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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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小山田遺跡:ですが蘇我蝦夷の可能性は、大有りです〜
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  

前回のページでは、小山田遺跡舒明天皇(じょめいてんのう)の初葬墓の可能性を肯定的にご紹介しました。
ですがその後の調べで、今では蘇我蝦夷の可能性も大いにあると思いました。
そう思えた理由をこれからご紹介します。
まずは前回の中で小山田遺跡舒明天皇(じょめいてんのう)の初葬墓の可能性を肯定的に捕らえる理由として、
小山田遺跡最初に見つかった遺構は「溝」で、全面に石が敷き詰められており、北側には大きな石が、南側には板状の石が階段状に並べられていました。この板石状の積み方は、桜井市にある段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)にも見られ、使用されている緑色の結晶片岩(緑泥片岩)・室生安山岩(榛原石)も段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)と共通することから、段ノ塚への改葬前の舒明陵がここだったのではないか?という説が出ているわけですが、
これについては、同年代に築造されたものであれば、同じ技術を持つ技能集団の手がけた墳墓が複数存在しても不思議ではありません。
実際、舒明天皇は、593年629年)。蘇我蝦夷(そがのえみし)は、586年?645年)の人物とされ、共に皇極天皇の時代に亡くなったとされ、両者の没年の差は、15年ほどです。

イメージ 1

そこで、違う観点から段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)の特徴を見ると、最も特異な点として、その概観が上八角下方墳とも言うべき形状だということです。
この事にこだわって調べてみると、明日香村の小山田遺跡から遠くない位置に、同じく八角形をした牽牛子塚古墳があります。そしてその被葬者は、斉明天皇(皇極天皇)とされているのです。
斉明天皇から見れば、夫の舒明天皇八角墳、その子の中大兄皇子こと天智天皇八角墳、弟の大海人皇子こと天武天皇八角墳ということがわかりました。ここで、斉明天皇だけが家族の中でたったひとり円墳というのは、どう考えてもおかしい話です。牽牛子塚古墳はこの意味からも斉明天皇の墓であると思われます。」と紹介しています。
そして、八角形の形をしているこれらの御陵は、斉明天皇が好んだ道教の宇宙観の表れとも見ることができる。
古代中国では八方位を重要視していた。八方位は宇宙を象徴するものであり,その中心にある北極星は天皇大帝(てんこうたいてい)という宇宙の最高神とみる。この頃に「天皇」は神につながる人物として意識されるようになったのだろう。
天武天皇に関わる古墳は多くが八角形であり,逆に八角形の古墳の被葬者は天武天皇と血のつながりがある「最高神」として見られていたと推測できるそうです。」斉明天皇と道教より)
だとすればいくら初葬墓だとは言え、ただの方墳に舒明天皇を葬るのは不自然な気がします。

イメージ 2イメージ 3

       野口王墓古墳           牽牛子塚古墳(斉明天皇
(天武・持統天皇合葬陵)宮内庁発表      両槻会第26回定例会関連資料集より

   
    イメージ 4       イメージ 5
      陵ヶ岡天智天皇陵          段ノ塚古墳(舒明陵・押坂内陵)

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道教の宇宙観を表す図

ここからは、被葬者を蘇我蝦夷として考察する。
そこで考えたいのが小山田遺跡蝦夷の大陵(おおみささぎ)ではないかという説です。
今回の小山田遺跡の発表以前に蘇我蝦夷の陵墓とされていたのは、水泥古墳でした。
詳しくは蝦夷・入鹿の墓をご覧下さい。
イメージ 9

ご存知の方も多いと思いますが、石舞台古墳の被葬者は、蘇我馬子ではないかと言われ、都塚古墳は、蘇我稲目ではないかと推定されています。
であるならば、明日香の地で巨大な方墳が発見されれば、その被葬者は蘇我蝦夷ではないか?と考えても不自然はないのです。
しかも発掘場所が大豪族・蘇我氏の邸宅があった甘樫丘(あまかしのおか)に近いとなれば、むしろ蝦夷の大陵(おおみささぎ)と考えない方がおかしいとすら思えます。
更に付け加えるなら、奈良・明日香の巨大方墳で説明会 伝承ない場所の古墳に人続々では、伝承のない場所で巨大な古墳が見つかるのは異例・・・としています。
この記述が何を意味するのかと考えれば、小山田遺跡は歴史や伝承から抹殺された遺跡ということになります。
その結果導き出されるのは、小山田遺跡=蝦夷の大陵(おおみささぎ)という結論です。
なぜなら蘇我蝦夷・入鹿の親子は、逆賊として抹殺されたのですから。

余談ですが、方墳 - Wikipediaの記述を見ると、近畿地方の方墳例として、奈良県桜井市倉橋に所在する赤坂天王山古墳が紹介されています。
赤坂天王山古墳 - Wikipediaの中の被葬者の項目を見ると、日本書紀』に崇峻天皇(すしゅんてんのう)は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものは赤坂天王山古墳以外には見あたらないため、明治時代に南西に1.7Kmほど離れたところにある現在の倉梯岡上陵に治定されるまでは、本古墳が崇峻天皇陵に擬せられていた。歴史学者・考古学者の間ではいまなお本古墳が崇峻天皇陵として有力視されている。」と記されています。
現在では崇峻天皇陵倉梯岡上陵とするのが常となっていますが、仮に方墳である赤坂天王山古墳崇峻天皇陵だとすると、同じ方墳に葬られた蘇我氏との関係は濃いものなのでしょうか?
以下に紹介している
蘇我氏と天皇家の関係を示す系図』を見ていただくと、
崇峻天皇は、蘇我稲目の娘:蘇我小姉君の子であり、その妻は河内娘といいう蘇我蝦夷の兄弟です。
つまり崇峻天皇蘇我氏の濃い血縁であり、蘇我蝦夷とも強いつながりが有ることが分かります。
ならば、天武天皇に関わる歴代天皇の古墳と同じ八角墳ではなく、石舞台古墳などと同じ方墳に葬られていても不思議はありません。
従って、倉梯岡上陵ではなく、赤坂天王山古墳崇峻天皇陵だとする説にいくらかの正当性を持たせる理由の一つとしてもいいのかもしれません。

当ブログでの3ページに渡る記述をご覧になって後、皆さんは小山田遺跡巨大方墳の被葬者を誰だと推理しますか?
  
イメージ 7  イメージ 8
 石舞台古墳再現C(関西大学発表)   都塚古墳イメージ図被葬者は蘇我稲目?
     被葬者は蘇我馬子との説がある。        ISの地球|奈良のピラミッド(都塚古墳)より
 

蘇我氏と天皇家の関係を示す系図


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