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〜明日香村:酒船石は庭園の水遊び装置だった?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
−飛鳥坐神社のページ−
酒船石は、小高い丘の上にある花崗岩の石造物で、現在の奈良県明日香村岡にあり、この一帯は古くから真神原(まかみがはら)と呼ばれていたようです。
【真神原とは】
現在の奈良県明日香村飛鳥の中央部にあった原野をさす古代地名。《万葉集》に,〈大口の真神の原〉とうたわれているから,かつては真神すなわち野獣であるオオカミのすむような原野と意識されていたらしい。《日本書紀》雄略7年条には,新漢陶部(いまきのあやのすえつくりべ),鞍部,画部,錦部を,桃原と真神原に住まわせたとみえる。真神原とは,飛鳥寺周辺の低湿地をさし,この地に,崇峻1年,飛鳥衣縫造の祖,樹葉(このは)の家を壊して,飛鳥寺の造営が始められた。
(一言:オオカミは野獣をさすのみでなく、大神にもかけられた言葉かも。)
酒船石は一見すると、上面に宇宙人を思わせるような人形のような幾何学的模様が彫られており、以前からよく知られていました。
そもそも酒船石という名の由来は、酒を搾ったものであろうとの想像からこの名前がついたのですが、油を造ったものであろうとか?庭園の施設の一部であろうとか?などと諸説あったようです。
しかし現在では、近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから、庭園に設置された水の施設だったという説が有力視されています。
更に飛鳥資料館の庭園には、酒船石のレプリカもあり、そこでは、明日香村岡の近隣で発見された他の石造物と関連付けて展示されています。
【飛鳥資料館のレプリカの前にある説明文によれば】
「真神原の東の丘の上にあって広く知られている岡の酒船石とは別に、京都の庭園に運ばれて、ほとんど人の目にふれることのないもう一組の酒船石があります。
大正時代に飛鳥川のほとりで発見された出水の酒船石で、二つの酒船石は、庭園の水遊びの装置だったと思われます。
岡の酒船石のまわりでは、丘陵を取り巻く立派な石垣が発見されています。
この場所が斉名天皇の両槻宮(りょうつきのみやorふたつきのみや)にあたるのではないかと考えられるようになりました。」と記されています。
酒船石の主軸はほぼ東西で、現存の長さ約5.5メートル、幅(南北)約2.3メートル、厚さ約1メートルですが、北と南の一部が欠けています。
欠けている部分は後に何かに流用したらしく、上面の造形を無視した石割の跡が見られ、欠けた部分には石割用の工具である矢が打ち込まれた跡があり、このような痕跡は、鬼の俎(おにのまないた)にも見られ、高取城を築く際に、石垣用の石材として利用しようとしたためとみられています。
1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定されました。
近年の発掘調査によって、酒船石のある丘陵は、裾部に花崗岩を据え、頂部に天理市の石上付近で産出する砂岩の切石を積み上げた「石垣」で取り囲まれていたことが数次にわたる発掘調査によって明らかとなってきました。これらの事柄は『日本書紀』にある「宮の東の山に石を累ねて垣とする」「石の山丘を作る」、石を「石上山」から運んだとする、などの記述をあらわしていると思われているそうです。
飛鳥資料館の庭先にある異なるタイプの酒船石(岡の酒船石と出水の酒船石)は、恐らく「庭園に設置された水の施設だったという説 」に基づいた一つの組合わせを具現化しているようです。
【酒船石の組み合わせ順序は】
飛鳥資料館の庭先にある異なるタイプの酒船石(岡の酒船石と出水の酒船石)は、
水の流出口→岡の酒船石→車石→出水の酒船石→川への順で組まれています。
車石とは、 荷車の轍(わだち)のような線が入っているので車石と呼ばれ、水を流す導水施設だったようです。
これは私の推測する補足説明ですが、酒船石が庭園の水遊びの装置だったとするならば、造形を無視した石割の跡が見られ、本来はもっと大きな石造物だったことが伺えることから、岡の酒船石の人形の頭部のように見える位置から分かれた5つ以上に枝分かれした水の流れの行き先のそれぞれに車石が連なり、出水の酒船石もしくはそれに代わる石造物へと水が流れて行く仕組みになっていたのではないでしょうか。
更にこうした水遊びの装置は単なる水遊びの装置に止まらず、何らかの占いの儀式に関連づけられていたと思えるのです。
車石に続く出水の酒船石と、飛鳥資料館の庭先にある異なるタイプの酒船石(岡の酒船石と出水の酒船石)の組み合わせの全体像については、次回にご紹介させて頂きます。
岡の酒船石
高さ4メートルから撮影
飛鳥資料館の庭先にある
岡の酒船石(レプリカ)飛鳥資料館の庭先にある酒船石についての説明板
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2014年10月13日
