カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 『α6000を棒にくっつけて』という題名のブログ
 Attach αNEX to tip of a pole
Yahoo検索:「α6000 ブログ」 53位 /110,000中(8月17日現在)
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 風景・昆虫・海の魚の部門に分かれます。
 
      ブログ名部門 (6)↓    昆虫部門 (2)         海の魚部門↓       
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− 目 次 −  
ブログ名部門 (7)
A subject section (7) of the blog
blogram 部門別ランキング(8月17日現在)
上村愛子2位薙刀2位日本画3位住吉大社4位寺院 安産8位寺院10
ブログ村部門別ランキング(8月17日現在)
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棒は高さ約 9m まで伸びます。だからブログネームは『上から目線』です。
My blog name is “The eyes line from the top” because the pole lengthens to 9 meters
 
●カメラを棒の先にくっつけて撮影した写真
      下記以後のページ紹介は、− 目 次− ブログ名部門(8)
黄色いボートは、とんぼりリバークルーズ。そして未来 NEW 
イメージ 80 など
道頓堀のカールおじさんと繁華街をトンボ目線で NEW 
イメージ 82  イメージ 81 など
今の道頓堀の戎橋の光景をトンボ目線で撮影 NEW 
イメージ 76 など
道頓堀の戎橋の光景を魚眼で:みんな綾瀬はるかだよ、ハイポーズ! NEW 
イメージ 77 など
えびす橋から見えるグリコの綾瀬はるかさんは今だけ(2014年9月2日) NEW 
イメージ 78 など
animate・アニメイトを初めて見学(2014年8月30日) NEW 
イメージ 79 など
あべのハルカスと路面電車(2014年8月30日) NEW 
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あべのハルカスみさか天空(2014年8月30日) NEW 
イメージ 73 など
8月23日朝の通勤道 堺市から和歌山県まで油まみれと高級食材 NEW 
イメージ 71  イメージ 72 など
七人の影武者がいた?真田幸村もまた影武者だった NEW 
イメージ 69
蒼き天球にひつじ雲浮かぶ自動車道(2014年8月27日) NEW 
イメージ 70 など
九度山町ぶらり:幸村が雷を井戸に封じた?そんなバカな! NEW 
イメージ 66 など
九度山町ぶらり:真田家 家紋の意味 NEW 
イメージ 67 イメージ 68 など
知られている真田幸村の名の由来に、推察を加えて NEW 
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九度山ぶらり:真幸地主大神って何? NEW 
イメージ 65
多治速比売神社:拝殿越しに本殿は見える?(堺市2014年8月17日) NEW 
イメージ 60  イメージ 61 など
絶景 住吉大社:第三・第四本宮と夏雲と参拝者(2014.8.17) NEW 
イメージ 62  イメージ 63 など
多治速比売神社を脇門前から見下ろす(堺市2014年8月17日) NEW 
イメージ 58  イメージ 59 など
絶景 住吉大社:トンボ目線で4つの国宝 本宮を一望(2014.8.17) NEW 
イメージ 56  イメージ 57 など
国宝 住吉大社:神前結婚、いいですね!(2014.8.17) NEW 
イメージ 54  イメージ 55 など
魚眼で見る大鳥大社(高さ1.7mから9mまで NEW 
イメージ 52  イメージ 53 など
赤備えの歴史:真田幸村からひこにゃんまで NEW 
イメージ 50  イメージ 51 など
プチ空撮:魚眼で見る大鳥大社(2014年8月16日) NEW 
イメージ 48  イメージ 49
大坂夏の陣での真田信吉の働きとその後
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ほんとにホント?大坂冬の陣での真田信吉の働き
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長宗我部の血筋を残した島五郎左衛門
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大坂夏の陣:長宗我部盛親とその血筋について
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大坂城本丸で記念撮影する和服の変わった団体観光客
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大坂夏の陣:岡山口の戦いから大坂城炎の後まで
イメージ 41  イメージ 42
大坂夏の陣:天王寺口の戦い(幸村ついに死す)
イメージ 40  イメージ 39
大坂夏の陣:幸村が遅刻した道明寺の戦い
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大坂夏の陣:いよいよ幸村・大助の活躍する最終章ですが
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大坂夏の陣 序曲(最後の戦いを前に幸村は)
イメージ 34  イメージ 35
大坂冬の陣:和議と言う名の謀略をわかり易く解説
イメージ 32 イメージ 33 など
大坂冬の陣で使われた大筒の入手経路や威力は?
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大坂冬の陣:真田丸の発想と戦術と攻防
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大坂冬の陣:幸村・家康の計算と思惑と誤算
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九度山町ぶらり:大坂冬の陣(幸村の奮戦実らず)
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九度山町ぶらり:大坂の陣 序曲(幸村の戦いは軍議から)
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九度山町ぶらり:関ヶ原の戦いから大坂冬の陣へ(幸村伝説の始まり)
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九度山町ぶらり:豊臣秀次切腹から始まる真田の悲劇
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九度山町ぶらり:幸村の生涯と関連する出来事
イメージ 23  イメージ 24 など
九度山町ぶらり:真田幸村 九度山脱出
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九度山町ぶらり:与謝蕪村が詠んだ真田の句
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九度山町ぶらり:里への思い深き故に戦い、無念を胸に死した真田昌幸
イメージ 19  イメージ 18
九度山町ぶらり:真田が徳川に仇名した?違うよ!(両者因縁の始まり)
イメージ 20  イメージ 21 など
九度山町ぶらり:昌幸・幸村の配流地 九度山での暮らし 
ノーベル賞作家 川端康成の初恋実らず、文学に実る
九度山町ぶらり:昌幸が北条氏を滅ぼした? NEW 
イメージ 15 など
九度山町ぶらり:秀吉も真田家を滅ぼしたかった
イメージ 13  イメージ 14
九度山町ぶらり:幸村の父真田昌幸の生き様(関ヶ原の戦いに向けて)
イメージ 11  イメージ 12
九度山町ぶらり:幸村の父真田昌幸の生き様(豊臣政権時代)
イメージ 8
九度山町ぶらり:二年後、真田幸村はどう描かれるでしょう)
イメージ 9  イメージ 10  など
九度山町ぶらり:幸村の父真田昌幸の生き様(豊臣の時代以前)
イメージ 6  イメージ 7  など
九度山町ぶらり:真田4兄弟で最も勇猛だった真田昌輝と四男 信尹
イメージ 4 イメージ 5  など
九度山町ぶらり:二代目当主となるはずだった真田信綱
イメージ 3  など
 
