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〜真田丸:最上義光が上杉謀反の動きを家康に知らせた無理からぬ理由とは〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回の〜真田丸:家康への痛烈な批判をした直江状は痛快、でも原本は実在したの?〜では、家康による会津征伐を決定的にした直江状について記しました。
直江兼続が直江状を送らなければならなかったそもそもの原因は、国元に戻った上杉景勝が家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出していることを、最上義光や堀秀治らが家康に報告したことによります。
では両氏が上杉に反感を持ち、家康に忠義を示すそれなりの理由とは何でしょう?
それは文禄4年(1595年)、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた事に遡ります。
この秀次事件はドラマの中でも描かれたように、
秀次の切腹だけに止まらず、秀次に連なる正室や側室はもちろん、その幼い子にまで斬首されました。なんとも惨たらしい事件でした。
実はこの時、当時15歳だった最上義光の娘:駒姫も連座して京三条河原で処刑されていたのです。
恐らく最上義光は天下を制していた豊臣家との縁を持つために、次期当主と目されていた秀次に駒姫を嫁がせたのでしょう。
しかしその功名心が結果として娘を余りにも酷い死に追いやったのです。
一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったといいます。
義光は必死で助命嘆願をしましたが、娘を救うことが出来ませんでした。
義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡したそうです。
さらに秀吉の必要な処断は最上義光本人にも及び、秀次の謀叛に加担したのではないかと疑われ謹慎処分を受けます。
このとき前田利家・上杉景勝ら28名とともに連名で起請文を出して義光への疑いを晴らそうとしますが、秀吉には聞き入れられません。
父の無事を息子・義康と家親が祈願したという記録が残っていることから、義光の立場が相当追い詰められていた事が判ります。
この処分は間もなく解けますが、一連の秀吉によるこうした仕打ちが、義光の秀吉に対する憎悪を決定的なものとしたのです。
これ以降、慶長伏見地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけ、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、徳川方への傾斜をますます強めていったそうです。
以上が最上義光が家康に忠義を示すようになった経緯です。
次に上杉に対する反感についてですが、
景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となっていました。
同年8月秀吉が死去すると、豊臣政権は五大老・五奉行による集団体制で政務を行うが、翌年には五大老筆頭・前田利家が死去する。五奉行の石田三成も蟄居し、徳川家康が大阪城西の丸で政務を行うようになると、義光は家康への傾斜を露わにし、義光は家康に景勝が軍備を増強していることを伝えたのです。
このように最上義光にしてみれば、上杉の軍備増強を家康に知らせた事は無理からぬ事だったのです。
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2016年08月30日
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