|
〜真田丸:佐助が九度山に訪れた信之に見せたのは猛毒のテングタケの絵?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸
今回は、『NHK大河ドラマ 真田丸』のストーリーとは接関係のないお話と言えるかもしれません。
ですがある意味重要な事柄だと言えるかもしれません。
折りしも今の季節は秋だから。
前回のページでご紹介したように、『NHK大河ドラマ 真田丸』第39回放送『歳月』では、番組の冒頭から信之が九度山に訪れたおりの信繁らの対応が描かれました。
その折佐助は、信之に近隣で見つけたキノコの墨絵を見せます。
見せられた信之は少し驚き、傍らにいた矢沢三十郎は、異常なほどにその絵に食いつき、言葉こそ発しなかったものの、目を丸くして見入り、なにやら絵について言いたげな様子です。
いったい信之と三十郎は、佐助の絵の何に驚いたのでしょう?
とんでもなく上手な絵だったからでしょうか?
いいえ、私はそうは思いません。
第39回放送『歳月』の放送を録画した方は佐助の描いたキノコの墨絵を確認して頂きたいと思うのですが、私の見た所、佐助の描いたキノコは、墨絵だけにその色までは分かりませんが、どう見ても猛毒をもつテングタケの一種としか見えないのです。
恐らく少なくとも三十郎は、そのキノコが猛毒のキノコだということを知っていたのではないでしょうか?
たかが大河ドラマの一場面の中のほんの一部に映し出された絵だというのに、こだわり過ぎでしょうか?
その判断は、以下の記述から当ブログにご訪問頂いた皆さんにご判断頂くこととしましょう。
論より証拠として、まずはテングタケ科に属するキノコの画像をごらんください。
ベニテングタケ
テングタケの仲間
コタマゴテングタケ
タマゴテングタケ
テングタケ タマゴタケ
どうです、佐助の描いたキノコはこれらの内のどれかだとは思いませんか?
ところで、テングタケの別名にはヒョウタケ(豹茸)、ハエトリタケ(蠅取茸)があります。
(一言:毒の成分がうまみ成分とは驚きですよね。キノコ側からすれば、自らを食べようとする敵動物から身を守るために毒を有しているという消極的な戦略ではなく、旨み成分で積極的に敵動物をおびき寄せ、身を呈して外敵を駆除しようとする戦略なのでしょうか?)
テングタケ科の中でも、タマゴテングタケは特に特に猛毒のキノコです。
しかも猛毒御三家(タマゴテングタケ、ドクツルタケ、シロタマゴテングタケ)と呼ばれるうちでもリーダー格だそうだ。
どれほど猛毒かと言うと・・・『中毒症状は2段階に分けて起こる。まず食後24時間程度でコレラの様な激しい嘔吐・下痢・腹痛。その後、小康状態となり、回復したかに見えるが、数日後、肝臓と腎臓等内臓の細胞が破壊されて最悪の場合死に至ります。
古くから知られている毒キノコであるため、その毒素成分(キノコ毒)の研究も進んでおり、アマトキシン類、ファロトキシン類、ビロトキシン類などがその毒素であることが明らかにされています。
これらは8つのアミノ酸が環状になった環状ペプチドであり、タマゴテングタケの毒性はこのうち主にアマトキシン (amanitatoxin) 類によると考えられているそうです。
毒性はα-amanitinw で、マウス (LD50) 0.3mg/kg。アマニチン (amanitin) は消化管からの吸収が早く、1時間程度で肝細胞に取り込まれます。
アマトキシン類はこれらのキノコ毒の中では遅効性(15時間くらいから作用が現れる)ですが毒性は強く、タマゴテングタケの幼菌1つにヒトの致死量に相当するアマトキシン類が含有されているそうです。アマトキシンはヒトの細胞においてDNAからmRNAの転写を阻害する作用を持ち、これによってタンパク質の合成を妨げ、体組織、特に肝臓や腎臓などを形成する個々の細胞そのものを死に至らしめることが、このキノコ毒の毒性につながっている。』(Wikipediaより)
ただし幸いなことに、近年の日本ではめったに見られないそうです。
これだけ特徴的な姿をしているテングタケ科のキノコを、キノコ狩りで間違えて採取し、誤って食すことなど普通はないと思えます。
ところがです、同じテングタケ科の種の中に、タマゴタケというキノコがあるそうです。
困ったことにこのタマゴタケは無毒であるどころか、一度食べたら忘れられないほどの美味だそうです。
上にご紹介した画像の内、最後のものがその画像です。
その画像を見る限り、ベニテングタケに似しているとも思えます
