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〜明日香村:檜隈墓(ひのくまのはか)は古墳ではない?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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明日香村の下平田にある欽明天皇陵(別名平田梅山古墳)の南西に、宮内庁が檜隈墓(ひのくまのはか) として管理する吉備姫王(きびひめのみこ)=吉備嶋皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)が眠るとされるコンクリートの柵に囲われて数本の巨木が天高く聳えてる直径8m程度の小さな円墳とされている墓があります。
ですが実際には考古学的裏付けはなく、古墳ではないとする説もあります。
吉備姫は第35代皇極天皇(第37代斉明天皇)および第36代孝徳天皇の生母です。
古墳だと考える説の根拠となっているのは、『日本書紀』の「皇極天皇2年(642)9月になくなり、 檀弓丘(まゆおか) に埋葬された。『延喜式』諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓がある。」という記述から、現在の古墳に比較してこの森が該当すると推定されました。
ところが、古墳であるかどうかも定かではない檜隈墓(ひのくまのはか)に訪れる人々は決して少なくありません。
ではなぜ多くの方がこの地に訪れるのでしょう。
実は訪れる人々の興味は、檜隈墓(ひのくまのはか)そのものではなく、柵の内側に並べられた4体の石造物なのです。
高さ1m前後のこれらの石造物は、それぞれ僧、男性、女性、山王権現の名で呼ばれていますが、何故か「猿石」と総称されています。
昭和61年(1986)に欽明天皇陵の南辺の発掘調査が行われ、天皇陵の南約150mの地点で敷石遺構と石積みの護岸施設が存在したことが明らかになり、平田キタガワ遺跡と名付けられました。
出土遺物が極めて少なく、時代を特定できませんでしたが、石敷きの特徴などから斉明朝の遺構である可能性も否定できないのです。
当初、平田キタガワ遺跡は、天武・持統陵古墳へと続く谷筋の湿地帯に造られたようです。
紀路(伊:きい)の国=現在の和歌山県へ行く道。)を通って飛鳥の中心部に向かう入口にあたり、湿地帯を埋め立てて飛鳥京に匹敵する石敷きと護岸を持つ水の施設を作ったと推定されているそうです。
【陪塚(ばいちょう)とは】
大きな墓のそばにある小さな墓であったり、副葬品を納めるだけのものもある。
(一言:つまり、檜隈墓が陪塚だとするならば、吉備姫の墳墓とは限らないどころか、単なる欽明天皇の副葬品を納めた場所に過ぎなきかもしれないということなのでしょう。)
【檜隈墓の檜隈とは】
奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名。檜隈忌寸(いみき)とも称される渡来系集団,東漢(やまとのあや)氏が集中して居住した。《日本書紀》応神20年9月条の記事や,《続日本紀》宝亀3年(772)4月条の坂上苅田麻呂の奏言によれば,応神朝に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)やその子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に住みつき,その子孫が栄えて檜隈忌寸と称されるに至ったという。雄略朝からは,さらに新来の渡来系の人々すなわち今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)もこの地に住むようになった。
檜隈墓(ひのくまのはか)の正面全体像
左の石碑には、「吉備姫王檜隈墓
」の文字が
右の木札には、「檜隈墓」と記されています。
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2014年10月28日
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