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〜明日香村:猿石は橘寺と高取城跡にもあります〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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梅山古墳 - Wikipediaによれば、 現在の欽明天皇陵は、宮内庁により「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」として第29代欽明天皇の陵(みささぎ)に治定されています。墳丘は前方部を西に向け東西に正確に主軸をとった前方後円墳で、全長約140m 後円部径72mで、明日香村内では最大の古墳である。非常に多くの葺石(ふきいし)があることでも知られています。
現在は回りに水を湛えた周濠を持っていますが、これは文久の修復で大幅に改築されたものであり元は田であった。
なお、この修復の際に双円墳から前方後円墳に改造されたとする考えもあるとか。
ですが私はまだどちらにも足を踏み入れていません。
ただし、そのレプリカは、明日香資料館にありましたので、これをご紹介します。
橘寺の二面石は、境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。飛鳥謎の石造物2 には、「この石はおそらく吉備姫王墓内にある猿石と同じ場所にあったものがここに運ばれたのではないかと想像されています。」と紹介されています。
「高取城への登山道の途中にも猿石と呼ばれる石像が1体置かれている。もともと上記の4体と同じ場所から掘り出され、その後現在の場所に移されたのではないかといわれているが、確かなことは分かっていない。」
ちなみに高取城跡(たかとりじょうあと)は、は、明日香村の隣にある奈良県高市郡高取町高取にあります。
ところで、檜隈坂合陵の檜隈とは、檜隈とは - コトバンクに「奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名。檜隈忌寸(いみき)とも称される渡来系集団,東漢(やまとのあや)氏が集中して居住した。」と記されています。
「東漢氏は総称であり、『記紀』の応神天皇条に渡来したと記載されている阿智使主を始祖とする氏族集団である。東漢氏は倭漢氏とも称し、6世紀ごろには河内を本拠とした西漢氏と対比とともに、ヤマト・飛鳥を拠点としたことから東漢氏と称したものと考えられている。漢と書いてアヤと読ませるのであるが、朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国を中心とした氏族が渡来してきたことに由来してアヤとなり、その後朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来したという伝承に由来して「漢」と称することとなったことが主に考えられている。・・・・・・・その東漢氏の系図を分析すると、東漢氏は奈良時代には漢の高祖など漢の皇帝を始祖として自氏系譜の権威づけをしていったことが伺える。そのほか伝承面では東漢氏の渡来伝承には、神牛の導きに従い、中国漢末の戦乱から逃れ、朝鮮に渡ったこと、皆才芸に優れ重宝されたこと、さらに聖王が日本におり、このままでは滅ぼされてしまうとして、渡来してきたことが『続紀』などにしるされている。
渡来理由は、戦乱、技術、聖王をしたっての帰化(帰化については、書紀ではただ渡来したということと相違があり、渡来した上でさらに期間があり、その後申請手続きを経て、何らかの戸籍に載せられるなどのことがあっものと考えられる。また帰化した後も、聖徳太子の師である慧慈は帰国していることなども注目すべき。)したのであるが、牛の方角に関する教え(書紀にみられる方術の類か)という宗教的要因も渡来伝承の上では影響しているといえるだろう。東漢氏、秦氏については、記紀においても、神の子孫とはされず、明らかに外国人すなわち人間の子孫としてあらわされる。かれら自身も神の子孫と称することは非常にすくない。これらの点は神々に系譜を求める倭系氏族とのあきらかな相違がある。このようにかれらの宗教観念が自身を神と同一体あるいは、子孫とする思想に影響されていないことは考慮しておくべきである。
渡来時期については、・・・・・・5世紀末に求める説が有力である。同じく5世紀末から6世紀初頭にかけて渡来してきた今来漢人等、渡来系技術集団を配下に取り込み支配することによって、勢力をましていったものと考えられている。秦氏の新羅系精銅・製鉄技術より新しい百済系の製鉄技術をもたらしたものと考えられ、東漢氏の配下にいた忍海漢氏などは製鉄技術をもって奉仕を行ったいたらしい。
東漢氏は、技術者集団を取り込むと同時に、文筆業を主としたらしい(東)文氏を排出するなど、文人としての官人を多く排出した。7,8世紀には内蔵・大蔵官人を多く排出するなど、算術をもとにした高度な管理能力なども身につけていたものと思われる。また東漢氏は蘇我氏の門番や宮廷の警備に多くかかわっている。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏が担当しており、蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てることもあった。その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。東漢氏は奈良時代以降も、武人を排出しつづけており、平安初期には蝦夷征討で名を馳せた東漢氏の首長氏坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子がみえることもその伝統によるものである。そのほか東漢氏は、大和東南部の高市郡を本拠としていたが、後代その高市郡は渡来系の同族が八・九割をしめたことが『続紀』の苅田麻呂上表文に載せられている。」 これぞ猿石ですね。
