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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:上杉景勝と直江兼続は会津へと戻り、着々と徳川への挙兵準備を
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 
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慶長3年(1598年)8月、上杉景勝は生前の秀吉の命によって『NHK大河ドラマ 真田丸』でも描かれたように、会津へ国替えとなりました。

まずはその会津領と諸大名の領地との位置関係を示した図を見ていただきましょう。

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慶長3年(1598年)、上杉景勝は越後・佐渡2国等から蒲生氏郷の旧領、即ち会津・置賜・信夫・伊達・安達などに移封され、加えて庄内の支配も引き続き認められ計120万石を領しました。
1598年(慶長3年)、景勝は豊臣秀吉の命により、越後から蒲生氏郷が治めていた会津へと移封されました。これにより、上杉の所領は、会津、仙道置賜庄内佐渡の120万石となりました。
これにより、最上義光は仇敵上杉氏に南と西から挟まれることとなり、逆に上杉景勝にとっても最上氏に新領地と庄内地方を遮断され、ここに両氏の激突は避けられない状況となります。
佐渡は別として庄内地方以外の各所領は地続きになっていたが、庄内地方のみ飛地となっており、景勝の居城である会津若松城から庄内に向かうには、必ず他国を経由せねばなりませんでした。
上に示した図で分かるように、特に、村山地方を領有していたのは最上義光であり、上杉と最上は、お互いに領内の動向に目を光らせる宿敵の関係にあった。一方の越後も上杉の旧領であったため、新領主となった堀秀治は、上杉の動向に目を光らせていました。
そこで、米沢城を居城とし、置賜を領有していた上杉氏家臣の直江兼続は、置賜と庄内を直接結ぶ道路として山岳部の嶺を伝う馬に乗ったままで通ることのできる軍道を秘密裏に開削することにし、修験道苦の道ベースとして連結・拡張することで苦労の末に1年余りという短期感で完成させました。
それは2000m級の朝日連峰を通る全長65kmにのぼる日本の歴史の中でも有数の山岳縦貫の軍事道路となり、朝日軍道と呼ばれます。

そして秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立するようになります。
同年9月、上杉景勝と直江兼続らは秀吉の葬儀のために上洛の後、再び会津へと戻り、慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命じ、3月には鶴ヶ城が補修されます。
これは将来手狭になると考えてのこととされています。更に会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命じます。
するとこのことが、かねてより上杉の動きに目を光らせていた最上義光堀秀治によって謀反の動きとして家康に知らされます。

この上杉の動きは、近年家康の台頭に対して、三成が上杉景勝の家臣・直江兼続と密謀を交わし、景勝が先手を打って家康に対して挙兵するとともに常陸国の佐竹家がこれに応じて挙兵、大坂では豊臣秀頼を推戴して三成が挙兵することで、家康を東西から挟み撃ちにしようとしたと解釈する節がありました。
ところが、宮本義己はこれを、提携の微証は見当らないと俗説とします。

ですが本当にそうでしょうか?

NHK大河ドラマ 真田丸』第34回放送『挙兵』では、三成が徳川屋敷を襲撃しようとして諸大名を味方にしようとしますが、殆どが徳川方に加担し、窮地に立ちながらも、今さらとりやめても処断は避けられないと玉砕覚悟で出陣しようとしますが、景勝が三成の豊臣家に対する忠義を貫こうとする姿に、それまで我が物顔に振舞う家康に逆らえずにいた自分はどのような男だ?と兼続に尋ねました。
兼続の返答はドラマでは放映されませんでしたが、恐らく「親方様も儀に厚き肩でございますが。」と言ったのでしょう。
三成の生き様と兼続の言葉に感化され景勝は、玉砕覚悟の出陣を「この場は堪えよ。」と強く引き留めます。
その直後の三成と景勝の話し合いもまた描かれませんでしたが、襲撃が未遂となって後、三成が家康によって蟄居を言い渡された時、三成は加藤清正を側に呼び、何やら耳打ちをしました。
恐らく三成は、「ここは蟄居を受け入れたように見せかけるが、間もなく上杉が会津より挙兵する。家康は上杉討伐に向かうだろう。これにより家康が城より出陣した時、私は大阪城へと戻り家康に挑む。」とでも耳打ちしたのでしょう。
それゆえ耳打ちにより清正は目を見開いて驚きの表情をみせました。
つまり第34回放送『挙兵』の設定では、上杉は三成と示し合わせてまず挙兵し、その後大坂の三成も挙兵することで家康軍を挟撃するとしたのです。

