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〜大鳥大社:拝殿と日本武尊物語 2(2014年1月4日&2月15日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ
今年になって大鳥神社には、1月4日と2月15日の二度に渡って参拝しました。
ご存知のように、2月14日は太平洋側の各地域にもかつてない大雪をもたらしました。
私の住む堺市でも、14日は日中もずっと降り続き、我が家の前にも10㎝を超える積雪があったように思います。ですが、難を避けて出掛けませんでした。
翌15日になり天候も回復し、雪が残る風景を撮影しようかと出掛けましたが、時既に遅く、町の基礎体温とでも言いますか、その暖が大方の雪を溶かしてしまっていました。
それでもごく一部には雪が残っていたのですが、絵になる光景ではなかったため、ことされに撮影することもなく、残念ながら雪景色の大鳥神社をご紹介できません。
それでは、日本武尊物語の続編です。
【日本武尊(やまとたける)物語 2】 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)より
西国の国々を平定した倭建命(やまとたけるのみこと)は休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。父景行天皇が、東国の12か国(伊勢:いせ,尾張:おわり,三河:みかわ,遠江:とおとうみ,駿河:するが,甲斐:かい,伊豆:いず、相模:さがみ、武蔵:むさし、総:ふさ、常陸:ひたち、陸奥:みちのく)を平定するよう命じたのです。
出発前、伊勢にいる父景行天皇の命があまりに無理難題であることをうれいた叔母は、倭建命に須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたと天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上した天叢雲(あめのむらくも)の剣を授けます。 尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ:宮簀媛)と出会い、東国を平定して無事に帰ったなら、結婚すると約束しました。
妹のためならばと美夜受比売の兄建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており、副将軍として東国の平定に出かけることとなります。 倭建命は東征の途中、 相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)が合流すると、相模の役人が倭建命を迎え、草原の神が従わないから成敗してほしいと沼に案内しますが、いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまいました。弟橘比売ともどもに焼かれてしまうかと言うとき、持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り、向かい火をたいて火の向きを変えようと剣と共に叔母よりもらっていた火打ち石を使うと風向きも味方し、倭建命は罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いていましました。その地が静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われているそうです。
この時倭建命は、窮地回避を可能にした天叢雲(あめのむらくも)を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名します。(草薙の剣」は三種の神器の一つで、現在の名古屋市にある熱田神宮に祀られていますが、静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として当社に祀られているとの記述があり、この話の中の草原は、「草薙」という地名として現在も残っているそうです。
また、倭建命は小高い丘に登り周りの平原を見渡し、その姿を見た土地の人たちは、その小高い丘を「日本平」と名付けたと伝えられます。 この後倭建命たちは、より船で海に出します。現在、三浦半島沖と房総半島にはさまれたあたりの海を走水(はしりみず)と呼びますが、これは倭建命たちが船出をしたとき、雷鳴がとどろき、激しい雨と風にすすべもなく、弟橘比売は海神の祟(たた)りだと、その怒りを静めるために海に身を投げてしまいます。
やがて海は静まり、倭建命たちは上総(かずさ:千葉県)に渡ることができたといいう伝承に由来するそうです。
海岸でクシを見つけ、それが弟橘比売のものとわかると倭建命はとても悲んだそうです。
こうして東国の神々を平定し、倭建命たちはたちは大和への帰る途中、尾張の国境にさしかかった時、倭建命たちは早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から,甲斐での戦いの後,東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと:婚約者の兄)が駿河の海で水死したことを聞き、「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祭ったそうです。