高取の猿石のレプリカ(裏面)
猿がお尻を掻いているように見えますね。 橘寺の二面石(表面?)これが善相?奈良「川原寺」〜「橘寺」〜「石舞台」 - みずえ - Yahoo!ブログよりこちらの橘寺を紹介するページはとても綺麗です。
明日香資料館ではこれのレプリカをこのアングルで撮影出来なかったので、画像をお借りしました。
二面石のレプリカ(裏面?)これが悪の顔?二面石のレプリカ(側面)これが悪相? |
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2014年11月01日
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〜明日香村:猿石はなぜ檜隈墓に?〜
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〜明日香村:檜隈墓(ひのくまのはか)は古墳ではない?〜でご紹介したように、
吉備姫王檜隈墓こと
檜隈墓に目的意識を持って訪れる方の多くは、古墳そのものを見るために訪れるのではなく、そこにある猿石と呼ばれる石造物が目当てです。これは江戸時代に梅山古墳のすぐ南の田(小字池田)で掘り出されて古墳のかたわらに置かれていたもので、明治初期に現在の場所に移された。
(一言:思うに、田んぼより掘り出された猿石は、当初は梅山古墳のかたわらに置かれていたものの、明治時代に、欽明天皇陵としての指定を受け、現在見られる石庭風の白砂と玉砂利の空間に、生垣・石柱の柵・石灯籠・石鳥居などを配置した天皇陵の様式に整備するにあたって、猿石をどこかに移動させる必要があったのですが、めったな場所に放置するわけにもゆかず、考えあぐねた結果、現在の檜隈墓に置かれたのでしょう。)
百聞は一見にしかずなので、〜魚眼で見る 履中天皇陵(2013年5月3日)〜のおりに撮影した画像を天皇陵の様式例としてご紹介して置きます。
履中天皇陵:(高さ約 9メートルの目線から)
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
猿石はどれもユニークな人面石像ですが、猿ではなく渡来人を象ったものであるといわれています。
4体の像にはその外見から左から順に『女』『山王権現』『僧(法師)』『男』とそれぞれに愛称がつけられている。僧以外は像の背面にも顔が彫られている二面石で、僧の背面には肋骨(ろっこつ)らしきものが彫られているとか。
檜隈墓にある猿石(女と山王権現)
檜隈墓にある猿石(僧:法師と男)
檜隈墓の鉄柵越しに猿石は、以上のように見えますが、4つある各猿石の特徴を知って頂くために、明日香資料館の庭に設置されているレプリカの画像をご紹介します。 『
レプリカ(表面)山王権現
』の
男性器らしきものが見えます。
『
山王権現
』のレプリカ(側面)
背中合わせです。
『
レプリカ(裏面)山王権現
』の
背中合わせにある裏面の様子は、人ならざる物です。
人の裏側には人ならざる物が住み着いているということを表現しているのでしょうか?
一見すると獅子か狛犬のようにも見えますが・・・。
山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である。また、日吉大社の祭神を指すこともある。
山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた[1]。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる[1]。
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
(一言:ということは、山王権現を含むこれらの石造物の愛称は、最澄が天台宗を開いた平安時代以後に付けられたのでしょうか。)
『
女
』のレプリカ(表面)
とても女性には見えませんが、胸部には乳房らしきものがあります。だから『女』なのでしょうか?
『
女
』のレプリカ(裏面)
下部の彫り物は、魚か鳥の頭部のようにも見えますが・・・・。
『女』という愛称から考えると、着物を着た後姿でしょうか。
『 僧(法師)
』のレプリカ(裏面)
合掌し、瞑想するかのような様子が、
『 僧(法師)
』という愛称をつけられた理由でしょうか?
『 僧(法師)
』のレプリカ(裏面)
合掌し、瞑想するかのような様子が、
『 僧(法師)
』という愛称をつけられた理由でしょうか?
先に猿石 - Wikipediaには「 『 男
』のレプリカ(表面)
愛称にふさわしく?男性器らしきものが見えます。
『 男
』のレプリカ(裏面)
私には、うずくまって前を向く人が、右耳の後ろに掌を前に向けて右手をあてて耳を澄まし、
左手は口元をふさぐように添えているように見えます。
上部の凸部は、頭にかぶった帽子(烏帽子?)と見ることもできますね。 |
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〜明日香村:聖徳太子誕生の地は橘寺?〜
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今の若い方は聖徳太子なる人物をご存知でしょうか?
