カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:第37回放送『信之』では昌幸の無念と、真田一族の人間模様を描き
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今日放送の『NHK大河ドラマ 真田丸』第37回放送『信之』では、徳川軍との戦いに勝利しながら、関ケ原の戦いにおいて西軍が負けたために、流罪の憂き目にあう真田一族の人間模様が描かれました。
先週の放送『勝敗』については、関ケ原の戦いについて全くと言っていいほど描かれなかったために、最低の放送だったと記しました。
ですが三谷幸喜さんにしてみれば、真田親子が活躍しなかった関ケ原の戦いを描かないのは、信繁を主人公とするドラマにおいては、何のちゅうちょもない判断だったのかもしれません。

で、今回の放送ですが、家康の暗殺に失敗にし、死んだかに思われた出浦昌相が寝床に横たわり言葉も発せられないながらも、無事な姿を見せたり、信繁と先の正室:梅との間に生まれた娘:すへも成長した姿で登場しました。
信繁の姉:松も、あいも変わらず天然キャラの明るさで登場し、家康よりの処分を待って心沈む昌幸らをほのぼのとさせて和ませてから夫:小山田茂誠に連れられて去りました。

矢沢三十郎、 河原綱家、きりとその父:高梨内記、梅の兄:堀田作兵衛、昌幸の正室:薫、などなど、真田一族の面々が続々と登場。
信幸は昌幸と信繁の助命嘆願を家康に嘆願し、命までは取らぬかわりに「幸」という父の名に由来する一字を棄てて親子の縁を切れと申し渡します。
この嘆願のさい、信之の義理の父:本多忠勝も共に家康へ真田親子の助命嘆願を我が身を顧みずに進言します。
このことをもって、忠勝も名実ともに真田ファミリーとなったと言えるでしょう。

そして家康は、幽閉地となる和歌山県の高野山の麓にある九度山へと幽閉される直前の昌幸と信繁を呼びつけ、命をすくったのは信之らの助命嘆願によるものではなく、死に優る苦難を与えるためであると語ります。

開戦直前に徳川を見限り、あまつさえ2度に渡って徳川軍に泥を塗った真田親子だとは言え、その言いぐさは聞きしに勝る憎々しさでした。

前回については散々不満を述べましたが、今回の放送は信之や三十郎、昌幸らの無念の思いがひしひしと伝わる展開を見せ、ある意味見応えのある放送でした。
私は良い時はいい、不満の残る放送には正直にその思いをこれからも記したいと思います。

そして次回放送からは、我が地元の和歌山を舞台とした幽閉の日々が描かれます。
信繁らの生涯の中で最も辛く、華やかな場面の全く無い不遇の時期ですが、スペクタクルではなく、人間模様を描くことに長けた三谷さんなら、きっと見応えのあるものとしてくれるでしょう。
三谷さんにとっては、手腕の見せどころだと言っておきます。

私も九度山の撮影に再び出なければなりませんね。

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〜真田丸:36回放送『勝負』で描かれなかった関ケ原の戦いを巡る攻防(後編)
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今日は36回放送『勝負』では消化不良となった関ケ原の戦いを巡る東西両陣営の攻防の経緯をご紹介する前回に続く36回放送『勝負』で描かれなかった関ケ原の戦いを巡る攻防の後編です。

前ページでご紹介したように、石田三成らが家康の会津征伐のために出した後の大坂で決起したことを受けて、家康側は世に言う「小山評定」によってこれに対抗することを決定し、これに賛同する諸侯と共に東軍を結成、これにより東西両軍の激突は避けなられないものとなりました。

「小山評定」の後、西軍は東軍として家康と行動していた細川忠興の大阪にある細川屋敷を包囲し、忠興の妻 :ガラシャを人質にしようとしますが、忠興は会津討伐のために大坂を発つ祭、敵方の襲撃で敵方の手に落ちることがあれば、キリシタンであるため自害が出来ない正室のガラシャの命を絶つよう家臣に命じており、ガラシャは「東軍にいる夫の邪魔になっては」 と、屋敷に火を放って自ら死を選びます。
 
こうした西軍の人質作戦などが恐らく家康もしくは本多正信らによって意図的にクローズアップされて東軍の武将に伝わる度に、東軍の結束は更に強まってゆき、西軍にとっては逆効果になっていきます。

