カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

〜真田丸:ドラマで描かれた三成の動き以外にも徳川家康暗殺疑惑事件が
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 
近畿情報ブログランキング参加用リンク一覧  イメージ 2

NHK大河ドラマ 真田丸』の第33回放送『動乱』では、石田三成が徳川屋敷を襲撃することを企て、殆ど協力者のないまま自身は玉砕覚悟で決行しようとしますが、この時点では思い留まります。

ドラマではただただ孤立して行くばかりの三成でしたが、このような徳川家康を討とうという動きは、三成らに限ったことではなかったとする徳川家康暗殺疑惑事件というものが記録にあります。



徳川家康暗殺疑惑事件が起きたのは、1599年(慶長4年)9月9日のことです。
 石田三成襲撃事件が1599年慶長4年)閏3月4日ですからこの後に徳川家康暗殺疑惑事件が起きたことになります。

徳川家康が大坂城に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久(ひじかた かつひさ)の4名が家康の暗殺を企んでいると、増田長盛・長束正家の両奉行より密告があったという事件です。
その暗殺計画の内容は、 登城当日、五奉行の浅野長政(秀吉の義弟)が家康を出迎え、手を取って挨拶します。その隙を狙って、土方雄久(かつひさ・前田利長の従兄弟)と大野治長(秀吉譜代、後の秀頼家老)が家康を刺し殺すというものでした。

ところが、この徳川家康暗殺疑惑事は実際にあった企てではなく、徳川家康と本多正信が仕組んで
目障りな前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久らをおとしめるための狂言だったと言われます。

実際に前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久らが家康を暗殺しょうとする意志が有ったかどうかはわかりませんが、秀吉の死後、掌をかえすように豊臣家を足蹴にする家康の行動をこの4人は快く思わなかったことが誰の目から見ても明らかな態度をとっていたとしたら、そんな暗殺計画をしていなくとも、家康は先手を打ってこの後あるかもしれない家康に敵対する行動の芽を摘もうとしてこうした未遂事件をでっち上げたとしも不思議はありません。

つまり、家康暗殺計画の有無にかかわらず、家康と正信が仕組んで、敵対勢力の取り崩しを図ったのが徳川家康暗殺疑惑事だったと言えるでしょう。

徳川家康暗殺疑惑事に加わったとされた前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久結果の4名には、結果的に以下の裁定がくだされます。それは10月2日のことで捕らわれの身から解放されます。

徳川家康暗殺疑惑事の裁定内容
浅野長政は、
家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲ると、徳川領の武蔵・府中で隠居します。
大野治長と土方雄久は、
常陸国佐竹義宣に預けられます。
前田利長は、
加賀征伐として軍勢を送られ、脅しに屈します。その後生母・芳春院(=前田利家の正室:まつ)を江戸に人質として差し出すことで許しを得ます。

この裁定により4人は家康支配下に完全に屈服し、後の関ヶ原の戦いでは東軍として戦うことになります。
大野治長と土方雄久は、この戦いで武功を挙げ、罪を許されます。

特に大野治長は、関ケ原の戦い後、家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残り、再び豊臣方として大坂の陣に臨み、豊臣家滅亡と共に亡くなります。
これは治長が淀殿の乳母の子であり、淀殿とは幼馴染であったこと、更に伝えられる説を信じるならば、秀頼が我子であったことにより、豊臣家と運命を共にしたのでしょうね。

次回『NHK大河ドラマ 真田丸』の第34回放送『挙兵』では、石田三成襲撃事件が描かれるようですから、この徳川家康暗殺疑惑事も描かれるかもしれませんね。

土方雄久については馴染みのない武将ですが、土方雄久 - Wikipediaなどによれば、
土方氏源頼親に始まる大和源氏(宇野氏)の流れを汲む家柄であり、父の代から織田氏の家臣であり、雄久は織田信長とその次男の信雄に仕えた。
一説によれば前田利長前田利政は雄久の従兄弟にあたるとされ、実際に弟の太田長知(ながとも、但馬守)が利長に仕えている。
天正4年(1576年)の三瀬の変では日置大膳亮らと共に田丸城での長野具藤ら北畠一門粛清に関わった。天正9年の第二次天正伊賀の乱で功を挙げ、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは信雄の命令で家老の岡田重孝を殺害した。
これらの功績から、信雄より尾張国犬山に4万5000石の所領を与えられた。天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、夜襲を行ってきた北条氏房の軍と戦い撃退している。
小田原征伐後、信雄が改易された後は、豊臣秀吉の家臣として仕え、1万石の所領を与えられた(後に2万4000石まで加増)。
慶長3年(1598年)、秀吉が死去した後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長4年(1599年)の徳川家康本多正信主従が企んだいわゆる「幻の家康暗殺計画」で、家康の暗殺を企てたとして改易され、大野治長と共にその身柄を常陸国佐竹義宣に預けられた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前の会津征伐で治長と共にその罪を許されて家康に仕え、従兄弟の前田利長を東軍へ勧誘する使者を務めた功により、同年越中国布市(富山市布市)に1万石の所領を与えられた(布市藩)。

イメージ 1
土方雄久像

PVアクセスランキング にほんブログ村

全1ページ

[1]


.
上から目線
上から目線
非公開 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

過去の記事一覧

標準グループ

登録されていません

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

ブログバナー

友だち(2)
  • 土佐文旦
  • 湖池健彦 Essay
友だち一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事