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〜真田丸:独眼竜伊達政宗の眼帯の眼帯が黒色布なのは間抜けですか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』に登場する伊達政宗は、当然のように眼帯をしてます。
ですがその眼帯が黒い布なので、迫力が無いとコメントするページも存在します。
そこで改めて、伊達政宗の眼帯について考え、調べてみると、歴代の眼帯を付けた政宗役俳優の画像が続々とヒットすると思いきや、これが意外にも少ないのです。
ネット上でも政宗が普段は眼帯をしていなかったとか、伊達政宗や柳生十兵衛の眼帯について - 歴史 解決済 | 教え …には右目が完全な失明状態ではなかったとする記述すらあります。
病によって白濁し飛び出してきた眼球を、守役の片倉小十郎景綱が抉ったという逸話や、左右の眼の色が違っていた(オッドアイ)という話などなど、英雄には誇大伝承や作り話がつきまとい、政宗の実像をより分からなくしています。
しかし、少なくとも私世代の伊達政宗像は、1987年に渡辺兼さんが演じた『NHK大河ドラマ独眼竜政宗』の日本刀のツバを眼帯とした姿が強烈に印象づけられています。
もちろん演者の渡辺謙さん自身に迫力を感じますが、刀のツバを眼帯としていることで、更に勇猛さが際立った政宗として脳裏に焼き付いています。
余談ですが、そんな私から見た今回の政宗は、残念ながらオーラが沸き立つような迫力は感じられません。
ですが『NHK大河ドラマ 真田丸』で政宗を演じた長谷川 朝晴さんは、若者に大人気の俳優さんだということです。
ではあるのですが、どうしても可愛らしい政宗に見えてしまうのは、私だけでしょうか?
伊達政宗 - Wikipediaには、眼帯に係るものとして以下の記述があります。
政宗の肖像において天然痘で失明した右目は白濁して見開いており、健全な左目はより大きく見開いている。政宗の生前の希望に従い右目を黒く描く肖像もある。各種の記録に目を覆った様子はない。 政宗役の俳優が演技時に右目を覆う慣習は昭和時代から行われており、古くは1942年の映画『獨眼龍政宗』において目の矢傷治療で白い包帯や刀鍔型をした眼帯が使われ、2016年のテレビドラマ『真田丸 (NHK大河ドラマ)』では政宗を演じるのに必要な小道具として扱われている。
(一言:つまり政宗が眼帯を付けていたから演者も眼帯をするのではなく、眼帯を付けることで、その縁者が政宗と視聴者に認識されるため、政宗役には欠かせないアイテムだということです。)
独眼竜は、元々後唐の李克用のあだ名で、江戸時代の頼山陽の漢詩によって政宗にあてられるようになった。政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりであるという伝説は、政宗の存命中の慶長末年の頃、遅くとも慶長19年(1614年)には知られていた。
(一言:つまり政宗は存命中から隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりとして知られていたものの、政宗の代名詞が独眼竜とはまだされておらず、独眼竜政宗として定着したのは、江戸時代だということです。)
『NHK大河ドラマ 真田丸』に登場する黒い布の眼帯をした政宗がカッコイイか悪いは別として、
ここで冷静にかんがえてみましょう。
そもそも渡辺謙さんが演じたようなモノホン(本物)の刀のツバを眼帯だったとしたら、それは実用的な眼帯なのでしょうか?
戦国時代の実戦向きの日本刀のツバは、200gくらいあるそうですが、これは鶏卵2個の重さに当たるそうです。
そんな重たい物を長時間眼帯として掛けることは、極めて困難でしょう。
なぜなら私達が普段掛けるメガネなどは、ブラスチックレンズで総重量は10〜15g前後で、ガラスレンズを使用する場合でも20〜30g前後と言われ、少しでも軽いメガネでなければ、長時間掛けるだけで耳や鼻が痛く、鼻パットの型が残ったりしますよね。
そのことから考えても、200gの眼帯など、重さでずれるは、紐は食い込むはで、その大変さが想像できます。
だったらどうするか?
日本刀のツバを模った木製や革製の物を使用する方法があります。
ですがこれはあくまでオシャレにこだわった場合の話で、伊達メガネならぬ伊達眼帯にこだわる必要がなければ、布の眼帯がもっとも実用的でしょうね。
少なくとも寒い寒い仙台で、鉄製のツバを眼帯として使用して凍傷になったり、夏の猛暑の中で眼帯のために低温火傷をするなどという事は避けたいものです。
以下には伊達政宗を演じた歴代の俳優さんや、以下に兜と眼帯を付けれれば、猫でもギャルでも伊達政宗に見える例を紹介しておきます。
眼帯を付けず、右目には白濁した眼球が描かれています。
『NHK大河ドラマ 真田丸』で政宗を演じている長谷川 朝晴さん
『NHK大河ドラマ独眼竜政宗』で政宗を演じた渡辺謙さん
『臥竜の天』で政宗を演じた椎名桔平さん
『戦国BASARA』で政宗を演じた滝川英治さん
『葵徳川三代』で政宗を演じた すまいけいさん
ネコでも政宗に見えるから不思議
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2016年08月19日
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〜リオオリンピック:吉田沙保里 の流した悔しすぎる銀の涙は、金よりも美しく〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!リオオリンピック編
人類最強とまで言われた女子レスリングの吉田沙保里さんが決勝戦で敗れました。
今でも信じられません。
当然本人はもっと信じられない事でしょう。
試合終了から表彰台まで止めどなく流れ落ちる悔し涙は、胸を張って誇っていい銀jの涙ですが、そんなことを吉田さんが納得するはずはありません。
それを思う時、私達も涙せずにはいられません。
それでも私は彼女に贈りたい言葉があります。
女子レスリングにもたらされた他のクラスでの金メダルラッシュは、
吉田沙保里さんが各選手にプレゼントした贈り物です。
もっと言えば、吉田さんが各選手に乗り移って勝ち取った金メダルだと。
出来る事なら、まずは張り詰めた心と酷使し続けた体を、全ての思いを忘れてゆっくりと休めて下さい。
それでもまた現役を続けたいと思ったら、再びの雄姿を見せて下さい。
それだけで私達はまた涙することでしょう。
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〜真田丸:加藤清正と石田三成の対立と離反は、文禄慶長の役に発端が・・・・〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第32回放送『応酬』では、慶長の役から戻った加藤清正が、名護屋城で出迎えた石田三成に対し、無事帰還したことへの慰労として開かれた酒宴において先に退出しようとしたたため、「お前と酒が飲みたいんだよ。」と強く引き留めますが、三成は清正の手を振り払い去ってしまいます。
その後家康の目に余るあからさまな天下取りへの動きに三成や信繁らが怒り、家康に対抗しようとしますが、思うようにゆきません。
そんな中、加藤清正が家康の娘を妻に迎えるという情報が飛び込んできます。
豊臣恩顧の最たる武将だった加藤清正が家康に近づくことになったのはいったいなぜでしょう?