明日香村にある橘寺へと至る参道の入り口には、『聖徳太子御生誕所』と刻まれた石碑の建つ場所があります。これだけを見れば、二体のお地蔵さんや石碑のあるこの地が聖徳太子誕生所そのものが太子生誕の地のように思えるし、橘寺は太子が生まれた地であることを示す道標のようにもみえます。
聖徳太子が誕生したのは、この場所なのか、それとも橘寺内なのかの判断ができず、通りがかった方にお聞きしたくらいです。
聖徳太子誕生の地で検索してみると、生誕の地は、幼名が厩戸(うまやど)皇子だということから、馬小屋で生まれたとの説もあるのですが、それが橘寺の中にあったのか、それとも寺の周辺なのかどうなのかは定かではなく、
結果としたは、「誕生の地は、橘寺もしくはその周辺」とされていて、定かではないというのが現状のようです。
私が幼少の頃は聖徳太子と言えば、正にスーパーヒーローでした。
日本紙幣の最高額:1万円札の肖像画として描かれていたり、小学校の歴史の教科書には、能力があれば、身分向上も望める『冠位十二階』や律令政治の始まりとなった『憲法十七条』を導入した偉人として記載され、その姿を描いた肖像画として法隆寺所蔵の『聖徳太子二王子像』が紹介されていました。
更には普段の話の中でも、「聖徳太子というのは、10人の話を一度に聞き分けて、各自に答えたというのに、お前は1つの言いつけも聞いていないのか。」と、親などからよく言われたものです。
なのに今では、1万円札と言えば福沢諭吉、『聖徳太子二王子像』に描かれているのは太子ではないとして、教科書から削除されていまいました。
きっと今の若い人は、聖徳太子という人物がいたとういうことも知らないのではと思うと、実に嘆かわしい思いです。
それにしても、私としても今の今まで、聖徳太子が逆臣として中大兄皇子などに首を討たれた曽我氏の血筋(橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。)で、太子の妻は馬子の娘・刀自古だったとは全く知りませんでした。
太子は、推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめました。
聖徳太子にとって、蘇我 入鹿(そが の いるか)が中大兄皇子によって討たれ、大化の改新によって、曽我氏らが推し進めていた手法をとりいれた政治改革の最中で、どのような思いで過ごしたのでしょうか?
以下にご紹介するように、晩年の太子は、後進の育成に努めます。
(一言:言い換えれば、権力の座を巡って血で血を洗う争いを嫌い、心静かな生き方を選んだとも言えるのでは。)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Taishi_10000JPY.jpg/280px-Taishi_10000JPY.jpg http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f0/Prince_Shotoku.jpg/180px-Prince_Shotoku.jpg
旧1万円札 聖徳太子二王子像
【聖徳太子とは】聖徳太子の生涯より本名、厩戸(うまやど)皇子。名前の由来は、厩(馬小屋)の前で産まれたからとの伝承もあるが、出生地の「厩戸」(明日香村・橘寺付近に昔あった地名)や蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)からきているとする説が有力。一度に10人の話を聞き、各々に的確な答えを返したことから「豊聡耳」(とよとみみ)とも呼ばれた。
太子が生まれた古墳時代末期は、百済を通じて仏教が伝来(538年)してから約40年が経った頃。政局では仏教を崇拝する蘇我馬子と、日本古来の神道を信奉する物部守屋が激しく対立していた。国際派の馬子は「アジア各国が仏教を信奉しており、日本もこれを採り入れ世界の仲間入りをするべき」とし、守屋は「そんなことをすれば天照大神など日本の神々の怒りに触れる」という保守勢力の代表だった。太子のお婆ちゃんは父方が馬子の姉、母方が馬子の妹(皆父親が蘇我稲目)。蘇我氏の血をひく太子もまた少年期から仏教に傾倒していた(後の太子の妻は馬子の娘・刀自古)。馬子が百済から伝わった弥勒像を自邸に安置すると、10歳の太子が供養に訪れたという。
585年(11歳)、太子の父親・第31代用明天皇が即位したが、ほどなく父は病に臥した。父は天皇として初めて公に仏教に帰依する。587年、13歳で父は他界。馬子は先代の第30代敏達(びたつ)天皇の妃で太子の父の妹、額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古天皇)を皇位継承者に推し、一方、物部守屋が敏達天皇の弟・穴穂部皇子を推した事で、ついに両者は戦場での直接対決となった。この戦乱では太子も蘇我軍として戦場に出る。当初、戦いは物部氏に有利に進んでいたが、太子が仏像を彫って四天王に勝利祈願したところ、自軍の矢が守屋に命中し形成が逆転、物部氏は滅亡した。
戦後、額田部皇女は弟の崇峻(すしゅん)天皇を即位させたが、崇峻天皇は馬子と仲違いして即位から5年目に暗殺された(この時代の天皇はホント命がけ)。これを受けて額田部皇女が初の女性天皇として即位し、推古天皇となった(592年)。翌年、推古の甥っ子で皇太子の聖徳太子が、19歳で摂政となり天皇の補佐に当たった。太子は就任直後に、四天王へかつての戦の感謝を込めて日本最古の官寺(国の寺)・四天王寺を建立する。
この593年の摂政就任の4年前に、大陸には約370年ぶりの統一王朝・超大国『隋』が誕生しており、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇権を競っていた。日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。太子は渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋には法律と官僚制による優れた行政システムがあり、政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、首都長安では仏教芸術が花開いていた。当時の日本は大豪族が一族の利益を求めて互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。馬子も太子と同じ考えであり、両者は協力して改革に取り組む。
