|
〜真田丸:慶長伏見地震は文禄5年に起きているのになぜ慶長と?改元とは?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第29回放送『異変』では慶長伏見地震により完成間近の伏見城などが崩壊する様子が描かれました。
ところが慶長伏見地震が発生したのは文禄5年のことです。
文禄年間に起きた地震をなぜ慶長伏見地震と呼ぶのでしょう?不思議ですよね。
それはこの?大地震をきに、文禄から慶長に改元されているからだそうです。
では改元はどのような理由で行われるのでしょう?
改元 - Wikipediaによれば、改元はその理由を基準として主に
に分類されるそうです。
従って大地震が要因となった文禄から慶長への改元は、凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元だったということになります。
ちなみに現代では、第二次世界大戦後、日本国憲法施行と皇室典範改正により、元号の法的根拠は一旦消失したが、昭和54年(1979年)施行の元号法によって、皇位の継承があった場合に限り元号を変更することが定められています。
ただし、文禄5年に起きた地震は慶長伏見地震だけではありません。
死者700人以上。
京都や堺で死者合計1,000人以上。
という3つの大きな地震が続けざまに発生し、各地で大きな被害を及ぼしました。
そこでこれらの凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元が行われ、文禄5年に伏見で起きた大きな地震も、慶長伏見地震という名にしたのです。
しかし、1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、豊後地震を9月1日とするものもある。また、1605年慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され、さらに従来三陸沖が震源とされてきた1611年の地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出されるなど、震源域に諸説あって不明なものも多い。
つまり戦国時代の日本は、地震の活発な活動期だったのです。
戦乱のみならず、未曽有の天災の続く大変な時代に真田信繁らは生きたのですね。
凶事を断ち切るための改元でしたが、その後も大地震は頻発します。
- 南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
1611年12月2日、慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)
-三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)。ただし、津波の痕跡の範囲などからこの従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹(北海道太平洋)沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
1614年11月26日、慶長十九年十月二十五日の地震
こうした記録を知る時、現代の私達もある思いに至ります。「そう言えば最近も大地震が頻繁に起こってるなあ・・・・いよいよ関西にも巨大地震が・・・・。」と。
生まれ育った地域は離れがたく、いつ何時何処で起こるかの予知が不可能である以上、いざという時の防災準備と心づもりは、真剣に考えておかなければなりませんね。
独立行政法人防災科学技術研究所 Hi-net 高感度地震観測網に
慶長伏見地震・阪神大震災・淡路島地震・徳島県北部の地震の震央を加えた図
1596年 慶長伏見地震 |古 地震 .
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2016年07月29日
全1ページ
[1]
|
〜真田丸:細川忠興は羅刹ではなく名将なのか?ならばなぜガラシャは〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第29回放送『異変』で登場した細川ガラシャの苦悩し、ひたすら異教に祈りを捧げた日々の根源はなんだったのでしょう?
逆臣として死した父:明智光秀の存在?
生き残るためには血族をも容赦なく打ち滅ぼす夫:細川忠興?
細川忠興に羅刹の戦いを運命づけ、その男とガラシャの縁を結んだ織田信長?
夫らに討ち滅ぼされた親族に対する謝罪の思い?
誰一人として命を救えないどころか、自らの魂すらままならない事への無力感?
いずれにしてもガラシャは、ただひたすらに祈ることで、己の負の心を抑えるすべをキリストの教えに見出し、祈りの力がこの世を変えうると信じたのでしょう。
では逆臣:明智光秀の娘:珠(ガラシャ)を妻とした細川忠興とはどのような武将だったのでしょう?
ネット上には「文武両道の名将」「熊本の偉人」「ギリギリの決断を重ねた戦国武将」といった形容が見られます。
そんなスゴイ形容が当てはまる武将なら、なぜ珠(ガラシャ)は祈りの日々に明け暮れたのでしょう?