確かに秀吉の死後に家康が接近したのは加藤清正に限らず、多くの大名に及びました。
ですがただ家康が闇雲に清正を篭絡しようとしても、それだけでは清正は落ちたりはしないでしょう。
清正が豊臣家を見限り、家康に傾倒するには、もっと根本的な理由があったはずです。
思うにその理由というか原因は、朝鮮半島での戦い、とりわけ慶長の役での三成の対応にあったらしいのです。
肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いでしたが、清正の家臣の中には新参の家臣が多く実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数でした。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となります。
しかしその不利な条件を跳ね除け、清正は大きな武功を上げます。
その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向に向かい、各隊は別行動をとります。
、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にしますが、当初から秀吉の意向が明本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないと、清正は秀吉の命により日本側が取った八道分遣策(隊を八つに分けてそれぞれ別ルートで派遣すること)には批判的でした。
(だからといって主命に反したわけではありません。)
案の定、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまいます。
一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった清正の二番隊は、順調に侵攻を続けます。日本本国では各隊の戦況報告を聞き、一番隊や三番隊が苦戦しているのに清正の隊だけが勝ち進んでいることに疑問を持ち、清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか?と疑いを持ちます。
ドラマでは事あるごとに常にぶつかり合う清正と三成ですが、記録に残る二人の関係性の悪化は、ドラマとは異なり、これが発端だそうです。
当然、清正もこうした日本国内の流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信感を持ちはじめます。
更に清正は朝鮮の国境豆満江を越えて、満洲へと進攻しますが、明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き上げ、ここでも戦果をあげます。
その後清正の二番隊は、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられて漢城に向かい、北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させます。
(ちなみに:亀甲車とは、もくそ城(晋州城)の戦い-黒田長政と加藤清正によれば、城壁に近づくための車で、屋根が亀の甲羅のように傾斜が付いているため、上から石を落とされても潰れず、屋根を牛の生皮で覆っているため、火矢で攻撃されても燃えないようになっていた。さらに、後ろには紐が付いており、退却するときは紐を引けば、素早く退却する事が出来ます。
亀甲車を開発した人物は後藤又官兵衛や飯田直景とされているが、実際は軍師・黒田如水(黒田如水)が古来の兵法書「孫子」に登場する「ふんうん車」を参考にして、亀甲車を作ったとも伝わる。 ) ところが、
文禄2年(1593年)3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始します。
明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。
このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正は京に戻され謹慎となります。
一方、名護屋城の築城以来、軍役やその軍勢を維持するための物資調達のために多大の負担を強いられた清正の領国を含めた九州各地では一揆が発生します。
一揆は間もなく鎮圧されますが、こうした動きが出るほど領内を犠牲にしてまでも出兵し、朝鮮半島で一番の戦果を上げたにもかかわらず、三成の判断が通されて日本に戻され、京に謹慎となったことで、清正の三成に対する不信感は頂点に達したと思われます。
結局明国との間に合意した講和条件は
というものでしたが、小西行長らが日本に有利な報告をしていたために、日本にやって来た明国の使者の言い分と秀吉が行長より伝えられていた報告が大きく異っていました。
ドラマの中でも、秀吉は明国の使者から送られた金印を日本軍が民国に勝った証と思って受け取っていたにもかかわらず、金印は明国が日本の属国としたうえで秀吉をその地の王と認めたものと知るや、秀吉は激怒して金印を投げ棄てていましたよね。
秀吉の怒りはそのまま再度の朝鮮半島への派兵へと向かわせ慶長の役が起こります。
清正は再び出兵しますが、その後秀吉は大陸への進出という夢を果たせぬままこの世を去り、家康が豊臣家の転覆を開始し、秀吉の死により慶弔の役も立切れとなり清正は名護屋城に帰還、
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第32回放送『応酬』では、名護屋城での三成と清正の思いのギャップが描かれました。
以上のような経過を経て、清正の心が三成との隔たりを決定的なものとし、それを知る家康は娘を清正に嫁がせたのです。
石田三成にしてみればこの知らせは思いもかけないことだったのかもしれませんが、清正の思いを汲むことが出来なかったという点で、自業自得と言えるでしょう。
本当か嘘かは知りませんが、もしも名護屋城で三成と清正が酒を酌み交わし、腹を割って話し合えていたなら、清正の豊臣家からの離反は無かったのかもしれません。
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