上記以前のページ紹介は、− 目 次− ブログ名部門(6)
 
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 〜九度山町ぶらり:二代目当主となるはずだった真田信綱
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!九度山町ぶらり編          
 
●真田氏に関する過去のページ●    
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹 
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
真田伝説はここから始まる→幽閉の真田庵
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華上院
 
 注:文中の●は真田●は徳川●は織田●は上杉●は北条●は豊臣、●は武田です。
 
真田幸村の父(昌幸:まさゆき)には、他に3人の男兄弟(二人の兄と一人の弟)がいました。
これまでのページでご紹介しているように、昌幸は三男として生まれ、他家で家督を継いでいましたが、二人の兄が戦死したために真田家に戻り、真田家二代当主となります。
 
今回は昌幸の兄弟をご紹介します。
 
真田信綱(さなだのぶつな)】
信綱真田家の嫡男でした。
武田家武田家の騎馬200騎持の侍大将として、武田信玄、勝頼の2代に仕え、武田二十四将にも数えられました。
確実な史料としては、真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸隆と連名の連署(れんしょ:鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上 の「副執権」。)として武田家に仕えましたが、初陣や出仕時期など前半生は父・幸隆と生涯が重なるため信綱単独で記された軍功などが見当たらず、不明です。
ただ、父と連署している事から、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたと考えられ、西上野侵攻作戦が行われていた1567年までには家督を相続していたと考えられています。
『甲陽軍鑑』には、1561年の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたそうです。
史料の検討から戦場では専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦し、1568年には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、1569年の三増峠の戦いは昌輝などと共に殿軍(大部隊の最後尾で、敵襲に備える 部隊。)を務めて戦功を挙げています。
その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍しているます。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代(数代にわたり主家に仕え、家政に も関わってきた家臣に準じる地位。)としての待遇を得ていたようです。1572年の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。
 
1574年5月に父である二代目当主の幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継ぎました。
その翌年の1575年におきた長篠の戦いでは三尺三寸の陣太刀(出陣した際の儀礼用の刀)を振り回し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫りますが、鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死します。
享年は39歳でした。。
真田家の家督は武田勝頼の命令により信綱の幼児らに受け継がれる事は認められず、結果として武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承することとなります。
信綱を討ったのは徳川方の渡辺政綱だと言われていますが、、実際には織田信長配下の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉ではないかとする説もあります。
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったとされ、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に今も収蔵されています。
なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられました。
なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がありますが、これは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒の地だからです。
 
信綱信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸信綱の勇を尊敬していたようです。信綱の死後、家督を継いだ昌幸は、わが子の次男:真田信繁信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは信綱のように剛勇になってほしいという期待を込めてであったといわれます。
初陣である信濃小岩岳城攻めで一番槍の功名を挙げるなど豪勇の士であり、「若年より武勇抜群信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されています。

 
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真田庵境内
 
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