【細川忠興とは】
ウィキペディアにある細川忠興にかかわる記述をまとめると、
忠興の父:細川藤孝(幽斎)は、剣術等の武芸百般、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く[2]、当代随一の教養人でもあった。剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。また、息子・忠興と共に遊泳術にも優れたという。
また、三条西実枝に古今伝授を受け、その子・三条西公国とさらにその子・三条西実条に返し伝授するまでの間、二条派正統を一時期継承した。当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いの際、後陽成天皇が勅命により幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためだといわれるほどの教養人だったそうです。
また、忠興の母は沼田光兼の娘:麝香(のちの光寿院)です。
細川忠興にとっては母方の祖父である沼田光兼は、甲斐の武田氏本家の第10代当主・武田信武の次男:武田 氏信(たけだ うじのぶ)を初代とする若狭国熊川を領有し、後に若狭武田氏に属したとされる一族ですが、沼田一族は近江国へ退出したといわれる。
祐光は陸奥国の戦国大名・津軽為信に仕えたが、それ以前の足跡は不明な点が多く、現時点での資料においては経歴・実績などは不詳とせざるを得ないものの、陰陽道・易学・天文学に通じており、これらを駆使した伝承(弘前城築城時の城地選定の際、土地の吉凶を占うなど)が伝わっている。中央政界とのパイプ役を担っていたとも言われます。
そんな両親のもとで育った細川忠興は、そのことだけを持ってしても、幼い頃より英才教育を受け、剣術等の武芸百般、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などや陰陽道・易学・天文学など、多方面に渡る教養を身につけ、あらゆる物事に対して興味を持っていたと考えられます。
実際、細川忠興に関しては、
利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で我が身に秀吉から疑念を持たれる事も恐れずに見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされます。
もちろん武具への造詣も深く、幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らし、特に打刀の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、甲冑においては「越中具足」、「越中流具足」ないし「三斎流具足」と称される形式を確立したことで知られます。
肥後拵は忠興が修めていた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が反映されている点が大きな特徴だそうです。
越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の当世具足のスタイルです。
ところが、上記したような多方面に渡る知識と教養を持ちながら、細川忠興の身内に対する行いは、冷徹かつ残虐なものでした。
正室のガラシャへの愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶことを避けていますが、ガラシャが秀吉の禁教令発布直後にキリシタンになったとき、これに激怒して侍女の鼻をそぎ落すことでガラシャを脅迫し、改宗を迫ったと言われています。
また、ガラシャの美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話もあります。
更に家族に対しても、次男の興秋が大坂の役で豊臣方に協力したため、戦後に忠興は自害させます。
もちろん戦国の世ですから戦(いくさ)の相手に対して甘い対応をすることは極めて高い危険性をはらみます。しかし侍女や植木職人は戦(いくさ)相手ではありません。
明智光秀が本能寺の変を起こした時も光秀よりの合力の求めに一切応じず、
また大坂の役で徳川方に加担した忠興は、豊臣方に協力した次男の興秋に対して忠興は自害を命じます。
なんと冷酷で惨忍な対応でしょう。
忠興は父母より高い英才教育を受けながら、身内に対しても容赦なく断罪に処する羅刹のごとき行いからは、忠興には親族や身内、人情といった概念が欠落しているのでは?と思えるほどです。
思うに忠興は両親より身内に対する愛情や命の尊さについての教えは受けずに育ったのではないでしょうか?
従わせる者、敵対する者などに対しては、例え身内であっても、手心を加えるなど不必要なものだという、支配する側の論理だけを叩き込まれて。
そんな惨忍な側面をもつ忠興ですが、ガラシャに対しては、
朝鮮出兵中、忠興はガラシャに、その内容は「秀吉の誘惑に乗らないように」という何通もの手紙を書き、妻への深い愛情を見せています。
しかしガラシャは、忠興の欠落した人間性に対して、何よりも嘆いたのではないでしょうか?
そしてガラシャは、忠興の手にかかった者の魂を救う意味からもキリストの教えにのめり込み、自らの魂の救済もそこに求めたのでしょう。
ところが忠興は、ガラシャの思いに寄り添うことが出来ず、ただガラシャの独占と保護にしか思いが至らなかったのではなかったかと。
しかし晩年忠興は、徳川秀忠から天下の政務について問われると「角なる物に丸い蓋をしたようになされませ」と答えたり、秀忠が「どんな人物を登用するのがよいか」と尋ねると「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう(明石の潮の流れは激しいが、その潮にもまれた蠣は味がいいから、人も人にもまれた者こそよき人柄になる)」と答えたといわれ、角が取れて丸くなったとされますが、
これは、愛しきガラシャの死などを通して人の思いに寄り添うことを覚え、改心の情がみうけられるようになったのではないかと思えます。
しかし、83歳でこの世を去る間際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかったと言えば聞こえがいいですが、己の行って来た残虐な行為に対しての反省の思いに至らなかったことがうかがえます。
確かに細川忠興は、文武に秀でた存在だったと言えるかもしれません。
しかしそれでも私は、忠興の生き様やガラシャの祈りの日々を思う時、「文武両道の名将」「熊本の偉人」「ギリギリの決断を重ねた戦国武将」といった形容を用いて忠興を讃える気にはなれません。
たとえその行いが戦国の世で生き抜くために身につけたものであったとしても。
細川忠興とガラシャの像
細川忠興は、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、
|
全1ページ
[1]






