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〜真田丸:石田三成襲撃事件の黒幕は家康。が、全てが思い通りとはならずに〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今日放送の『NHK大河ドラマ 真田丸』第34回放送『挙兵』では、石田三成襲撃事件が描かれました。
この三成襲撃に参加したのは徳川の家臣ではなく、
いずれも豊臣秀吉子飼いの7人でした。
さらにこの集団の中にはまだ黒田長政の家臣ですが、後に大坂の陣において信繁と並ぶ活躍をする後藤又兵衛も行動を共にしていました。
(一言:又兵衛は信繁と信之がその場で行っていた将棋崩し(山崩し)の将棋盤を拳で強打して勝負を無かったものとしましたね。
これは、又兵衛が真田兄弟に、「下手な将棋?いや下手な芝居をしおって。」と釘を刺した行為なのでしょうか?高笑いをして去って行きましたね。)
一説によればこの七将の行動は、あくまでも家康に容認された範囲に限られていたともされます。
(一言:ドラマでは、この三成襲撃の動きをいち早く知らせたのはきりでした。
きりはこの手柄について信繁に、「私、役にたってる?」と訪ね、信繁は「たまに!」と大きな声で答えていました。信繁にすれば「普段は煩(わずら)わしいだけだが、たまに良い事をしてくれる。」と言っているような口調でしたが、それでもきりは嬉しそうでしたね。)
ドラマではきりより襲撃の動きを事前に知った信繁は、北政所や家康に七将の不穏な動きを止めてもらうよう願い出ますが、北政所はもう煩わしい政治向きの事には係るのは御免と、近く出家するつもりであること口にします。
(一言:北政所は結局ドラマでは、秀吉の死後に徳川と豊臣の間に次々と生じる軋轢(あつれき)に嫌気がさして一線を退くのですね。私の推察とは少し違いますが・・・私の推察については後日に。
また、家康に至っては、普段は秀吉の定めた事を無視して己の天下取りのために画策を繰り返しているにもかかわらず、このような己の利にならない事柄に対しては合議に掛けた上で意見が一致するまではと、信繁の申し出をはぐらかします。それもそのはず、家康は七将の行動を事前に知った上で、天下取りのために利用しようとしていたのですから。)
家康が信繁に七将の動きを鎮めるようにとの願い出をはぐらかして以後の処置を思案中のおり、本多正信は、三成ばかりか、「事を起こした七人と、まとめて処分してしまうという手もございますな。」とまで言い及びます。
(一言:これこそ利用価値が亡くなったら消すという、悪ならではの思考です。)
さて七将は屋敷に三成がいないと分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、佐竹邸にも加藤軍が迫ります。そこで三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に、自身の屋敷がある事を活かして立て篭もります。
ドラマにおける石田三成襲撃事件の納まりは、一旦家康も七将らの鉾をおさめさせますが、三成には蟄居を命じます。
このドラマの設定に対して七将 - Wikipediaでは、武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否した。家康はその代わり三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定の見直しする事を約束し、次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせた。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られることになり、家康の評価も相対的に高まることになったと評価されている。
と記述されています。
(一言:つまり家康は、七将の動きを事前に知りながらそれを止めずに一定のところまで実行させ、頃合いで三成と七将の仲介を引き受け、三成の身柄を七将に引き渡すことを拒否し、北政所の仲裁を受けたことで、全国の諸侯らに豊臣政権下での家康自身の行う事の正当性を示し、この後家康に逆らう者あらば、その正当性をもって討てる体制を整えたと言えるでしょう。)
このように、ドラマや史実においても、秀吉の死後、全てにおいて家康は思い通りに事を運ぶことが出来ました。
しかし、思い通りにならなかったのは、真田信繁とその父:昌幸、更に意を決した上杉と三成でした。
特に直江兼続の書状には激怒していましたね。
私は気分がスーッとしました。
(一言:普段は間の抜けた事ばかりをやっていた片桐且元も、家康に対して「上杉征伐は豊臣と上杉の対立とはせぬように。」と頑張っていました。神経性胃炎を起こしながらよくぞ言った。偉い!)
そして家康が上杉征伐に出払った後、蟄居したはずの三成が・・・・。
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2016年08月28日
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