596年(22歳)、まずは国内初の本格的仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)を完成させた。五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院だ。大和政権は百済人を中心として、優れた建築術・彫刻技術を持つ者を大量に受け入れており、渡来人は宮廷人口の3分の1にまで達した。その意味でも出身国の関係なく互いの心を結ぶ仏教が益々重要になった。
そして600年(26歳)、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋を建国した文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れ果て「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。
日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は『日本書紀』には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。
発奮した太子は馬子との共同執政の中で中央集権化を進め、603年(29歳)に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年(30歳)には十七条憲法を制定していく。
《冠位十二階》
朝鮮諸国の冠位制度を参考に、儒教の徳目を現わす言葉「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小にわけて12階(大徳〜小智)を定め、位ごとに色分けした冠(帽子)を授けたもの。紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目でわかった。血縁に関係なく働きぶりによって冠位を上下させ、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた。これは律令制の位階制の源となる。
《憲法十七条》
日本初の成文の法令集。太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理。仏教や儒教の長所を導入した。(以下抜粋)
第1条「和をもって貴しと為す。協調・親睦の気持ちをもって論議せよ」
第2条「あつく三宝(仏・法・僧)を敬え。本当に極悪な人間はまれであり、正道(仏道)を知れば従うものだ」
第4条「官僚は礼の精神を根本とせよ。上に立つ者に礼があれば、民も必ず礼を守り、国家は自然に治まる。その逆も然り」
第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁くように。近頃の訴訟を治める者は賄賂が常識となり、賄賂を見てから訴えを聞いている。裕福な者の訴えはすぐに受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞き入れてもらえない。もってのほかだ」
第6条「悪を懲らしめて善を勧めよ。へつらいあざむく者は、国家や人民を滅ぼす鋭い剣である」
第8条「官僚たちは、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公務はうかうか出来ぬものだ。一日かけても全て終えるのは難しい。遅く出勤すれば緊急の用に間にあわないし、早く退出しては必ず仕事をやり残してしまう」
第10条「心の怒りを絶ち、人が自分と考えが違っても怒ってはならない。人それぞれに考えがあるのだ。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かということはない。皆ともに凡人なのだ。これをよく踏まえ、相手がいきどおっていたら、自分を振り返って自らに過ちがないかと恐れよ」
第12条「地方官は勝手に税をとってはならない。国に2人の君主なく、みな天皇の臣下である」
第16条「春から秋までは民を使役してはいけない。民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕が為されなければ、何を着たらよいのか」
607年(33歳)、第1回遣隋使の不面目から、冠位十二階、十七条憲法を制定し、前年には金色に輝く飛鳥大仏を法興寺に安置させ、この年には仏教の総合大学・法隆寺を建立した。外交官の小野妹子は血縁ではなく能力によって登用された公式の冠位を持つ人間。もう政治システムも仏教美術(文化レベル)も以前の「倭国」ではない。リベンジの体勢は整ったッ!7月3日、太子は『日本書紀』に記されている“第1回”の遣隋使を派遣する。妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。
「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」
“日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?”
これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。
妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能だと分かった。翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞儀をする等)を執った。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は、ここに見事成就した。
以降、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、日本は国力を高めていった。 聖徳太子御誕生所
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