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〜明日香村:飛鳥坐神社 奥の社のそのまた奥に、ご立派です〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!奈良県明日香村編
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前回ご紹介した元伊勢(伊勢神宮の前身)と呼ばれる『奥の社』のそのまた奥には、『奥の大石』と称する石が鎮座しています。
この後一挙にご紹介する予定ですが、飛鳥坐神社には、数多くの陰陽石が存在します。
その中にあって最も巨大な陽石が、この『奥の大石』です。
そしてこの御石には、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が宿るとされています。
〜明日香村:飛鳥坐神社 ご祭神 高皇産霊神は、天照大神と同格〜でご紹介したように、
天照大神がニニギの祖母(父の母)であるのに対して、
タカミムスビ(高御産巣日)は天孫(天照大神の孫)であるニニギの外祖父(がいそふ:母方の祖父・母の父)に相当します。
そして定説では天照大神が、皇室(天皇家)の祖となる神(皇祖神こうそしん:皇室の祖とされる神)とされていますが、『古事記』では即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらにアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在することから、タカミムスビ(高御産巣日)が本来の皇祖神だとする説もあります。
ではなぜ奥の社こと天照皇大神と豊受大神を祀る元伊勢の社の更に奥に、タカミムスビ(高御産巣日)の宿る『奥の大石』が祀られているのでしょう?
思うに、いかに現人神(あらひとがみ)の皇室であっても、神そのものではなく、人に近い存在になった以上、神話の中の神のように、女神のみで子を成すことはできません。
当然 子孫へとつなげて行くには、女神と男神が必要です。
『奥の社』に祖たる女神が祀られているなら、その種たる男神も必要です。それが高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が宿る『奥の大石』なのでしょう。
以下2枚の画像は撮影位置を変えて撮影しています。
奥の大石(北側から撮影)
高さ2メートル以上ある陽石、ご立派です。
私の見る限り、この大石は、石造物ではなく、自然石に見えます。
奥の大石(南側から撮影)
この方向から見ると周囲の玉石が、こう丸(精巣
)のように見えます。
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2014年11月13日
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〜明日香村:飛鳥坐神社 奥の社は皇室ゆかりの元伊勢〜
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飛鳥坐神社には現在の拝殿や本殿とは別に、奥の社があります。
前回ページの【飛鳥坐神社の創建について】で、ウィキペディアの記述をそのままご紹介したように、大国主神が国土を天孫(天照大神の孫=ニニギノミコト)にお譲りになる際、わが子である事代主神(ことしろぬしのかみ)を始めとする神々を天孫の守護神としてその神霊を祭らせました。
その際に皇室守護の神として、事代主神とその妹神とされる賀夜奈流美命(カヤナルミ=飛鳥神奈備三日女神 あすかのかんなびみひめのかみ)の神霊を奉斎されたのが当社の起源とされます。
それに対して奥の社のご祭神は、天照皇大神と豊受大神です。
ほんの少し神社に詳しい方なら、この二神の名を聞いただけでピンとくるはずです。
そうです。伊勢神宮の内宮のご祭神が天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ)=天照大神で、外宮のご祭神が、豊受大神(とようけのおおかみ)なのです。
従って飛鳥坐神社の奥の社は、元伊勢と言われます。
ということは、どういうことか想像がつきますか?
難しく考える必要はありません。読んで字のごとく、伊勢神宮の元です。
ですが、元伊勢と呼ばれる場所は西日本各地に点在と言うか、数多く存在します。
「元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所。
伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖(いふ:大いにおそれること。おそれかしこまること。 )した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿(いつかし:神霊の神木)の本に「磯堅城(しかたき:堅固な石城の意)の神籬(ひもろき)」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『倭姫命世記』においてより詳しく記されている。
外宮の祭神である豊受大御神は、『古事記』『日本書紀』に記載を欠くものの、『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世記』によれば、第21代雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。
天照大御神が遍歴する説話は、『常陸国風土記』の筑波山の話に登場する祖神や民間説話の弘法大師伝説に類するものとされる。一般の神社の縁起でも鎮座地を求めて神が旅する話は多いので、「旅する神」の典型的な類型であるとされる。」
と記されています。
(一言:つまり、皇室の祖とされる天照大神は、第10代天皇の時代までは皇居内に祀られていたのですが、祖神である天照大神を、現人神:あらひとがみ だとは言え、人間に等しい存在の住居に祀ることはおそれおおいことだと考え、仮の社を設けながら天照大神を祀るにふさわしい地を探し求めて変遷し、伊勢にたどり着きました。 その仮の社を元伊勢と呼んだということで、そうした仮の社の一つが、飛鳥坐神社の奥の社ということです。)
【神籬(ひもろき)とは】
古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、古くはその場所が神籬と呼ばれた。次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、古い形の神社は、建物の中に玉垣を設けて常盤木を立てて神の宿る所とし、祭るものであった。後にはこの常盤木を神籬と呼ぶようになった。現在は、神籬は地鎮祭などで用いられる。)
ところで天照大神はご存知でも、豊受大神についてはよく知らないという人も多いと思いますので、ご紹介します。
その名の響きから、男神ではないかと思われるかもしれませんが、カナで示すとトヨウケビメで、豊岡姫と記すこともあり、実は女神です。
トヨウケビメ - Wikipediaには、『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
(一言:イザナミの尿から生まれた子神の子って、なんだかねーっ。日本神話は何でもアリですね。)
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。
丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。 付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている。
『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出され、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
と記されています。
飛鳥坐神社の奥の社
奥の社の中をアップで 小さな桧皮葺の祠が中にありますが、しっかりと伊勢神宮と同じ唯一神明造ですね。
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