|
〜真田丸:真田昌幸・信繁らの流刑地はなぜ高野山(九度山)だったのか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今回は真田昌幸と信繁の流刑地がなぜ高野山なのかについて記したいと思います。
検索してみるとネット上には、
「後に大坂の陣において再び豊臣方の武将として徳川に戦いを挑み、壮絶な最後を遂げた真田信繁とその父:昌幸の流刑地が、なぜ大坂に近い和歌山県の高野山(九度山)だったの?」
といった質問が多数ヒットしました。
真田親子の高野山への流罪を考える時、なぜの先に宇喜多秀家の八丈島への流刑が頭にひっかかります。
「真田親子もこのような島流しにすれば、再び徳川に仇名すことはなかったろうに。」と。
私に限らず、こうした疑問を持つ人はけっこう多いようです。
恐らく、「NHK大河ドラマ真田丸」の視聴者の中にもこうした疑問を持った人が少なからずおられると思います。
えっ?あなたもですか?
あなたの疑問をスッキリと解決できるかどうかはわかりませんが、このページを読みながら、皆さんも推理してみて下さい。
(ちなみに:真田親子は当初は確かに高野山に入りますが、その後間もなく妻子との生活を許され、女人禁制の高野山から麓の九度山へと移ったことを知っておく必要があります。)
「なぜ真田親子は高野山(九度山)に流刑となった?」との疑問をテーマとしたページには、
などがあります。
上記のページにある推測を含めたアンサーをざっとまとめると、 1.当時、高野山は流刑地として定番だった。
(一言:豊臣政権下では流刑のために島へ流すという発想がなかったし、島流しを執行する側にも手間暇がかかるからではないでしょうか、それが徳川の時代になると地続きでは真田のように流刑地から脱出する者も少なくなく、手間暇を掛けても島流しにしなければと考えるようになったのでは?比較的軽い罪に対しては寄場送り、重い罪には島流しとしたと。)
2.高野山に流刑となった戦国武将は他にもいた。
豊臣秀次・織田秀信・真田昌幸・真田信繁・佐久間信盛・佐久間信栄・増田長盛・北条氏規・北条氏直・池田勝正・仙石秀久
青色の武将は後に流罪を以下のように許されます。
仙石秀久
(秀吉の島津征伐で、ドジ踏んで追放され、家康の斡旋で小田原征伐のとき復帰し活躍、信州小諸で5万石) 北条氏直 (小田原征伐で、降伏して、高野山に上ったが、家康の娘婿ということですぐに赦免され一万石。すぐに病死) 北条氏規 (同様に小田原征伐で降伏後、氏直とともに高野山へ、もともと北条家内で、秀吉臣従派であったこともあって、すぐに赦免河内で2000石) 真田幸村(信繁) (関が原のとき、父と一緒に西軍側について追放。奥さん同伴のため、女人禁制の高野山にははいらず九度山に。 大坂冬の陣で豊臣方に誘われ復帰。このとき家康から信濃一国をもって寝返りを誘われたが拒否)。翌年夏の陣で討ち死に) (注釈:大坂夏の陣で豊臣が滅びるまでは徳川政権ではなく、豊臣政権ですので、信繁も時の政権に罪を許されたことになる。)
3.宇喜多秀家は豊臣秀吉の養女を妻としており、秀吉の猶子となっているのに対して、真田家は豊臣家の外様(大谷吉継の娘を妻とし、豊臣姓を下賜されるも秀吉の猶子ではない。)であることと、信之と徳川子飼いの大名:本多忠勝の強い説得があった。
4.家康としては、ここで真田信之や本多忠勝に恩を売る絶好の機会であったと同時に、他の大名などに度量の大きさを見せる機会でもあった。
5.軍事力の無い昌幸・信繁父子が大坂城に通じるかもしれないデメリットよりも、前述のメリットの方が大きかった。
6.本多忠勝が、、別途、密かに家康に、「例えば高野山のような、大坂に近いところに流せば、真田が大坂城とツルんで、事を起こす危険性もあります。むしろ、その時こそ、かえって、大坂を討伐する大義を手中にすることもまた、できるではありませんか」と信之の居ない所で耳打ちした。
7. 宇喜多は西軍副将格で大大名であるのに対して、真田昌幸は徳川に敵対したとはいえ、小大名なので宇喜多よりは軽く見られた。(大軍を率いて反逆する力はないと。) 8.関ヶ原直後の時期には、家康は再び豊臣家との戦いを意識していなかったために、真田との再戦の可能性は考えもしなかった。
(注釈:関ケ原直後は石田三成らの首謀者に罪を背負わせ、豊臣政権の継続を容認していた。従って家康は関ヶ原の戦後処理を大阪城西の丸、豊臣家大老として処理した。また、徳川に対抗できる大名も殆どいなくなり、家康は実質的に政権を掌握した上で本格的に豊臣の排除を進めますが、最初は武力ではなく国替えや、秀頼の家康への謁見等政治的な決着を試みていて、合戦を想定していなかった。)
9.家康が警戒していたのは父・真田昌幸で、信繁に対する認識は低かった。(昌幸はそのうち亡くなる。)
10.山が育ちの真田はその地の利を生かす事に長けていたものの、平地での戦いを想定した戦いは出来ないと何となく思っていた。楠木正成が平地で足利尊氏との戦いではほとんど無力でしたように。
11.助命嘆願をした信之は高野山の真田ゆかりの寺:蓮華上院に相談し、寺側が受け入れを了承したので高野山への流罪を強く要望した。
12.当時九度山を含めた領地を治めていたのは、豊臣恩顧の浅野家で、関ケ原の戦後、21位万5千石から37万6千石の加増による国替えだったことから、この家康に対する恩に報いるためにも、信頼を裏切らないために真田親子を厳重に監視するだろうと家康は考えた。
13.真田家には敵対関係だけではなく、天目山での戦いでの貢献もあったことを考慮した。 以上の推測を含めたアンサーを総合的に考慮して私が考える真田昌幸・信繁らの流刑地はなぜ高野山(九度山)だったのか?に対する個人的な考えはこうです。