ただ、当初は会津討伐のために表面上は徳川に従って帯同していた真田昌幸だけは、、小山評定の際に徳川軍から離脱します。昌幸はかねてより徳川方に打って出る機会を伺っていたのです

さて、石田三成の挙兵を受けて、その軍勢と戦うことにした徳川軍ですが、もともと上杉家を攻撃するために出発した軍勢ですから、上杉家をそのまま放置することは出来ません。
ヘタをすると西軍との戦闘中に背後を襲われる危険があります。
 
そのためここから徳川家康は、関東を中心とする大名に対し、協力を要請する書状を送りつけ、来たる決戦のための足場固めを始めます。
その結果、関東・東北地方で西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家と佐竹家だけでした。
一方、東軍(徳川家康側)には東北の大大名最上家と伊達家が加わります。

西軍の当初の計画では、この関東の上杉・佐竹が東から江戸の徳川を攻め、三成らは尾張(名古屋)を拠点として西から挟み撃ちにする予定だったとも言われます。
三成らの挙兵してからの東へと向かう速攻は、そのためだったでしょうが、その発覚が想定とは異なり早すぎました。
この西軍の動きの速やかな伝達の影には、服部半蔵のいる伊賀や、甲賀の忍者が係っていたのかもしれませんし、当初より家康は三成らの動きを想定したのかもしれません。

それを裏付けるかのように、会津征伐には先に家康の嫡男:秀忠の軍を向かわせ、家康の軍は遅れて出陣しており、その進軍も遅かったのです。
従って言い方を変えれば、三成らの挙兵を誘うために家康自身も会津征伐に乗り出したとも言えます。
加えて三成らが西軍の主力と頼んでいた毛利軍の動きが全くと言っていいほど進まず、目算は大きく狂い始めます。

ですが家康も会津の上杉軍を前にしながらそれを放置して西に取って返す訳にもゆきません。
そこで徳川家康は、自分の息子で、勇猛で知られる結城秀康に佐竹家の押さえを命じ、最上と伊達の両大名には上杉への攻撃を任せます。

西に取って返した徳川軍は先鋒を先に大坂に向かわせ、本隊も二手に分けます。
秀忠軍は中山道を経て真田昌幸の待ち構える上田へと進軍し、家康軍は先鋒隊の福島正則らが西軍の城を落とした後の東海道を進みます。
これは家康が過去の対戦経験から真田昌幸を小国の武将ながら侮れない存在として警戒していた証でもあります。

家康軍の先鋒:福島正則の部隊は東海道を通り、江戸から三河や尾張(愛知県方面)に一気に進んで、その周囲を押さえていきます。
その中の岐阜城を守るのは織田信長亡き後、豊臣秀吉が清須会議において織田家の跡継ぎとして担ぎ上げた織田家直系の織田信長の孫である「織田秀信(三法師)だったのですが、その軍勢は家康軍の数に遠く及びません。
多勢に無勢だった上に、この城はかなり長い間 織田家や豊臣家に使われていたため、内部の構造が知れ渡っていていたため、攻め手にとっては絶好のカモ、いとも容易く陥落します。
石田三成は急峻な山頂きにある岐阜城ならはしばらくは持ちこたえてくれるだろうと踏んでいましたが、これは三成にとって大きな誤算となります。

一方上杉は進軍してくるはずだった徳川軍を待ち構えていましたが、徳川軍は「小山評定」の後に引き返すのと同じタイミングで伊達軍が上杉への攻撃を開始、さらに最上軍も上杉への進攻を開始しようとします。
しかし上杉もバカではありません。最上軍が攻め込んでくる気配を即座に察知すると、直江兼続や 前田慶次などを派遣して最上家を先制攻撃。最上家は追い詰められてピンチに陥りますが、そこに伊達軍が最上軍の救援に向かい、そのまま戦況は激化、一進一退の攻防となります。
 
ただ、この激突が最も激しくなったのが、ちょうど西で「関ヶ原の戦い」が起こっていた頃でした。
結果として徳川軍は上杉軍を抑えることが出来、上杉側としても、最上軍と伊達軍を抑えが出来た事になり、関東での東軍と西軍の戦いは痛み分けとなったのです。
 
