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〜真田丸:真田信繁らの生活苦を支えた真田紐とその経済効果などについて〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第39回放送『歳月』では、九度山で幽閉生活をする信繁のもとに徳川秀次が自刃したおりに、信繁の側室とすることで秀吉から命を救い、ルソンへと逃がした秀次の正室の娘:たかが九度山に幽閉されていた信繁の前に現れます。
その際信繁は、たかが手土産として持ち込んだ品々の中の紐に興味を持ちます。
信繁がその紐を手にもってじっくりと見ていると、
たかは「それは、ネーパラの紐ね。」と説明します。
すると春が「(その国は)何処にあるんですか?」と尋ね、
たかは「天竺の北の方らしいね、サナールって言うんだけど、すっごく頑丈なの。なぜかって言うと、伸び縮みしないから。」と答えます。
たかの答えに春も紐に興味を持ったのか、
たかの言葉を復唱するように「サナール紐?」と声を出しますが、
たかがすかさず「紐付けない。サナールが紐っていう意味だから、サナール紐って言ったら、紐々になっちゃうよ。」と正します。
この後信繁はその紐が上田の紬(つむぎ)と同じような織り方になっていることに気づきます。
そこから信繁はサナールと上田の紬の折り方からヒントを得た真田紐を考案し、春ときりにその試作品を織ってもらいます。
その後信繁は村人らを呼んで真田紐について説明し、その販売権を村人らに譲る代わりに、手付けとして五貫売り上げの一部を信繁に渡す事と、真田紐という名を必ず使うという条件を付けます。
ちなみに貫というのは当時の重さの単位で、1貫は3.75 kgで、銭の単位として言う場合は、正確には1貫文と言います。
つまり信繁は重さ5貫分の金銭を手付けとして要求したのですが、それは寛永通宝で5000枚だそうで、江戸時代の「1貫文」・・・今の通貨でどのくらいの価値が ...によれば、1609年 金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)であり、現代で言うなら金1両は10万円に相当するそうです。
ということは、信繁は手付金として12万5千円を要求したのですね。あくまでもドラマ上のことですが・・・・。
そしてその手付金で鯛や惣菜、酒などを買って、家族団らんの食事を久々に満喫したシーンも描かれていましたね。
さて本題の真田紐についてですが、たかの持ち込んだ紐の名:サナールは、チベット周辺で「紐」を意味する言葉だとされ、真田紐という名の語源とも考えられていますが、通説としては信繁の父:昌幸が刀の柄(つか)に巻いていたことからそう呼ばれたとされ、他にも幅の広い織紐を狭織(さのはた)と呼んでいたことから「さのはた」が転じて「さなだ」となったという説もあるそうです。
で、たかはサナールをネーパラの紐と言いましたが、それは今で言うどの国を示すのでしょう?
ネパール - Wikipediaによれば、
ネパールは中世の4世紀 からインド・アーリヤ語派の王族によるネーパーラ王国リッチャヴィ朝が成立し、9世紀となってデーヴァ朝が興るまでチベットとの文化的、経済的、政治的面において密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄したそうです。
ネパールの言語って、何語ですか? - 公用語は ...- Yahoo! …によれば、現在ネパール公用語はネパール語(ネパリ)ですが、民族ごとに違う言葉を使うようで、南側はインドアーリア語、北側はチベットビルマ語とされていますが、中世のネーパーラ王国ではチベットと密接な関係があったことから、チベットの言語で紐を意味する「サナール」という言葉がネパールで使われていてもおかしくないですよね、でも当時のネパールの国名は、ネーパラではなくネーパーラなんですね。
信繁らの九度山での生活の困窮振りは、「借金が多く暮らしが立ち行かないため、残りの20両を早く送って欲しい」という昌幸の国元への手紙や、「恥ずかしながらこの壺に焼酎を目一杯詰めて目張りして送って欲しい」という信繁の手紙が現存しており、その手紙はまさに九度山での困窮ぶりを如実に表していると言えます。
そしてその経済的な窮地に幾ばくかの救いとなる収入源となったのが真田紐だったのですが、
真田紐は九度山での真田一族の生計を支え、さらに行商人などを通じて諸国の情勢を探る役目も果たしていたのが「真田紐」で、商人に扮した忍びの者が、スパイのような役割を果たしていたのでは? とも言われることもあります。
