、九州へ落ち延びます。ところが今度は後の北朝をたてて再び京へ攻め上ります。両者の決着はつかなかったのですが、足利尊氏は和解を図って京に入り、三種の神器を接収して(後の北朝)の光明天皇を京都に擁立した上で室町幕府を開きます。
それでも奈良の吉野へ逃れた後醍醐天皇は、「北朝に渡した神器は贋物(偽物のこと)であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、南北朝時代となります。
この南北朝時代は、言わば敗者と勝者が両立する奇妙な時代です。
南朝の後醍醐天皇は図られたとは言え、明らかに北朝をたてる足利尊氏に破れているのですが、吉野に逃れても、元々鎌倉幕府が滅んで以後の権力は後醍醐天皇にあったのですから、「北朝に渡した神器は贋物(偽物のこと)であり光明天皇の皇位は正統ではない」という子供のケンカのような主張でも、正統制を維持出来れば、諸国に対して一定の権力を保つ事が出来ます。
一方の北朝+足利尊氏側も実際に京を落とし入れて勝利していますし、強大な武士勢力ももっているのですから、神器が本物であろうと無かろうと、実権を掌握しています
しかしその後、やはり武力に勝る足利勢は吉野行宮を攻め、後醍醐天皇が病によって崩御して後、南朝を継いだ後醍醐天皇の子である後村上天皇は、賀名生(奈良県五條市)へ逃れますが、南朝方についた足利尊氏の弟との間に内紛が勃発したことで、この時期の勢力図は、鎌倉の足利尊氏と、京の北朝の足利直義(足利尊氏の弟)と、後村上天皇の南朝(賀名生)という3つの勢力の覇権争いになり、結果的に南朝が有利になります。
やがて弟の足利直義が南朝に降伏、次いで足利尊氏も南朝に降伏を宣言しました内紛を納める策ともなると考えたのでしょうか)。結果、足利勢は、一旦は全ての権力を南朝に明け渡しますが、後村上天皇のより足利尊氏に弟の足利直義を討伐せよとの勅命が下り、討伐に出ます。これは南朝側の作戦でもありました。南朝軍は、尊氏を弟の足利直義を討伐に差し向けたすきに京を落とし入れますが、尊氏は北朝をたてて再び京へ攻め上り結局後村上天皇は賀名生へのがれます。
ところが南朝側は京より逃れるおりに北朝の三上皇を拉致(らち)することで、足利尊氏は御旗を失い、南朝の天野山 金剛寺にて南北両朝が同舟する期間もありました。そして、その後行宮を観心寺→住吉と移しながら京へ攻め入ることもありましたが、結局は足利勢に敗れ、その後も退勢を挽回するまでには至らず、足利幕府との和睦交渉も行われましたが、天皇は武家側の降伏を条件に要求したために和議は決裂し、病の中住吉行宮にて後村上天皇は崩御しました。
住吉大社の歴代宮司の津守氏の住之江殿(正印殿)の中に住吉行宮が置かれた期間は、後村上天皇が崩御するまでの8年間と、その子長慶天皇がおられた1年間の計9年間でした。
 
長慶天皇は、住吉行宮に1年間在位した後に吉野に移り、やがて弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられており、譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があるものの、その後は不明のようです。
 
イメージ 1
 住吉行宮正印殿跡と記された石碑
カメラ:αNEX-5 レンズ:SIGMA 30mm F2.8 EX
 
イメージ 2
 住吉行宮跡と記された石碑(向かって右側)
カメラ:αNEX-5 レンズ:SIGMA 30mm F2.8 EX
 
イメージ 3
 住吉行宮正印殿跡の説明板
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1 
 
イメージ 4
住吉行宮跡と記された石碑の側面
カメラ:αNEX-5 レンズ:SIGMA 30mm F2.8 EX
 
イメージ 5
 住吉行宮跡と記された石碑(向かって左側)
カメラ:αNEX-5 レンズ:SIGMA 30mm F2.8 EX
津守氏の邸宅は、明治14年(1881年)から明治15年(1882年)頃に人手に渡ったが、大正5年(1916年)と昭和8年(1933年)に正印殿跡地が当時の所有者から大阪府に寄附され、昭和13年(1938年)6月に大阪府史跡に指定された。その翌年の昭和14年(1939年)3月7日には国の史跡に指定されている。(Wikipedia住吉行宮跡より)
 
次回とは限りませんが、
この後の南朝を訪ねる取材は観心寺に舞台を移し、
南朝の天皇から楠木家の武将に焦点を移して、文章を記したいと思います。

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