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〜明日香村:伝飛鳥板蓋宮跡はほんの一部だって知ってましたか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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前回のお約束通り、伝飛鳥板蓋宮跡(でん あすかいたぶきのみやあと)のご紹介です。まずは画像をご覧下さい。
伝飛鳥板蓋宮跡の史跡公園
高さ9メートルから撮影
伝飛鳥板蓋宮跡の史跡公園
高さ6メートルから撮影
伝飛鳥板蓋宮跡の史跡公園
人目線だと宮跡のごく一部でもこんな感じでよくわかりません。
説明板 飛鳥資料館のジオラマ
実を言いますと現地へは、飛鳥宮についての予備知識を持たぬまま出かけていたので、伝飛鳥板蓋宮跡に到着してまず思ったことは、「当時の宮跡は随分小規模なのだなあ。」でした。
ところが、無知とは恐ろしいもので、このページを記すにあたって調べてみると、どうも紹介されている当時の伝飛鳥板蓋宮の平面図と会わない。
「撮影画像のどこが、正殿?南門?大安殿?わからんなー?」と画像と図面を見比べて首をひねるばかりで時間が過ぎてゆきました。
そんなこんなで数時間、分からないはずです、撮影したのは伝飛鳥板蓋宮跡の一部分だけ、だったのです。どうりで図面と符号しないわけです。
ともわれ、生まれつき足りない知恵でそのことが理解できてよかったです。
(一言:「この史跡は宮跡のごくごく一部です。」という説明書きがほしいです。私のような者にもすぐに分かるように。他に私のような人はいないのでしょうか?「伝飛鳥板蓋宮って小さな宮だったんだなぁ。」と思ったまま帰る人は。)
以下は、伝飛鳥板蓋宮の説明です。 平飛鳥寺付近から南の橘寺付近にかけて広がる水田地帯は、かっては「真神の原」と呼ばれた荒れ地だった。飛鳥川がたびたび氾濫し、上流から運ばれて来た土砂で埋まり、5世紀の初め頃は雑草が生い茂りオオカミが出没する原野だったのだろう。真神(まがみ)とはオオカミのことである。5世紀の後半になって、朝鮮半島からの渡来人が住み着き、やがて飛鳥発展の原動力になっていく。
7世紀を飛鳥の時代という。推古天皇が西暦592年に豊浦の地に豊浦宮を置いたのを皮切りに、歴代の天皇は、ある特定の一時期を除いて、藤原京が完成するまで、この地に宮を造営し続けた。推古天皇の飛鳥豊浦宮と飛鳥小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、そして天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮・・・
これらの宮のうち、推古天皇の2つの宮を除いて、他の宮居は実は同じ場所に造営された。真神が原のほぼ中央、現在「伝飛鳥板蓋宮跡」として史跡に指定されている付近である。近年の発掘調査の成果として、史跡の一番下の第1期層に飛鳥岡本宮、その上の第2期層に飛鳥板蓋宮、そして第3期層の下側に後飛鳥岡本宮、上側に飛鳥浄御原宮が重なり合っていることが分かった。したがって、厳密に言えば、「伝飛鳥板蓋宮跡」の呼称は不適切である。最近では倭古京(やまとこきょう)という名称が定着しつつある。
真神の原に関しては、次のような歌が『万葉集』に残されている。
●大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに 舎人娘子(とねりのおとめ) (巻8-1636)
【意味】真神の原に降る雪は、ひどく降らないでおくれ。家もないのだから。
●三諸(ももろ)の 神奈備山(かんなびやま)ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや 作者不詳 (巻13-3268)
反歌
帰りにし 人を思ふと ぬばたまの その夜は 我れも寐も 寝かねてき 作者不詳 (巻13-3269)
【意味】三諸の神奈備山から一面に曇って雨は降ってきた。雨は霧のように降って風までも吹いてきた。真神の原を通って私を思いながら帰って行ったあの人は、家に着いたかしら。
反歌
帰って行った人を思うとて、その夜は私も眠れませんでした。
これまでの発掘調査で、宮跡は3層4期に区分されて考えられます。最上層のⅢ期は更に二つに区分され、Ⅲ期AまたはBと表記されます。 I期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636)、Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643〜 655)、Ⅲ期Aは斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656〜667)、Ⅲ期Bは天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672〜694)に該当すると推定されています。 Ⅲ期A・Bの区分は、Aが内郭だけであったのに対して、Bはエビノコ郭や外郭を持つ点にあります。その新設に伴う変更が、内郭でも若干行われたようです。現在、目にすることが出来る井戸遺構や建物跡は、共にⅢ期の遺構ということになります。 夫である舒明(じょめい)天皇は即位13年目で崩御する。皇位継承は皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)になるはずであったが、16才では若すぎるというので、皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が皇位に就いた。これが「皇極(こうぎょく)天皇」である。舒明天皇と宝皇女との間には、中大兄皇子、間人皇女(はしひとひめ)、大海人皇子(おおあまのおうじ)がいて、舒明天皇と皇妃法堤郎媛(ほほてのいらつめ)との間には、古人大兄皇子(ふるひとのおおえ)がおり、皇位継承権のある皇子としては、中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王(やましろのおおえ)がおり、争いをさけるため皇極天皇が即位したとも考えられる。
この女帝の就任は、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)に気がねする蘇我蝦夷によるものだったが、病気がちで次第に登朝しなくなってきた蝦夷に代わって実権を握りつつあった、蝦夷の子・入鹿は、より露骨に山背大兄皇子を退け、ついに一家を皆殺しにしてしまう。それを知った蝦夷は、入鹿の将来の身を案じて憂えたとされる。 蘇我の血が流れていない皇太子の中大兄皇子にしても状況は山背大兄皇子と同じであった。専横の限りを尽くす入鹿がいる限り、天皇となれる可能性は薄かった。或いは命の危険も感じていたかもしれない。 そして、中大兄皇子・中臣鎌子は「乙巳の変」を引き起こし、蘇我氏勢力を朝廷から一掃した。世に「大化の改新」として知られる。宮廷での入鹿殺害という惨劇を目の辺りにして、皇極天皇は中大兄皇子を詰問するが、皇子は蘇我氏の悪行の数々を並べたて糾弾した。古人大兄皇子は一目散に自宅へ逃げ帰り、蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。 その後、大化改新を引き起こした中大兄皇子・中臣鎌子は皇極の弟「孝徳天皇」を擁立して難波の宮へ遷都するが、仲違いを起こし、孝徳天皇一人難波に取り残される。その孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。そこで母の皇極女帝が重祚(ちょうそ:再び即位する事)し、「斉明(さいめい)天皇」となる。我が国初の「重祚」である。ちなみに、「皇極天皇」から「孝徳天皇」への譲位も、我が国史上初の「譲位」となる。 斉明女帝は、各地の土木工事を推進、東北の蝦夷侵攻なども積極的に行った。今年(2000年)になって、奈良飛鳥の地から、亀石形の流水施設を含む宮廷施設等が発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。 また対外政策では、新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・皇太子(中大兄皇子)らは百済の救済のため九州に赴いた。太宰府から奥へ入った朝倉の地に、「橘広庭宮」(たちばなのひろにわのみや)という仮宮を建造し指揮にあたったが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退し、斉明天皇も朝倉の地で急死する。 先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。
ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。 『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明天皇よりも20年以上長く生きている事や、皇子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。
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2014年10月18日
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