この時の家康の動きは?というと、もっぱら各地の武将や大名への協力要請の手紙を書き続けていました。家康自らが出陣したのは西軍が決起して1ヶ月ほど経って後のことです。
本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が率いて東海道から西に向かいますが、上田へ向かった秀忠軍は、結果的に関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。
初陣である秀忠を補佐するために老将:本多正信を付けていたにもかかわらず、総勢わずか2,500〜3,000の真田軍に対し、総勢38,000の大軍をもってしても昌幸の率いる真田軍の地の利を熟知したゲリラ戦法に翻弄され、またしても徳川軍は勝利することが出来ず、合流が遅れていることに業を煮やした家康の催促により上田攻略をあきらめて家康軍との合流に向かわざるおえなかったのです。
家康にしてみれば、真田を侮っていなかったからこその秀忠軍の派遣でしたが、結果的には、それでもなお昌幸の実力を侮っていた、もしくは初陣とは言え秀忠と本多正信をもってすればという過大評価があったと言えるでしょう。

しかしそんな真田軍や上杉軍の奮闘も空しく、関ケ原における本戦は、半日の内に勝敗が決してしまったのです。
その背景として徳川側からの西軍側の武将に対する再三の寝返り要請があったことや、石田三成の不人気が影響し、東軍と西軍の指揮自体に大きな差が有ったからとも言われています。
その極端な例が小早川秀秋の裏切りであり、更には豊臣五奉行の1人であり、石田三成と共に西軍の軍事計画を立てていた増田長盛でさえ、実は徳川家康に内通していて、西軍の軍事計画を東軍に報告していたのです。
 
このことから、すでに情報戦の面で、西軍は東軍に劣っていたと言えます。
結局急襲により尾張まで攻め上りたかった西軍本隊でしたが、東軍の速やかな対応により、当初の計画とは全く違ったものとなります。
石田三成は徳川軍を急激するどころか、東軍の京都・大阪への進軍を止めるための迎撃へと計画を移行せざるおえなくなり、尾張に到達することなく関ヶ原のやや東に位置する大垣城に攻め落とし、ここで東軍を待ち受けますに入ります。

それでも両軍が激突する直前の前哨戦となった杭瀬川の戦いでは、勇将:島左近が獅子奮迅の戦いを見せます。
この時家康の本隊の進軍が思いのほか早かったため、急に増強された東軍を見て西軍の兵には、動揺する者も多数いまいた。
そこで左近は兵の一部を率いて東軍の陣の前に向かい、敵を挑発。
この挑発に怒った東軍の部隊が島左近の兵に襲いかかり、その勢いに押されて島左近の軍勢は後退してしまうのですが、これは全て左近の作戦、敵をおびき寄せた所で伏兵で敵の背後を遮断し、そのまま孤立した相手を包囲して攻撃、おびき出された東軍の部隊は壊滅し、それを見ていた西軍の兵は奮い立ち、動揺も鎮まったと言われます。

この島左近の働きにより、少なくとも指揮においては東西両軍の間に有った差は解消します。

その後、東軍と西軍はにらみ合いが続き、そのまま夜になりました。
その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた 島津軍 や 島左近 などの西軍の武将たちは「士気も上がっており、見通しも悪いので、城を出て夜襲で勝負をかけましょう」と石田三成に進言しますが、三成に却下されてしまいます。
 
三成陣営と家康陣営の双方とも、この夜どう動くか思案のしどころとなります。
当然軍議も開かれたことでしょう。

ところがそんな上層部の思考とは裏腹に、戦況は全く別の人物によって大きく動かされることになりました。
それが前回までにご紹介した小早川秀秋の動きだったのです。

これをもって『NHK大河ドラマ 真田丸』第36回放送『勝負』では描かれなかった関ケ原の戦いを巡る東西陣営の動きは、概ね説明できたことになります。

このページの内容を踏まえて今夜の放送を見て頂ければ、きっとより楽しく放送を見る事が出来ると思います。

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家康もとに集結した諸大名、その中には真田信之の姿も

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〜真田丸:36回放送『勝負』で描かれなかった関ケ原の戦いを巡る攻防(前編)
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今日は36回放送『勝負』では消化不良となった関ケ原の戦いを巡る東西両陣営の攻防の経緯を、二部に分けてご紹介します。

