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〜真田丸:政争の具にされた政宗の姫君の名はオッサンみたいな五郎八〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第32回放送『応酬』では、伊達政宗が伏見の徳川屋敷で本多正信に姫の年齢を訪ね、伊達と徳川の縁組を持ちかけました。
勿論これは、徳川が勢力拡大を目論んで有力大名である伊達との婚姻関係を持とうとのですが、これを受ける側の伊達にとっても、ただ単に家康の軍門に下ったわけではありません。
この時最も天下人に近い家康との関係を持つことは、伊達の格を上げ、隙あらば家康の寝首を掻く思わくあっての事でした。
私達関西人には馴染みのない伊達政宗の姫君ですが、ご当地では祭りの主役的存在のようです。
その400年の様子を高田開府400年祭(2) よりお借りしました。
大阪府でも2014年に大坂の陣400年祭がありましたよね。
ところで、伊達の姫君には興味が湧きますよね。そしてその名が姫君にあるまじき五郎八姫などというおじさんのような名なら尚更です。
五郎八姫 - Wikipediaによれば、
政宗と正室の愛姫との間には、長きに渡って子がなく、結婚15年目にして初めて授かったのが五郎八姫でした。
戦国武将が望むのは当然家督を継ぐ嫡子です。しかも15年も子がなかったのですから正室が懐妊した時点で姫の可能性など除外して、生まれ来る子は男子と決めつけていても不思議はありません。
夫妻は当然のように伊達家後継者となる男児誕生を熱望し、用意していたのは男子の名だったそうです。
それが五郎八、ですが結果生まれたのは姫君で、そのまま五郎八姫と命名したなんて、あんまりですよね。
五郎八姫が生まれた時、おチンチンが無いのを知った政宗は、
政宗:「男ではないのか。」
五郎八姫:「殿、改めてお名をちょうだいしたく思います。」
政宗:「姫に付ける名など知らぬ。そのまま五郎八としておけ。」
なんて会話が有ったのか、無かったのか?そのまま座を外し、その場を去った後で、愛姫が殿の意向に沿ったのか?この先また子が誕生するかどうかも危うい中で・・・・。
その後政宗の後継となったのは、側室:新造の方の子である伊達 秀宗でした。
でもご安心下さい。愛姫も五郎八姫のあとにもしっかりと男子を含む4人の子を生んでいます。
それはそれとして、五郎八姫に話しを戻すと、五郎八姫は仙台の地で生まれたのではなく、秀吉政権の時に愛姫が人質が聚楽第に留め置かれた時に誕生しました。
だから徳川家も姫の存在を知っていて当然なのでしょう。
今に残る逸話によると五郎八姫はおっさんのような名に反して大変美しく聡明であり、父政宗を「五郎八姫が男子であれば」と嘆かせたほどだったそうで、聡明な五郎八姫を弟であり仙台藩2代藩主の忠宗も頼りにしていたといいますから、治世にも明るかったのですね。
また、生母の愛姫が(一時期)キリシタンだったことから、五郎八姫もキリシタンだったとされ、彼女が忠輝と離婚した時はまだ20歳代前半の若さであったことから、父政宗や母愛姫は心配し再婚を持ちかけたにもかかわらず、五郎八姫は断り続けていたと言われます。 その理由は、教義上「離婚」を認めないキリシタンの信仰ゆえ、とも考えられるとか。
上記したように五郎八姫は京都で生まれ育ちでした。 そのため言葉や風習も京風であったことから、離婚後、仙台に移り住んだ際には、なかなか東北弁にも東北の暮らしにも慣れず、苦労したといわれている。 心身共に雅な姫君だったんですね。
だったらその名を五郎八姫のままにせず、改名してあげればよかったのに。
高田開府400年祭の、「五郎八姫のお輿入れ行列」の五郎八姫
高田開府400年祭(2) より
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2016年08月17日
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