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〜真田丸:昌幸の九度山行きは無念のみ?いいえ、喜びと希望も携えて〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今回は昌幸が、どんな思いをもって流刑地:九度山へと向かったのかについて考えてみたいと思います。
今日私は衝撃の事実をラジオで知りました。
知らせたのはラジオ界のレジェンド:浜村淳さんです。(関西の人しか知らないかな?)
番組の名は「ありがとう浜村淳です。」という放送開始から43年を迎えた番組です。
聞けば13年間に及んだ昌幸・信繁の九度山での幽閉の日々が、次回の放送「昌幸」において彼が死に至るまでを一気に放送してしまうというではないですか。
言われてみれば前回放送での予告編において、白髪かつ白髭となった昌幸の姿が映しだされていましたが、「まさか13年に及んだ苦難の日々が、たった一話でおわってしまうのでは?」と思ってしまうと、驚かずにはいられません。
前向きに考えても、「2話で終ってしまうのかな?」と思っている私です。
さて、九度山の隣町である橋本市民としてのこのような思いはともかく、浜村さんの名解説によれば、ネット上では渋くてカッコいい草刈正雄さん演じるあの真田昌幸が、次回をもって登場シーンが終了してしまうということで、ギャル〜熟女に至る女子たちが、キャーキャー騒いでいるとか?
芸能界やSNSの書き込みに全く興味のない私は、全く知りませんでした。
でもいいじゃないですか、これから草刈さんは全国で公演を行うことでしょうし。
草刈昌幸のファンである女子の嘆きは私には無縁ですのでさておいて、本題です。
戦国時代は基本的に超プラス思考でなければ今日を生き抜くことは出来なかった時代だったといえるでしょう。もちろん戦略において慎重になるべき点はあったでしょうが。
関ケ原の戦いの勃発年とその折に主役級の活躍を見せた戦国武将たちの誕生を順に並べると、以下のようになります。
徳川家康 天文11年12月26日(1543年1月31日)
真田昌幸 天文16年(1547年)
上杉景勝 弘治元年11月27日(1556年1月8日)
石田三成 永禄3年(1560年)
直江兼続 永禄3年(1560年)
大谷吉継 永禄8年(1565年)
真田信幸 永禄9年(1566年) 真田信繁 永禄10年(1567年)
伊達政宗 永禄10年8月3日(1567年9月5日) 徳川秀忠 天正7年4月7日(1579年5月2日)
関ケ原の戦い 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
つまり関ケ原の戦いが勃発し、その後昌幸と信繁が九度山に幽閉された1600年の年、徳川家康は57歳、真田昌幸は53歳、上杉景勝は44歳、石田三成と直江兼続は40歳、大谷吉継は35歳、真田信之は34歳、真田信繁と伊達政宗は33歳、徳川秀忠は21歳でした。
生き年生ける物はすべからく、明日何が起こるか分からないものです。
ですが毎日同じ勤め先に働く現代人は、明日と言う日が当たり前のように訪れると思いこんでいます。
ですが戦国の時代は、文字通りリアルに明日はどうなるか分からない時代でした。
しかし明日をも知れる戦国時代をただただ生き抜くために戦った戦国武将は、いかなる窮地に立とうとも、今を生き抜くことで明日へと命を繋ごうとしたのです。
家康からの死の宣告を免れ、九度山へと向かった昌幸は、それまでの生涯を通して、数々の窮地を知恵と度胸で生き抜いて来ました。
昌幸の末路を知る私達は、流罪を言い渡されて以後、戦国武将としての翼を捥がれ、失意の中で九度山へと向かったと思い込みがちです。
ですが果たしてそうなのでしょうか?
昌幸は関ケ原では戦いませんでした。ですがそれ以前、今正に天下を取ろうとする徳川家康の従える徳川軍に対し、小さな小さな領地である上田において2度に渡って撃破したのです。
石田三成の挙兵を知った昌幸は、犬伏において信之・信繁と共にこの先真田が生き残るためにどう動くべきかを語り合い、徳川と豊臣に別れる事を決めています。
つまり来たるべき未来が豊臣の世であろうと徳川の世であろうとも、真田は生き残れるのです。
結果的に昌幸らは九度山での幽閉となりますが、それは徳川方についた信之による助命嘆願により、死を免れての旅立ちでした。
恐らく昌幸は、全ての大名が恐れる家康に対して信之が、父と弟を救うために物申すことができたという信之の成長を窮地にあっても喜んでいたに違いありません。
加えて文頭で示したように天下を取った家康は57歳、昌幸よりも4つも年上です。 第二次上田合戦において家康の嫡男:秀忠との戦いを通して、昌幸は徳川の次世代は恐れるに足らずと確信したはずです。
であるならば、家康が遠からず死去した場合には、いつでも九度山を抜け出て徳川に挑む機会は必ずあると思っていたのではないでしょうか?
人生50年と言われた時代に既に53歳となった昌幸にとって九度山での日々は、苦難に満ちたものであったでしょうが、昌幸以上に年を重ねた家康を思う時、苦しくとも明日を諦めた日々ではなかったはずです。
そして仮に自らが再び戦場に立つ機会の無いまま死を迎えることがあったとしても、優れた武将となった信繁と信之がいれば、この後真田が徳川に報いる時は必ず訪れると思っていたでしょう。
少なくとも自らの命の終りを悟る直前までは。
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2016年09月23日
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