宮本義己が指摘するように、三成と上杉が挙兵のための書簡を交わしたという史料は残っていないかもしれません。
しかしその計画が、秀吉の葬儀のために上洛した折から交わされていたとしたとすれば、密約の書簡は不要です。
史実における三成と景勝の動向がそれを可能にする動きであったかどうかは分かりませんが、可能性としてはありえます。

つまり上杉が家康の許可を得て会津に戻った本当の理由は、新領地の整備ではなく、家康に対して挙兵するためのものだった可能性は無くなっていないと思えます。
しかしその証拠が無い以上、学者としてはこれを俗説とするのが妥当なのです。

そして上杉と三成が徳川軍の挟撃に動いたとする説を否定した時、
上杉家の挙兵には、城地と領民を一元的に支配していた戦国大名の性癖を克服できず、新たな領国(会津)の経営に執着する余り、家康統治の新体制への対応をなおざりにするという政局認識の甘さが結果的に政策優先順位の錯誤を生み、会津征伐を起こされる羽目に陥らせたと指摘する説が浮上します。
それが証拠に、決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の真田昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、七月晦日の段階でも、上杉氏との確かな交信ルートを持ち合わせていなかったので、景勝と三成の具体的な謀議や提携は、なかったものと見ておきたい。と。

いずれにせよ、家康は自ら上杉征伐に出ることを決定し、秀頼の台命による征伐の形を整え出陣します。
これについては第34回放送挙兵でも同様に描かれましたよね。

次回放送では会津征伐を含めた関ケ原の戦いの前哨戦が描かれるようです。
楽しみですね。

以下はウィキペディアの関ケ原の戦いについての記述です。

4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣し、景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。

1600年)慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉上杉家から追放される。
4月1日、家康は景勝に対して伊奈昭綱河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣。このとき家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせている。その内容は景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきというものである。
これに対して兼続は直江状を家康に送っている。以下はその一部である。

5月3日、直江状が家康の下に届けられ、家康は同日、景勝の征伐を決する。会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられた。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられた。
会津征伐の決定を受けて、前田玄以長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが、家康は容れなかった。
6月2日。関東の諸大名に対して会津征伐の陣触れが出される。
6月6日。大坂城西の丸にて、会津征伐における評定が開かれる。 6月8日。後陽成天皇より、晒布100反が家康に下賜される。 6月15日。天野康景佐野綱正が家康出陣中の大坂城西の丸留守居に任じられる。同日、秀頼より黄金2万両と米2万石が、家康に下賜される。 6月16日。家康、大坂城より出陣する。 6月18日。家康、伏見城を発つ。 6月23日。家康、浜松に宿営。 6月24日。家康、島田に宿営。 6月25日。家康、駿府に宿営。 6月26日。家康、三島に宿営。 6月27日。家康、小田原に宿営。 6月28日。家康、藤沢に宿営。 6月29日。家康、鶴岡八幡宮に参拝して戦勝を祈願する。 一方会津の上杉景勝は、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。 7月2日。家康、江戸城に入る。
家康が会津に出征して畿内を留守にした間、7月2日に宇喜多秀家が出陣式を行い、7月17日に三成が大谷吉継毛利輝元らを糾合して挙兵する。家康はその時はまだ江戸城にいた。
  • 7月19日。家康、秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣する。
  • 7月21日。家康、江戸城から出陣して会津に向かう。
  • 7月24日。家康、下野小山にて、鳥居元忠の急使により三成らの挙兵を知る。
7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った慶長出羽合戦)。

三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐を中止、小山評定を開いて今後の対応を協議する。そして景勝に対しては結城秀康の軍勢を抑えとして残し、家康は反転西上して三成らの討伐に向かった。一方の景勝もこれを受けて後顧の憂いを絶つため出羽の最上義光を攻略することに方針を転換する(慶長出羽合戦)。このため徳川軍と上杉軍が直接対決することはなかった。

ちなみに、会津に向かっていた家康軍が三成の挙兵を知って反転西上した時、景勝は敵の背後を突くのは議に反するとして追撃しなかったと伝えられます。
一言:固いよーっ、固すぎます景勝さん。そんなこと言ってるから家康に勝てないんですよ。本多正信の卑劣な策略をほんの少しでも見習わなきゃ!)

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