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〜明日香村:益田岩船 古代遺跡の超絶景〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
−飛鳥坐神社のページ−
益田岩船(ますだのいわふね)は奈良県橿原市白橿町にある花崗岩の巨大な石造物です。つくられた時期や目的などは不明で、亀石・酒船石などと並ぶ飛鳥の謎の石造物の一つで、その中でも最大のものだそうです。
奈良県橿原市の橿原ニュータウン内、白橿南小学校の西の丘陵(岩船山)の頂上付近にある。岩船山麓から益田岩船に行く際、ロープが張られた箇所がいくつか有り、たどり着くには危険が伴う。かつては岩船から東へ約200メートルの白橿近隣公園内の沼山古墳などからも山の上にある岩船を目視できたそうですが、現在は竹林におおわれています。
さて、益田岩船の物理的な寸法・重さ・特徴などですが、
東西約11メートル、南北約8メートル、高さ約4.7メートル(北側)の台形状で、東西の側面はほぼ垂直に切り立っている。上部から側面にかけて幅1.6メートルの溝が東西に掘られている。この溝に1辺1.6メートル深さ1.3メートルの方形の穴が、1.4メートルの間隔を開けて二つくり抜かれている。岩の重さは約160トンと推測され、かつては他から運ばれて来たという説もあったが、現在では最初から今の場所にあったと考えられている。また、下部には深さ10センチほどの格子状の溝が彫られているが、表面を平にするための加工法と見られています。
建造時期や用途については、文献などが残っておらず確かなことは不明ですが、前回のページで松本清張さんの仮説をご紹介しました。
今回は他の説もウィキペディアからご紹介しておきます。
1、益田池の造築を讃えた、弘法大師の書による巨大な石碑の台石とする説
最も古くからある説で、上にのっていた碑は高取城築造のさいに石垣をつくるための用材として破砕 されたという伝説がある。
2、占星術のための天体観測台だと言う説
二つの穴に石柱を建て、その上に横柱を渡して星を観測したという説。
3、火葬墳墓とする説
穴の中に遺骨を入れて石の蓋をする墳墓。
4、横口式石槨の古墳だという説
横口式石槨の建造途中で石にひびが入っていることが分り放棄されという説。その後別の石を使っ て完成したものが、岩船から南西へ500メートルほど行ったところにある牽牛子塚古墳であるという。 東側の穴と違って、西側の穴には水がたまらない事からも亀裂が入っている事がわかる。現在では 最も有力視されている説だが、決定的な証拠は無い。
(一言:今回の観察では、西側の穴にも水が溜まっていましたよ。東側の穴よりは水量は少ないですけど。長年の異物が堆積して目詰まりしたのでしょうか?)
さてお約束の画像、まずは西側から撮影した画像です。
益田岩船が西側に傾いているために、人目線でも少し離れた位置から撮影すれば岩の上面が見てとれるため、多くの撮影者は、こちら側から撮影しています。
ですが自分で言うのも何ですが、私の撮影した画像は二味違います。
益田岩船(西側から撮影)
上の2画像は、絵にならないので画像サイズを極端に小さくしていますが、
トリミング無しのオリジナル通りの範囲が写っています。
つまり、魚眼を使っても1部分しか写らない近接から撮影しているということです。
左の画像は人目線で、右の画像は高さ4メートルから撮影しています。
人目線ですが、この画像だけ少し離れた位置から撮影しています。
何だか鼻から上の前面が欠落した頭蓋骨のようです。
益田岩船(西側から撮影)
高さ5メートルから撮影
益田岩船(西側から撮影)
高さ6メートルから撮影
益田岩船(西側から撮影)
高さ9メートルから撮影
この画像で、南面が傾斜のある滑らかな面に削られていて、
北面は絶壁だということがよくわかります。 ここからは、東側からの撮影です。私的にはこれら東側から撮影した画像が気に入っています。
益田岩船(東側から撮影)
人目線
益田岩船(東側から撮影)
高さ4メートルから撮影
東面の上部は滑らかに削られていて、中部・下部はブロック状に細かく彫り分けられた多数の凸面になっていることから、恐らく当時は、最初に格子状に細かく溝を掘ってブロック状に凸部を残し、それから各ブロックを削り落とすという技法で、岩を加工していたことが見てとれますね。
益田岩船(東側から撮影)
高さ4メートルから撮影
この画像で、益田岩船の北側、つまり向かって右面上部の角が、
アールになている(滑らかな面取り)ことが分かります。
益田岩船(東側から撮影)
高さ6メートルから撮影
益田岩船(東側から撮影)
高さ9メートルから撮影
アールになった角部が、正確に削り取られた右肩部の曲線が実に美しく、
当時の工作技術や計測技術が極めて優れていたことを物語っています。
次回は、明日香村の予告編でもご紹介した酒船石について、改めてご紹介します。 |
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