それが内々(うつつ)神社の始まりで,実際に祭った場所は奥の院であったとか、(春日井市教育委員会案内板より)そしてその国境の峠の名が内津(うつつ)峠になったのも、この伝承に由来するそうです。 現在の西尾という地名も、倭建命が建稲種命の霊を祭った内々を振り返ったとき、馬の尾が西を向いた地だからだそうです。熱田への道の途中にある神屋は、倭建命が休んで手を洗った地とされ、以前は清水が1年中かれることなくこんこんとわき出ていたといわれ,小さな祠が建てられているそうです。 この後倭建命たちはは美夜受比売(みやずひめ)と再会しますが、まだ尾張では伊吹山の神を征伐しなければなりませんでした 。 この時倭建命は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて行きます。伊吹山を登り始めてしばらくすると、山の神が変身した白く大きなイノシシが現れました。山の神は大氷雨を降らせたため大きな痛手をおい、やがて病にかかって命からがら伊吹山を下ります。
次回につづく。
話の中で、倭建命(やまとたけるのみこと)が立ち寄ったことでその名が付いたとされる各地の画像は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)でご確認下さい。
大鳥神社 拝殿 巫女と神官が祈祷(広角撮影)
1月4日撮影
大鳥神社 初詣参拝者で賑わう拝殿
1月4日撮影
大鳥神社 拝殿 西面(魚眼装着)
2月15日撮影
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2014年02月20日
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〜優しすぎた浅田真央さん(2014年2月20日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!Sochi 2014 オリンピックシリーズ
小平奈緒さん→悲しい顔は似合わないですよ
高梨沙羅ちゃん→女子ジャンプ陣の翼は・・・
男子ハーフパイプ→スゴイね平岡・岡田選手
上村愛子が負けたのは→ターンの接雪時間
スロープの角野→バックサイドコーク1441
いよいよソチ五輪→頑張るベテラン日本陣
東京五輪の効果と悪影響→今後の未来は
東京五輪決定に思う→私の追憶1960年代
二度目の東京五輪決定に思う→その光と影
そんな真央ちゃんだから→世界が感動した
出し切って涙した→共に泣き、笑い、苦しむ
真央唖然のショート→フリーは自分のために
女子フィギュアスケートの浅田真央さん 、私の不安は的中してしまいました。
残念な出だしでしたが、私に落胆はありませんでした。
アスリートとしては優しすぎる真央さん、まだ競技はおわっていません。
フリーでは、私たちのためにではなく、自分のために、のびのびと演技してほしいです。
引退を決意しているとの報道のある彼女、そうであるならばソチ以後は、上村愛子さんのように、良き理解者であるパートナーを得て、精神的支柱を持った強い女性となって、再度の可能性を探ってほしい気がします。
こんな時こそいて欲しい母はもういません。私が、周囲が何と言おうと、彼女は誰も知らない頃の彼女にはもうもどれないのです。
ならば私たちは、「頑張れ 頑張れ」の応援が凶器となることもあることを、知っていなければならないのではないでしょうか。
思えば、彼女にとってフィギュアスケートは、楽しいだけの、だからこそ夢中で幼いころから始めたことだったはずです。
それが、気がつけばいつの間にか日本の誰しもが応援せずにはいられない存在となり、そんな周囲に驚き、戸惑っていた自分を、練習の中で懸命にごまかそうとした日々。
「頑張ってね、真央ちゃん!」そんな多くのファンの言葉が積み重なって、
楽しいだけのスケートが、「頑張らなきゃいけないんだ、頑張るんだ。」と辛く苦しいだけの道になっていったのでしょう。
思えば、マラソンの有森裕子さんは、2回目のオリンピックで銅メダルをとった時、「初めて自分で自分をほめてあげたい。」と鳴きながら語ったのは何故でしょう。
はたして有森裕子さんは、彼女自身のために銅メダルをとったのでしょうか?いいえ そうではなく、周囲の期待に応えようとしただけだったのでは?だからあんな言葉がつい・・・・。
水泳の岩崎 恭子さんは、バルセロナオリンピックの前、「決勝に残れればいい方だと思います。」と語っています。そして、誰もが想像しなかった金メダル、しかも競泳では史上最年少(14歳6日)の快挙でした。
レース直後にインタビューで「今まで生きてきた中で、一番幸せです。」と語り、一躍時の人となりました。
私たち凡人は、「いったい何年生きてきたの?」と言ったものです。
ですが、彼女にしてみれば長く辛い練習の日々は、一日千秋の思いだったはずです。
その後一躍時の人となった自身の立場に気づき、その重さに耐えかねて唐突すぎる引退(私たちにしてみれば)。それは今思うと最良の選択だった気がします。
ともわれ今夜は浅田真央さんがフリーの演技を、「ただ ただ楽しく滑って欲しい。」そう祈るばかりです。
彼女がお姉さんの姿を見てスケートを始めた、あの頃のように。
小学6年の浅田真央ちゃん
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