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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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真田丸:たかは、信繁の側室となることで難を逃れた?二人はプラトニック?
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前回のページで記したように『NHK大河ドラマ 真田丸』第28回放送『受難』では、
信繁は豊臣秀次の娘:たかを救うため、秀吉より話のあった大谷刑部(大谷吉継)の娘:春との縁談を了承し、ます。つまり、春を正室として迎えるかわりに、、たかを側室にすることの了承するという条件を秀吉に認めさせたのです。
これは、秀次が自刃したことで激怒した秀吉が秀次の縁者をことごと処刑しようとしたため、秀次の娘:たかも処刑される運命にあったのを救うために側室としたのでした。

いくらなんでもそんなバカな話があってたまるものかと思いますよね。

ではあるのですが、関白:秀次が自決して後、秀吉は豊臣内部での家督争いを防ぐために、秀次の一族すべての処刑を命じ、側室や侍女34人と、惨くも子供4男1女も京都三条河原で斬首された時、たかとたかの姉の2人は、なぜかこの処刑から逃れることができたというのもおかしな話です。

たかが秀次の娘だというのが事実で、そのたかが信繁の側室:隆清院となったのも事実。
だとしたら三谷さんの発想以外に、たかが処刑されずに信繁の側室となり、たかの姉2人も助かるためにはどんなことが考えられるでしょうか?

私はこう思うのです。
自刃した秀次の娘:たかが信繁の側室となった同時期に信繁は、大谷刑部(大谷吉継)の娘:春を正室に迎えますが、大谷刑部は信繁が従五位下に叙任される際にその叙任を強力に後押ししたとされます。
これは、大谷刑部が信繁に惚れこんでいたということではないでしょうか?
だから娘:春を信繁の正室とした。
そして大谷刑部は秀吉の側近中の側近であり、秀次が関白となってからは、秀吉よりもむしろ秀次に強い忠義心を持っていた。
ところが秀次は秀吉の不興をかい、自刃に追い込まれます。
この時秀次は、せめて我が子なりとも救ってくれと頼まれ、娘婿となった信繁に相談します。
そして刑部と信繁は一計を案じます。
たかを信繁の側室にすれば、それはもう関白秀次の子ではなく、信繁の側室でしかなくなり、2人の姉も信繁の義姉であり、たかと信繁との間に生まれた子も、真田家の子でしかない。
信繁と刑部はそう考え、秀吉にその論理をもって3人の助命を願い出た。
秀吉も真田信繁ならば豊臣に弓を引く野心など持たない武士(もののふ)、後に禍根を残すこともあるまいと考え、たかを信繁の側室とすることを許した。
秀吉はその際、「たかをそなたの側室とすることは許そう。その代わり、拾(秀頼)の事はわし亡き後もくれぐれも頼むぞ。」と言ったのではないかと。
大谷刑部にしてみれば、娘:春以外に信繁の妻を認めることは本来は許せないことですが、他でもない主君であった秀次の娘:たかならば、是非もない。そう思ったのではないでしょうか?

とまあ以上は私の仮説というか妄想ですが、たか・隆清院(信繁の側室) | 真田信繁.com 真田丸ストーリー …によれば、その後の記録としては、
たかは成長して、「隆清院」となります。
慶長19年(1614年)、信繁が大坂城に入城すると、隆清院も信繁と共に大坂城に入城することとなり、二人の間に生まれた娘:田も同行します。
その年の11月には大阪冬の陣となりますが、その後の和睦によりいったんは事態が収束。しばらくの間は大坂城で過ごしましたが、翌年の1615(慶長20)年3月には大坂城を出て
この時とも・瑞龍院は既に出家して日秀尼と呼ばれていた京都嵯峨野のとも・瑞龍院(隆清院の祖母であり、秀次の母。秀吉にとっては実姉。)を訪ねました。
このように当時、たか:隆清院が夫:信繁のもとを離れたのは。2人目の子供になる、真田信繁の三男・幸信を身籠もっていたからかもしれません。
そして同じ年の4月下旬には、大坂夏の陣において5月7日、信繁は討ち死します。
5月8日には、豊臣秀頼が大坂城で自害して、豊臣氏は滅亡しました。
大坂夏の陣が終わると徳川方による残党の捜索が行われ、身の危険を感じた、たか(隆清院)はとも(瑞龍院)とともに姉を頼って梅小路氏に身を隠し、娘のお田は町人の格好をして居場所を転々としたと言います。
お田は捕らえられて身柄を江戸へ送られましたが、その処分は人質として大奥勤めをするというもので比較的軽い処分に終わっています。
※これは伯父にあたる真田信之が幕府に掛け合ったためとも。)
一方のたか(隆清院)は姉の嫁ぎ先である梅小路氏に匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで幸信を産んで育てたと言います。
大奥に入ってから3年が過ぎた頃、お田は大奥を出ることを許され、無事、たか・隆清院と再会を果たすことが出来ました。
その後、お田は御田姫として、出羽亀田藩主・岩城宣隆(佐竹氏の一族)のもとに側室として嫁ぎます。
弟の真田幸信もその縁で岩城宣隆に引き取られ、元服すると家臣となり、その名を三好左馬之介幸信と名乗ります。