西軍の司令塔とも言える石田三成は、秀吉に対する天下の動向の報告や、諸将に対する命令を伝達える役目を担う秀吉の一番の側近でした。

そんな三成による余談を交えないありのままの報告は、秀吉の命に従って事にあたる諸将にとっては、自ら事にあたり、武功を上げることも、戦場で傷つくこともなく他の者の失敗や罪状を秀吉に告げ口をする嫌な奴でしかありませんでした。
それは三成の報告により処罰を受けた者にとっては、許しがたい事だったのです。
「現場の苦労も知らない癖に!」と。

従って、豊臣秀吉が生きている頃から豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする今で言う官僚派の五奉行と、合戦で戦っている「武断派」の間では常に内部対立がありました。
「この腰巾着(こしぎんちゃくめ!」と。
そしてこの豊臣家の内部対立こそが主要原因となって、関ヶ原の戦いは勃発したのです。
 
しかしそんな火種だけでは三成に対する不満というもやもやした煙のようなものが燻り続けるだけで、大爆発にまでは中々至りません。
そんな内部対立に対して「シメシメ。」と薄笑いを浮かべてこれを利用して天下を握らんとしたのが五大老筆頭の大名:徳川家康でした。

つまり家康の天下取りの野心が、燻り続けていた火種にガソリンのようなものを撒き散らし、一気に大爆発を起こさせたのです。

秀吉の死後、家康は勝手に婚姻や知行の斡旋などを行うよになりますが、これは秀吉が生前より厳しく禁じた行いでした。
従って豊臣政権下にあっては今で言う憲法に違反する行為であり、当然非難されるべきものでしたが、その家康の独断的な行いにより恩恵を受けた武将にとっては、ありがたいものであり、それを非難している石田三成らは嫌われ者ですから、聞く耳を持たない者が多かったのです。
 
しかし、そんな二派の対立に割って入る中立派の存在もありました。
その人こそが秀吉の嫡男として生まれ、幼くして豊臣家の当主となった秀頼の後見人を任された前田利家です。
利家は、二派の間にもめ事があるごとにその仲裁役として火消し役を務めます。
彼は織田の家臣時代から秀吉と共に信長の重臣として働いた武将ですから、秀吉の信任も厚く、秀吉の死後も五大老の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名から慕われていた人徳を併せ持つ唯一無二の存在でした。
ところが家康が不穏な動きを見せるそんな最中に、利家が高齢により他界。
これにより豊臣家は二派の対立を繋ぎ止めるタガを失ってしまいます。

案の定、利家が他界した翌年、石田三成 暗殺未遂事件が起こり、天下は一気に動乱へと走り始めたのです。
しかもこの襲撃の主たるメンバーは、福島正紀・加藤清正・黒田長政・堂々高虎・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長といういずれも豊臣家子飼いの大名だったのです。
このとき、石田三成 はその動きを事前に察知して姿をくらまし、難をのがれますが、そのままでは事件の決着には至りません。

ですがこの時家康は、表向きには事件の仲裁を行って事なきを得ます。
 
しかしこの仲裁には家康の計算による裏がありました。
事件後、石田三成は謹慎処分となり、一時的に失脚、これにより家康は、自身にとって最も鬱陶(うっとう)しい存在の三成を合理的に排除することに成功したのです。
結果その行いを大名どころか北政所も高く評価し、徳川家康の影響力はさらに大きくなることとなります
逆に豊臣家のために非情に徹して働いてきた三成の立場は、地に落ちます。
つまりこの時点で、家康による天下取りの時は熟したのです。

石田三成 が暗殺未遂事件で失脚すると、徳川家康は大手を振って豊臣家の中枢であった大阪城に入り、自ら政務を指揮するようになります。
しかし三成が失脚して後も政権に残った他の豊臣五奉行としては面白くありません。
二派の対立は以前にも増して深まっていきます。
 
