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〜明日香村:田園の中の橘寺〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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橘寺という名は、第11代垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘(日本に古くから野生していた日本固有の、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種)の実を植えたことに由来するそうです。
【垂仁天皇について】
第11代天皇で、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあるとか。
垂仁天皇の都は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)とされていますが、『古事記』には「師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)」とあり、奈良県桜井市穴師周辺と推測されています。
【崇神天皇について】
崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのうは、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年
12月5日)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見だそうです。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明しています。
発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でないそうです。
皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えています。
(以上橘寺 - Wikipediaより)
更に橘 寺(たちばなでら)によれば、
昭和28年、31-32年に石田茂作氏が発掘調査され、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線にならぶ四天王寺式伽藍配置であることが推定された。これに基づく橘寺創建時伽藍配置は下図のとおりである。但し、廻廊が金堂の裏で閉じる可能性もあり、この場合は山田寺伽藍配置ともいえるが、その後の他の研究機関による発掘調査でもこの点は未だ明確にはなっていない。
現在の橘寺配置図の上に、赤で創建当時の橘寺を表示
四天王寺式については、以前に四天王寺を〜魚眼で見る四天王寺さん:目線は上から(2013年5月26日)〜でご紹介していますので、そのおりの画像を以下に紹介しておきます。
【四天王寺式伽藍配置とは】
四天王寺式伽藍配置(してんのうじしきがらんはいち)は、飛鳥時代の代表的な伽藍配置の一つ。
建築にあたって、中心軸となる南北線をどう設定するのか。7世紀前半に創建された四天王寺は真北にとっている。古代の寺院建築では軸線を真北に設定するのが基本で、中国に端を発する。
四天王寺
(西重門越しに左から講堂・金堂・五重塔・中門を望む)
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
以下は橘寺の画像です。
http://www.kasugano.com/kankou/asuka/img/asuka11.jpg http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Tachibanadera_Kannond%C5%8D.jpg/230px-Tachibanadera_Kannond%C5%8D.jpg
本堂(橘寺|春日野奈良観光より) 観音堂(橘寺 - Wikipediaより)
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2014年10月29日
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