やっぱり信繁とたかは、今回ドラマで描かれたようなプラトニックな関係ではなかったんですね。
ドラマでのたかは、信繁の側室となって直ぐに秀吉の許しを得たとは言え、いつその気が変わるとも限らないと、堺の貿易商だった呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)こと納屋助左衛門(なや すけざえもん)に身柄を預けられ、ルソン(フィリピン)へと逃れますが、上記したような史実からして、大坂の陣に際しては、再びたかが登場する場面があるのかもしれませんね、成長した姿:隆清院となって。

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豊臣秀次の娘:たかを演じた岸井ゆきのさん

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真田丸:秀次やその娘たかがキリシタンのように描かれた意味とは
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前回のページで記したように『NHK大河ドラマ 真田丸』第28回放送『受難』では、秀次の娘:たか が信繁の前に現れ、失踪中の父に「これをお渡し下さい。」と、キリストやマリア様が描かれた絵札を手渡し、その後秀次は自刃し、その縁者は女、子供に至るまでことごとく処刑してしまいます。
ところが、秀次の娘:たかは、聚楽第の隠し部屋に潜み難を逃れます。そしてその隠し部屋には赤い十字架が掛けられた祈りの部屋のようでした。

さてここで疑問です。上記のように、第28回放送『受難』では、秀次もしくはその娘たかが、まるでキリシタンであるかのような描写がなされました。
秀次や娘:たかはキリスト教徒だったのでしょうか?

「秀次公が天正十三年(1585年)に築城を始めた八幡山城の城下町には相当数のキリシタンがおり、また、秀次公は彼らを保護していた形跡があります。
キリシタン大名として有名な高山右近とも親交があり、「台子七人衆」として茶の湯を通じても交流が有りました。『キリスト教に改宗した』という史料は発見されていませんが『好意を示していた』のは間違いないようです。 」という記述があります。
ここでキーワードとなるのは「八幡山城」と「高山右近」です。

これらのワード+αでヒットしたページのカトリック高槻教会 - 高山右近の記述です。
高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。
高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。
ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。
は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。

 1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失、右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力した。
信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めた。


1585年右近は明石6万石に転封、明石教会を建設しました。     
しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ったが、右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。

以上のカトリック高槻教会 - 高山右近での記述からわかることは、1573年〜1585年にはキリシタン大名として有名な高山右近が治めた高槻には多くのキリシタンが存在し、1585年右近が明石6万石に転封されて後も多くのキリシタンの領民が存続したということです。

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
・・・・豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次宿老田中吉政を配し、水口岡山城中村一氏長浜城山内一豊佐和山城堀尾吉晴竹ヶ鼻城一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年天正18年)に尾張国清洲城へ移封。

つまり、以上の資料から、秀次はキリシタンの領民が多く存在する近江八幡43万豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)の領主として1585年〜1590年の間、領主となり、キリシタンたちとも親交を持っていたということです
秀次やその娘:たか(=信繁の側室:隆清院)は後に寺院を頼って生涯を終えますのでキリシタンである可能性は少ないのですが、たかやその母:一の台(公家の娘)がキリスト教に日常的に接していた可能性はあります。

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高山右近高槻天主教会堂跡

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