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〜真田丸:ドラマで描かれた三成の動き以外にも徳川家康暗殺疑惑事件が〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第33回放送『動乱』では、石田三成が徳川屋敷を襲撃することを企て、殆ど協力者のないまま自身は玉砕覚悟で決行しようとしますが、この時点では思い留まります。
ドラマではただただ孤立して行くばかりの三成でしたが、このような徳川家康を討とうという動きは、三成らに限ったことではなかったとする徳川家康暗殺疑惑事件というものが記録にあります。
徳川家康暗殺疑惑事件が起きたのは、1599年(慶長4年)9月9日のことです。
徳川家康が大坂城に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久(ひじかた かつひさ)の4名が家康の暗殺を企んでいると、増田長盛・長束正家の両奉行より密告があったという事件です。
その暗殺計画の内容は、 登城当日、五奉行の浅野長政(秀吉の義弟)が家康を出迎え、手を取って挨拶します。その隙を狙って、土方雄久(かつひさ・前田利長の従兄弟)と大野治長(秀吉譜代、後の秀頼家老)が家康を刺し殺すというものでした。
ところが、この徳川家康暗殺疑惑事は実際にあった企てではなく、徳川家康と本多正信が仕組んで
目障りな前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久らをおとしめるための狂言だったと言われます。
実際に前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久らが家康を暗殺しょうとする意志が有ったかどうかはわかりませんが、秀吉の死後、掌をかえすように豊臣家を足蹴にする家康の行動をこの4人は快く思わなかったことが誰の目から見ても明らかな態度をとっていたとしたら、そんな暗殺計画をしていなくとも、家康は先手を打ってこの後あるかもしれない家康に敵対する行動の芽を摘もうとしてこうした未遂事件をでっち上げたとしも不思議はありません。
つまり、家康暗殺計画の有無にかかわらず、家康と正信が仕組んで、敵対勢力の取り崩しを図ったのが徳川家康暗殺疑惑事だったと言えるでしょう。
徳川家康暗殺疑惑事に加わったとされた前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久結果の4名には、結果的に以下の裁定がくだされます。それは10月2日のことで捕らわれの身から解放されます。
【徳川家康暗殺疑惑事の裁定内容】
浅野長政は、
家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲ると、徳川領の武蔵・府中で隠居します。
大野治長と土方雄久は、
前田利長は、
加賀征伐として軍勢を送られ、脅しに屈します。その後生母・芳春院(=前田利家の正室:まつ)を江戸に人質として差し出すことで許しを得ます。
この裁定により4人は家康支配下に完全に屈服し、後の関ヶ原の戦いでは東軍として戦うことになります。
大野治長と土方雄久は、この戦いで武功を挙げ、罪を許されます。
特に大野治長は、関ケ原の戦い後、家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残り、再び豊臣方として大坂の陣に臨み、豊臣家滅亡と共に亡くなります。
これは治長が淀殿の乳母の子であり、淀殿とは幼馴染であったこと、更に伝えられる説を信じるならば、秀頼が我子であったことにより、豊臣家と運命を共にしたのでしょうね。
次回『NHK大河ドラマ 真田丸』の第34回放送『挙兵』では、石田三成襲撃事件が描かれるようですから、この徳川家康暗殺疑惑事も描かれるかもしれませんね。
土方雄久については馴染みのない武将ですが、土方雄久 - Wikipediaなどによれば、
天正4年(1576年)の三瀬の変では日置大膳亮らと共に田丸城での長野具藤ら北畠一門粛清に関わった。天正9年の第二次天正伊賀の乱で功を挙げ、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは信雄の命令で家老の岡田重孝を殺害した。
土方雄久像
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2016年08月24日
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