真田紐は当時、葛籠(つづら)や桐箱に巻いて結ぶなどの実用のほか、戦のときは刀の下げ緒、鎧や兜などの装着にも使われた。戦場で屍となったときにも、身に着けた真田紐でどこの家の者かを判別することができたと言います。 また、戦国時代から京都で「真田紐」をつくり続けている「真田紐師 江南」15代目の和田伊三男さんのお話しによれば、 放映中の『真田丸』のほか、今月公開の映画『真田十勇士』でも真田紐の時代考証を和田伊三男さんは担当されているそうで、 放映後はドラマファンのお客様はもちろん、真田ゆかりの忍者の末裔の方が訪ねて来られるなど、さまざまな交流が生まれているそうです。 真田紐のルーツではないかとされているネパールの「サナール紐」は、チベットなどから船で運ばれ、日本で広まったのではないかとのこと。ただし、ネパールのものは牛などの獣毛製だが、日本の真田紐の多くは木綿からつくられているとか。 「真田紐はいわゆる組紐とは違い、“組む”のではなく“織る”のが特長です。最狭で6mm程度で、おそらく世界で最も幅の狭い織物だといえます。伸びにくく丈夫なので、石などの重いものを吊り下げたり、しっかりとものを縛ることに向いています。 当時の真田紐はまさに生活に密着した実用品だったのです。
茶の湯で道具を入れる桐箱を結んだり、和服の帯締めや腰紐といった伝統的な用途のほか、現代においても、カメラのネックストラップ、ペットの首輪やリード、自転車のハンドルに巻くなど多様なシーンで使われているという。 真田紐は、たて糸を通常の倍以上で織るのが特徴で、一重織りと袋織りがあり、袋織りのほうがさらに分厚く丈夫になるそうです。 真ん中の櫛のような部分は竹筬(たけおさ)といい、現代ではもう製造されていない貴重なものだそうだ。この微細な隙間を糸が通ることで、たて糸の密度を一定にするなど多くの役割がある。美しい仕上がりに欠かせないパーツなのだとか。 さらに、和田さんによれば、「真田紐は秘密を守る暗号、現代でいうパスワード的な役目も果たしていたんですよ」とのことでビックリ。 例えば、茶の湯では道具を仕舞う桐箱に真田紐を結びますが、流派や所有者ごとにそれぞれオリジナルのものを使います。細かな配色は公にされていないので、真贋を見極めたり、中身のすり替えを防ぐために一役買っていたのです。表面からは見えない横糸に特徴的な色を入れておくなど、いろいろなやり方があり、結び方も、一度解くと同じようにできない特殊な方法を工夫したりもするそうで、長い間謎の多かった紐なのだとか。 そして真田紐は当然真田昌幸の甲冑にも使われ、現在上田で展示されているという、昌幸の甲冑には、 手首と足首に巻かれています。 戦場から生きて帰還した甲冑は縁起がいいので、家臣に与えたようです。
上田で展示されている昌幸の甲冑は、実際に昌幸が使用したものなので、泥だらけ、傷だらけとなっていたはずで、当然真田紐も汚れていたはずですので、この甲冑の真田紐は後に付け替えたものではないか?と言われています。
手首と足首に巻いてあるものは、当時のいわゆるスタンダードな柄。 一方、前垂れとコテの縁部分にも、パイピングテープのような要領で真田紐が縫い付けてあります。こちらは簡単に取り外せないこともあり、当時のものである可能性が高いそうで、
『渋松葉』という深いグリーンの真田紐なのですが、昌幸が好んだ色だったのではないかと推測されているそうです。
上から、「松葉」「渋松葉」「萌黄」の真田紐。いずれも、縁起の良い松葉の色を表している。「松葉」は深みのある青緑色、「萌黄」は春先に萌え出るやわらかな萌黄。そして、昌幸が好んだ(かもしれない)といわれる「渋松葉」は年月が経過し、渋みを増した松葉色のことだ。ドラマのなかの昌幸のイメージにも、まさにぴったりですよね!? 長寿の象徴でもある松葉色は、戦に赴くとき、身に着けることで士気を高めてくれたのかもしれません。
さらに、信繁が愛用していたのは紺色の真田紐だったのでは?という説もあるそうです。 こちらは、信繁使用の馬具(京都の豊国神社所蔵)の資料写真。なるほど太い紺色の真田紐が使われている。ただし、この馬具は祖父の代から真田家にあったものを信繁が譲り受けた可能性が高く、どの時点で着けられた真田紐かははっきりとはわからないそう。
ちなみに、真田=赤というイメージが強いようですが、甲冑などの装備をすべて燃えるような赤で統一したのは、実は「大阪の陣」からです。 このように、刀を何者かに奪われないよう、身体に結わえる役割も果たしていた。また、敵に襲いかかられた際に、真田紐で敵の刀を受け止め、なおかつ紐で絡めとって奪い取る……といった技もあるという(おもに、忍びの者が使うことの多い技とのこと)。
これは、和田さんの祖先(佐々木六角という戦国大名の家臣)が信長と戦ったときの刀だそう。柄に「浪人結び」という結び方で、真田紐が巻かれている。「大名結び」ともいわれ、見映えはするが実践には向かないので、実際には刀を抜くことがない立場の者がこの結び方をすることが多かったという。
裏側を見ると、血判状に自らの指を切って血で拇印を押すための小刀が装着されていました。 |
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2016年10月04日
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