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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 ノーベル賞作家 川端康成の初恋実らず、文学に実る
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!         
 
少し前の記事になりますが、ノーベル文学賞作家の川端康成(1899〜1972が22歳の時、婚約相手の伊藤初代に宛てた未投函の手紙が見つかった事を伝える記事が、載りました。
新聞社各誌の見出しは
■ 毎日新聞 2014年7月9日(水) 社会面
      『川端も「既読スルー」になやんだ 返事がないので心配で心配で
朝日新聞デジタル  7月11日(金)17時39分配信
      『川端康成、未投函の恋文 初恋の君へ「夜も眠れない」』
■ 日本経済新聞
   『川端康成、学生時代の恋文発見 「伊豆の踊子」などに影響か』
 
などで、この中では、毎日新聞の見出しがスマホのラインやメールを送った時、既読表示が出ているのに返事が無い事を気にしたり、
「返事をしなきゃ」という強迫観念で延々やり取りを繰り返す今時のふうちょうをもじっていて、苦笑いする面白さがありますね。
 
毎日新聞の記事によると、
手紙は昨年夏、神奈川県鎌倉市の川端低で見つかったもので、川端は旧制一高に通う20歳の頃(1919年)、東京のカフェで働く当時13歳の伊藤初代(1906〜51)に出会った。
これは川端にとっての初恋とされていて、
共に両親の愛情に恵まれない生い立ちながら、明るい初代に心を奪われ、東京帝大(現在の東京大学)に進んだ川端は、1921年秋には岐阜県の寺の養女になった初代と婚約を果たす。
しかし、1921年11月8日の川端宛ての手紙は「私にはある非常が有るのです」「さらば」など、婚約破棄を伝える内容だった。
未投函の手紙は当時のものとみられ、「手紙が来ないと泣き出すほどきにかかる」とつづられている。
この恋のてんまつは、後年、『篝火(かがりび)』『非常』など一連の作品で繰り返し描かれ、初代からの手紙も直接引用されている。
手紙の全文と解説および、川端の娘婿の川端香男理(かおり)さんの寄稿「川端康成と『永遠の少女』」が10日発売の『文芸春秋』8月号に掲載される。
また、手紙の一部は岡山県立美術館で10日から始まる「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」で展示される。
と紹介しています。
 
川端康成の両親の愛情に恵まれない生い立ちについては、住吉大社を取材したおりに記した〜住吉大社にある川端康成文学碑・歌碑・句碑(2013.8.26)〜の中で、私の感想と共にご紹介しています。
実は私がこの記事の存在を知ったのは、早朝のラジオ番組『朝からてんコモリ』(MBS 毎日)で知りました。
その番組の中でメインパーソナリティーの子守康範さんは、この記事について色々コメントしていましたが、中でも印象に残っているのは、
「ノーベル文学賞の川端さんだからいいようなものですけど、今なら、13歳の女性に・・・なんてダメでしょう。それに、こんな手紙、お亡くなりになってから発表されたからいいようなものの、ご存命中なら、・・・・私だったらもう耐えられませんが、・・・・私だったら耐えられませんし、だいいち残しません。ご親族のお話によると、川端さんは、物をなんでも取っておく(ほかさない)人だったそうです。川端さんはある意味、こうした面でもノーベル賞ものだったんですね。」といった内容のことを言っておられました。
この子守さんのお話が、ラジオのパーソナリティーとして適切かどうかは私には分かりませんが、私としても、概ね同感するところです。
ノーベル賞作家だからこそ、その文面も純粋で美しいと、多くの方が共感するのでしょうが、一歩間違えれば、ストーカーともとれるほどの情熱ですよね。
ですが、だからこそ、偉大な文学を後世に残したのでしょうし、私としても彼の生い立ちに起因するこうした行動には、ある種いたしかたないのかな?とも思えます。
だって初代さん、可愛いですよね。
でも、初代さんからすれば、そんな川端さんが怖くて彼のもとを去ったのかな?とも思います。
 
いずれにせよ、毎日新聞の紙面で、鶴谷真さんが記しているように、「伊豆の踊り子」などに登場する純粋な少女像への影響がうかがえる貴重な資料であることは間違いないですね。
幼い頃に亡くなった母への思いそのままに、彼は少女を愛したのでしょう。
 
二人のその後を追加紹介しておきます。
【川端康成の追想】深い心の傷 川端康成と伊藤初代の青春2より
大正13年、川端26歳のとき、文藝春秋に『非常』を発表している。
 昭和9年の『文学的自叙伝』には、「いったい私は後悔というものをしない。もしあの時ああでなかったら、こうであろうという風に、過去を思い出すこともない。だから、二十三と十六で結婚していたらどうなったか、考えてみたこともないけれども、(中略)結婚の口約束だけはしたものの、しかし私はこの娘に指一本ふれたわけではなかった。十四少女の『伊豆の踊子』も似たものである」と記している。
 昭和44年、71歳のとき、新潮社から刊行された「川端康成全集」第二巻のあとがきでは、初代との出来事を次のように回顧している。「大正十年のことで、私は二十三歳の学生、相手の娘は十六歳、(中略)十月八日に岐阜で結婚の約束をしてから、『非常』の手紙を受け取るまで僅かに一月、あっけなく、わけもわからずに破れたのだったが、私の心の波は強かった。幾年も尾を曳いた」
【伊藤初代のその後】 川端康成と伊藤初代の青春2より
初代はその後、別の男の人と結婚して、その最初の夫と死別。そして再婚し、その間、多くの子どもをもうけた。疎開の年から6年間、岩谷堂や水沢に住んでいたこともあった。
 生前、初代は妹のマキに「世の中は、どんなものでも勉強になるものだよ。たとえ芸者屋の子守奉公をしていても」としみじみと語っている。初代は昭和26年、東京・南砂町において46歳の若さで病没した。戒名は「初代貞観大姉」。苦労の連続の人生だったが、その風貌のように透き通るような生涯だった。
昭和47年6月、初代の三男・桜井靖朗は、夭折した二人の兄に代わって、東京本郷にある本家の菩提寺に仮埋葬してあった初代の遺骨を鎌倉霊園に納骨することにした。納骨の日の6月3日、鎌倉霊園にはものものしい雰囲気が漂っていた。いったいどういうことだろうと、納骨に訪れた初代の縁者たちが事務所に問い合わせたところ、「今日は、先ごろ亡くなった川端康成の納骨の日であり、佐藤栄作首相などの要人が鎌倉霊園に来るため、警戒態勢をしいているのだ」という返事だった。別れてから何十年もたっているというのに、その2人の納骨の日と場所がまったく同じというのは、そう滅多にある話ではない。「魂が呼び合ったのではないか」と囁く人もいたという。
 
                 
            婚約中の川端康成(左)と伊藤初代(右)
 
  
14歳の伊藤初代        20歳の川端康成
                
                   晩年の川端康成
 
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