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〜明日香村:上から見た鬼の雪隠(せっちん)と俎(まないた)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
−飛鳥坐神社のページ−
私にとって、鬼の雪隠(せっちん)と俎(まないた)も今から数十年前、小学校の遠足で見たもので、俎の方だけ、何となく覚えていました。
【鬼の雪隠と・鬼の俎】
鬼の俎(おにのまないた)は畑の中を通る遊歩道の脇の高台に鬼の雪隠(おにのせっちん)は、鬼の俎(まないた)は遊歩道を挟んだ高台の麓、一段低い田んぼの脇にあります。
明日香村平田(鬼の雪隠)にあるのですが、花崗岩で作られた遺構です。
両者は明日香村の遊歩道を挟んで直線距離にして数十メートル離れて存在し,
元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものだそうです。
元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)でした。
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」があります両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものだというのが一般的な定説です。
元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)でした。
■大きさ
底石(俎)は長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m。
石室(雪隠)の内幅は約1.5m、高さ約1.3m。
【言い伝え】
伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている。「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。
■底石(俎)には多数の穴が開けられており、割り取ろうとした形跡がみられる。これは高取城建設 の際、石垣の石材として利用しようとしたためとみられる。
■双墓説
俎の位置は雪隠から見てやや東側にずれている。実は現在の俎の西にもう一つ別の俎があり、明治
頃に小さく割られ庭石に転用されたと言います。
すなわち鬼の俎・雪隠古墳は双墓であり、現在の雪隠は西側にあったもう一つの俎と組み合わされた石槨だというのです。割られた石は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されています。
【牽牛子塚古墳に改葬される前の斉明天皇陵であった可能性】
2010年12月9日に、奈良県明日香村教育委員会が発表した越塚御門古墳の発掘成果を受け、研究者からは、同村の観光地でもあるむき出しの石室「鬼の俎(まないた)」「鬼の雪隠(せっちん)」が、越塚御門に隣接する牽牛子塚古墳に改葬される前の斉明天皇陵だったのではないかとの見方が出ています。
板状の石「鬼の俎」とドーム状になった石「鬼の雪隠」は現在、なぜか約30メートル離れた場所にあ
が、組み合わせれば越塚御門の石室と同じ構造になる。東側でも明治時代に俎状の石が見つかっており、古代には東西二組の俎と雪隠があったとみられている。
これに着目する京都橘大の猪熊兼勝名誉教授(考古学)は「越塚御門の発見はこの時期の天皇家が俎・雪隠型の石室を採用していたことを教えてくれた。
奈良芸術短大の前園実知雄教授(考古学)は「俎・雪隠」は斉明天皇が改葬された後、壊されたのだろう。だから離れ離れになっているのではないか」との見方を示した。
斉明天皇と娘間人皇女は牽牛子塚に改葬される前、東西の俎・雪隠にそれぞれ葬られていたのだろう」と話す。
斉明天皇(2010年9月9日)は7世紀中ごろの女帝です。
舒明天皇の皇后として中大兄皇子(天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海人皇子(天武天皇)を産みます。
舒明天皇が亡くなった翌年の642年に皇極天皇として即位。645年の大化の改新を機会に皇位
弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲りますが、孝徳天皇の死後の655年、斉明天皇として再び皇位につく。土木工事を好んだことで知られる天皇で、。661年百済救援のため、九州に赴き、朝倉宮(福岡県)で亡くなりました。
鬼の雪隠の説明版
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2014年10月11日
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