そんなある日、 利家の死後に前田家を継いでいた前田利長と豊臣五奉行の1人浅野長政が結託して徳川家康 暗殺計画」を計ったとの発表がなされます。
つまり、家康による敵対勢力のあからさまな粛清が始まったのです。
 実際に二人がそのような動きを見せたのかどうかは不明ですが、家康に反感を持っていた事は確かですから、家康が前田利長と野長政の犯行をでっち上げることは容易かったでしょう。
いずれにせよ、この一件により五奉行の1人浅野長政は失脚。
さらに家康はこの計画をしていた「前田家」を討伐するとして、兵を集めて出陣の準備を進めます。
この騒動は前田利家の妻であったまつ(芳春院)が徳川の人質となり、いち早く前田家が服従する姿勢を見せたため前田家にとっての最悪の事態(改易)は回避されますがその結果として家康は前田家を従える事となります。
この前田家が利家が生前に秀頼の後見人であったにもかかわらず、後の関ケ原の戦いで東軍として動くことになったのも、西軍にとっては大きな痛手でした。

1600 年のお正月、名実ともに豊臣家の中で一番の権力を得た家康」は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めます。
ところが、この挨拶を上杉家だけは断り、家康の要請を伝える使者として、家康の命に従うようように景勝を説得しようとした上杉家の家臣を、謀反の疑いで処罰しようとします。
 
そのためその家臣は上杉家を出奔(離脱)し、家康に上杉に謀反の気配がありと報告しますが、それ以前から上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、合戦の準備を行っているという情報は近隣の大名らによって伝わっていました。

そこで家康は、これらの件について釈明を求める書状を出しますが、上杉家の重臣直江兼続は、
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけ。京では茶器などを集めているのが武士のたしなみでしょうが、当家は田舎者ゆえ武具を整えることしかできません。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたことを棚に上げて、当家に違約違反を言うのはおかしなこと。 前田家をお仕置きしたと聞きますが、大層なご威光ですね。
当家にも前田家にしたような有らぬ疑いによる汚名を着せようというのなら、こちらも兵を率いて出迎えてやるのでいつでもその覚悟を持って来るがよろしかろう。」
といった内容の世に言う「直江状」を送りつけます。
これによりついに関ヶ原の戦いの引き金が引かれる結果となったです。

こうした上杉家の離反は家康の目論見どおりだったとも言われますが、はその想定を遥かに超えた無礼な「直江状」に家康は激怒し、大軍を率いて大阪城を離れ、会津征伐に乗り出します。

1600 年6月、大阪城に徳川派が居なくなった隙を突いてすかさず石田三成は行動を開始、かねてからの友人であり、豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わせたほどの名将:大谷吉継を説得して共に家康を討つべく共闘関係を結びます。
 
その後、石田三成は豊臣五奉行の「増田長盛」や、豊臣家の重臣で友人の「小西行長」、豊臣五大老の大名家「毛利家」 の家臣の僧侶「安国寺恵瓊」などと共に打倒徳川の計画を立案。
1600 年7月、石田三成 はついに「徳川討伐」の挙兵を宣言、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の前田家や上杉家を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な家康の罪状を並べたて、その討伐を訴える「内府ちかひの条々」を発表し、諸将に集結を呼びかけ、中国地方の大名「毛利輝元(毛利元就の孫)」を総大将として軍勢を準備し、西軍が結成されます。
さらに西側の大名家が徳川軍に参加できないよう関所を封鎖し、大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えます。

そして翌日、徳川の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」を総攻撃。
「伏見城」には徳川家の重臣鳥居元忠が率いる守備兵は 1800 ほどで、攻める西軍側は1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢が参加して戦力がどんどん増加、伏見城側は多勢に無勢の状態になっていきます。
結果、伏見城は炎上して鳥居元忠は戦死しますが、その報告は上杉家に進軍中の徳川軍に伝わります。

三成らの挙兵を知った徳川軍は、このまま会津への進軍を中断し、今後について話し合います。世に言う「小山評定」です。
ここで徳川家康は武将達に「人質を取られ困っている者もいるだろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言します。
すると「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者の1人であった猛将福島正則が「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する!」と発言、同じく三成暗殺未遂メンバーだった「黒田長政」がそれに続き、さらに織田家の旧臣だった内一豊が「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する!」と宣言します。
これらの発言で反対意見はなくなり、上杉家に進軍中の徳川軍はそのまま大阪方面に戻って、石田三成軍と戦うことが決定、東軍の結成です。
これで石田三成(豊臣)軍=西軍と、徳川家康軍=東軍という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定付けられたのです。

続きは次回の後編で。

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             三成のために西軍として出陣した大谷吉継

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