家康は秀忠の怒りも手伝って当初は是が非でも処刑すると考えていました。しかし、信之と本多忠勝の助命嘆願を聞くうちに、天下人となるためには諸侯に度量の大きさを示すと同時に、けじめもきっちりと示さなければならないと思い直します。そして思うのです。
「そうじゃ、昌幸には死よりも苦しい流罪の日々を与えよう。豊臣政権における定番の流刑地は高野山であるから、そこに送れば、かつては戦上手で知られた昌幸も徳川に逆らったばっかりにあのようなみじめな日々の果てに亡くなることも豊臣方近くの高野山ならよく伝わるじゃろう。きっと見せしめになる。
その昌幸の哀れな最後を見て、信繁は徳川に忠誠を誓うから許してくれと泣きついて来るかもしれぬ。そこでおもむろに信繁を九度山から解き放てば、信之は更に徳川に忠誠を尽くすかもしれぬ。昌幸が流刑地で亡くなれば、秀忠も納得するはずじゃ。」と。
更に付け加えて言うなら、家康が宇喜多秀家を八丈島に生涯流罪としたのは、生涯許す気が無かったからであったのに対して、真田昌幸については生涯許す気が無かったが、その死を目の当たりにした信繁には、徳川にとって利用価値があると考えたのではないでしょうか?(家康にとっては、高野山は流罪となった後に許された前例の多い流刑地。従って許す可能性のある者のための流刑地と位置づけていた。)
また、大坂の陣までは家康は豊臣家の外様、真田親子の九度山への流刑は豊臣家(淀殿や秀頼)も強く望んだ可能性もあります。
その利用価値とは、信之や本多忠勝に恩を売るだけでなく、諸侯に対して温情厚きところを知らしめられる上に、今後豊臣と再び戦うことあれば、信繁も徳川方として働いてもらうという、伊達政宗が決起した場合も同様に、との思惑もあったのではないかと。
皆さんはどのようなお考えをお持ちですか?
流刑地:九度山で老いさらばえた昌幸
次回の予告シーン
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2016年09月21日
全1ページ
[1]
|
〜真田丸:昌幸らの九度山流罪を決めた家康・秀忠の思いと首謀者の処分〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
〜真田丸:第二次上田合戦を描いた第36回放送『勝負』と史実との違い〜でご紹介したように、真田昌幸と信繁は、大軍をもって攻めよせた秀忠軍をほんろうし、秀忠軍わずかな兵力で撃退しました。
しかし東軍と西軍が戦った関ケ原の戦いにおける西軍の大敗が1日の内に決着します。
関ケ原の戦いの結果、豊臣方(西軍)として戦って生き残った武将のうち、毛利氏、上杉氏が大幅に減封されましたが、島津氏は積極的な加担ではなかったと主張し、家康この主張に折れるかたちで薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定されます。
これは、江戸から遠く離れた九州にある島津に恩を売ることで、その地を徳川のために納め、大陸からの外敵の脅威に備えることを強く望んだのでしょう。
対して豊臣方のだった、首謀者となった者には厳罰が処せられました。
戦後行方不明となった宇喜多秀家は逃亡先の薩摩で捕らえられ、八丈島に流罪となります。
一方、石田三成にたいしては、徳川に対する決起を企てた張本人のは豊臣本家とは係わりないところで独断で行ったこととされ、罪を一身に背負うかたちで家康は安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)・小西行長らと共に処刑されます。
このように関ケ原の戦いの後、処刑されたのは西軍決起の首謀者たちのみで、真田昌幸はその一人ではありませんでした。
最終的に西軍の大敗を知った真田昌幸らは徳川にたいして降伏し、合戦の首謀者でもないにもかかわらず、一旦は処刑されることになります。
これは真田軍に手ひどい目に合わされた上に本戦に間に合わなかったことで、家康にこっ酷く叱られた秀忠の意向が大きく繁栄したものでした。
もちろん、家康本人にしても第一次上田合戦での敗北の経験がありますから、真田に対する憎しみが無いはずはありませんが、天下人としては、諸侯に対して度量の大きさを示すためにも個人的感情のみで処罰することは差し控えなければなりませんが、それでもなお家康もまた真田昌幸らの処刑は打倒と考えていたのです。
ですが最終的には、信之・本多忠勝らの助命嘆願によって九度山への流罪というかたちで処罰は決定します。
これは、信之らの嘆願を受けるうちに家康が天下人としての自覚を思い起こしたのかもしれません。
ですがただ昌幸らの助命を許したのでは個人的な思いは納まりません。
秀忠に至っては何が何でも処刑したかったに違いありません。
であるならば、第37回放送『信之』でで描かれたように、死よりも辛い苦難を与えるために九度山への流罪を決定したというのは、的を得た脚本だったのかもしれません。
次回は、昌幸・信繁らの流刑地がなぜ高野山(九度山)だったのか?について記します。
徳川秀忠を演じる星野源さん
星野源さんは、日本の俳優、シンガーソングライター、文筆家。埼玉県蕨市出生、川口市出身。所属はアミューズ(音楽業)、大人計画(俳優業)。インストゥルメンタルバンド「SAKEROCK」のリーダーとして、主にギターとマリンバを担当したほか、エッセイストやコラムニストとしても複数の連載や刊行物を著しているマルチタレントです。
|
全1ページ
[1]







