カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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仏敵としての物部守屋が、見直されています
              サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  
 
〜物部守屋が戦った伝承の地は太子堂だけじゃないでは、守屋の乱とも言われる丁未の乱ていびのらん)の主戦場となったとされる大聖将軍寺とその近くにある鏑矢塚弓代塚について、厩戸(うまやと)皇子聖徳太子)の史跡が重んじられ、物部守屋の史跡が軽んじられている現状にはいささか違和感を覚えます。と言うより不満です。」と記しました。
ですが近年は物部守屋に対する扱いがかなり改善されているようです。
そう思える事例は、『物部守屋大連墳』の周囲を囲む玉垣に見ることができます。

『物部守屋大連墳』は、『河内名所図会』勝軍寺境域図の右下に「守屋塚」がみえ、塚状の丘の上に一本松のある姿で描かれていますが、幕末には荒廃し、削平されてしまったようです。
しかし明治初年に堺県令小河一敏の指示によって整備されました。現在の墓碑、石鳥居、右側の灯篭一基は、そのとき設けられたものだそうです。

物部守屋薨後千三百五十年には、以下の画像の右奥にある『日本書紀』に、守屋が仏教導入に反対して言ったとされる
「何ぞ国神に背きて、他神を敬せんや」
の言葉が刻まれた碑、が建てられました。

また、左奥の物部守屋公顕彰碑は、薨後千三百八十年の記念事業で建てられたものです。

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そして、『物部守屋公顕彰碑』に刻まれた文章は次の通りです。
物部守屋公は、建国の功臣・饒速日命の裔にして、代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ、往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。
我国に始めて仏教渡来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と激しく対立。公は河内に帰り、一族を挙り此の地に干戈を交えて幾度か勇戦奮闘せられしも、時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられぬ。
嗚呼、然れとも公の純乎たる憂国の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき。春風秋雨幾星霜。
当墓所は今日八尾市の史蹟として最古の墳墓たるのみかは、遠く郷土の領主としてとして其の遺徳を仰ぎつつ、大正九年より吾等先輩祀職、年毎に墓所を修め来りて愈々懇なり。今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り、茲に年来の司祭を記念し碑を建て聊か黄泉の英雄を慰め奉ると云爾。
昭和四十二年六月吉辰 大阪府神社庁中河内分会建之」



更に昭和六十二年の千四百年祭のときには、全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられたそうです。
仏敵として長い間辱められてきた物部守屋ですが、明治以降は神道界から顕彰(けんしょう:個人の著名でない功績や善行などをたたえて広く世間に知らしめること)を受けているのがわかります。

改めて『物部守屋公顕彰碑』をとり囲む石玉垣に刻まれた全国の有名神社の名をみてみましょう。

などなど、

有名神社や変り種神社・以外な由緒を持つ神社など、一つ一つをクリックして見ると、行ってみたい神社がたくさんあります。

ともわれ、今や飛鳥時代の豪族と言えば蘇我氏一辺倒のブームのようになっていますが、少なくと大阪人としては、全国の神社の加護をもって汚名を返上しつつある物部守屋にもついても認識を改め、その生涯を知っておく必要があるのではないでしょうか?

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〜聖徳太子が虚構だからこそ、太子信仰に異議なし
              サブタイトル:オヤジブログは自由だ!蘇我氏編  
今回は太子信仰に対する私見を記したいと思います。
蘇我馬子にかかわるこれまでの記述の中で、度々触れた聖徳太子についての記述は、あたかも飛鳥時代より続く太子信仰を否定するかのような記述になっていたかもしれませんが、そうではありません。

今なお謎に包まれた聖徳太子の実像について改めて調べてみると、そもそも聖徳太子という呼称は、厩戸皇子(うまやどのみこ)に対して、亡くなられた後に与えられた敬称なのだそうです。
そして現在、その実在性すら疑問視される中、蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿がそのモデルだったなどとする記述がネット上のあちこちに見受けられます。
そうした記述の内容を大雑把(おおざっぱ)に述べるなら、仏教を体制の中に取り込むことで大王(天皇)を頂点とする中央集権化を目指す中、強大化してゆく蘇我氏という一豪族に危機感をつのらせた朝廷側は、日本書紀の記述の中で、逆賊として一族の未来を葬り去った反面、その功績のみを朝廷への権威付けに利用するために聖徳太子という理想の聖人像を作り上げたというのが、現在の多数意見のようです。
また、用明天皇穴穂部間人皇后の間に生まれた厩戸皇子(うまやどのみこ)という存在は確かに存在した。ですがその実像は現在に伝承されるような聖徳太子の人物像にはほど遠かったとも。

更にこれまでに私が得た情報をもとにした私の厩戸皇子(聖徳太子)に対する認識をご紹介しておきます。

そもそも仏法は蘇我氏(蘇我稲目・蘇我馬子)によって、自らの覇権を得るための手段の一つとして大陸より日本にもたらされたものでした。
これに対して古来より神道国だったことを保守せんとする天皇や豪族の反発も生易しいものではなかったものの、次第に仏法は蘇我氏の思惑どおりに根付きはじめます。
やがて朝廷側の中でも仏法を闇雲に拒否するのではなく、大王(天皇)の権威を高め、中央集権化に利用する方向に向かいます。しかし、それは蘇我氏の増長を容認することにもつながることでした。
ついには大王(天皇)をもしのぐ蘇我氏の権力増大に危機感をつのらせた朝廷側は、蘇我一族を逆賊として抹殺します。
しかし蘇我氏によってもたらされた仏法は、蘇我一族抹殺の後も朝廷に対する権威付けに利用しうるものとして残し、奨励してゆかなければなりません。
そこで仏法を広め壮大なものとした英雄の存在が必要になり、常人には有り得ない架空の聖人として聖徳太子像太子信仰が、この時代の後も創造されて行き、やがて神格化された徳太子像が、広く大衆にも受け入れられ、日々の生活の中に溶け込んで行ったのでしょう。
逆の言い方をすれば、時の権力者によって支配される側の民の暮らしは、そうした信仰心無しには耐えられない過酷なものだったとも言えるのでしょう。

そうしたことを前提に思うことは、もしも徳太子像が実在の悪の面を持つ生々しい人物像を歪めて聖人化したものならば、その人物を崇める太子信仰は、江戸時代の武家のみに一種強要された東照大権現(とうしょうだいごんげん)や、現代のカルト教団の教祖、共産国の将軍様・大統領などに対する信仰や恭順心と同等のものとなってしまい、意義有りと答えます。
しかしそれが全くの空想的な存在として、理想像を具現化した信仰対象として徳太子存在し、それが人心のよりどころとなっているのなら、太子信仰に対して私は両手を上げて異議なしです。

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大聖将軍寺の聖徳太子像

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