タマゴタケをまた食べたいと思う人は、誤ってこれを食す可能性はないとは言えません。
もしも皆さんが佐助のような忍者の真似事をして山に入り、紹介した特徴を持つキノコを見つけても、決して食べようなどとは考えないでくださいね。
実は私、山登りばかりをしていた若かりし頃、キノコに関する知識も無いくせに、毒のあるツキヨタケを大峰山で採取し、食したことがあるのです。
それはもう嘔吐と下痢を繰り返し、大変な目にあいました。
おバカですね。 さて、テングタケ科の学名phalloidesの意味は「男根 (phallus) に似た (-oides) 」です。
それは文字通りの意味なのでしょうか?それともPhallus(スッポンタケ属)に似ているという意味なのでしょうか?それがなぜかはっきりしないそうです。
私が思うに、テングタケ類は軸部に柄があるという構造上の特徴があります。
そしてテングタケ類が地面から顔を出した直後の姿は、この柄から卵型の笠となる部分が開いていない状態で突き出ています。
なのでこの時期の状態が特に男根的に見えたりすることから、phalloidesという学名がついたのかもしれませんね。以下のように。
以下の3枚目の画像はまんまですよね。
文末において図らずも下ネタ的な記述となったこと、女性の方には大変申し訳なく思います。
笠部がまだ開いていないタマゴテングタケ
笠部がまだ開いていないタマゴタケ
これはテングタケ科のキノコではないかもしれません。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2016年10月05日
全1ページ
[1]
|
〜真田丸:信之が九度山に出向き、信繁らに会ったという事実は無かった〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第39回放送『歳月』では兄:信之が訪れ、九度山で暮らす信繁の家族は揃って信之を出迎え、幽閉生活を送る信繁らと久々の対面を果たし、既に亡くなっている父:昌幸の霊前で御霊を弔います。
そして犬伏の別れ以後の信繁と信之両家のその後についてのそれぞれの暮らしぶりなどを報告しあいます。本音を隠したままの、兄に対する気休め的な。
信之:「父上が亡くなったこともあり、少しでも早くご赦免いただけるよう、これからも・・・・・うん?」
信之が言葉の途中で言葉を止めたのは、囲炉裏を挟んで向かいに座る信繁と春が、目くばせをしあっていたからです。
信繁:「兄上のお気持ちは嬉しいのですが、これだけ長く居ますと、今の暮らしに何の不満もなくなってしまいました。」
信之:「わしを気遣って、そう言っておるのだな。」
信繁は首を小刻みに顔を左右に振りながら答えます。
信繁:「いえーーっ。」
信之:「うん?皆もそうなのか?」
春:「旦那様といる間が多いので、ここに来られて本当に良かったと思おております。」
きり:「村の人たちに縫物を教えたりしてかなり満ち足りているのですよ、これが。」 佐助:「森で見つけたキノコです。」
(一言:この時佐助は、信之に見つけたキノコの墨絵を見せます。墨絵なのでそのキノコの色まではわからないのですが、・・・・・これについては次回のページで特別編として記したいと思います。)
信繁:「梅と大助に至っては、ここでの暮らししか知らないわけで、無理して上田に戻らずとも・・・・・。」 信之:「しかし、ここで一生暮らすというのは・・・・。どうなんだ大助、信濃や京、大坂に行ってみたいとは思わぬのか?」
大助は叔父の言葉に答えず黙ったままです。
きり:「こっちはこっちで何とかやっていますんで、心配されることもないと思いますよ。」
皆が口を揃えてそういうのだら、信之としてはこの件についてはひとまず納得せさるおえません。
そこで次に尋ねたのが高梨内記のことです。
信之:「内記はどうしている?」 この後信繁は、昌幸が亡くなった後に、きりの父:高梨内記が切腹しようとしたエピソードなどを信幸に語り、信之は真田の領内での苦労話を語りますが、戦場よりもこうした領地での地道な職務が性分にあっているようだと語りました。
夜になると信繁と信之は囲炉裏を前に兄弟濁酒(どぶろく)を酌み交わし、親として子供の事を語り、話は二人の父:昌幸との思い出話に及びます。
信繁:「お子達は息才にしていますか?」
信之:「あーっ、中々逞{たくま}しくそだっておる。大助は少々おとなし過ぎはせぬか?」
信繁:「私は子を育てるということが、どういうことかよくわかっておりません。」
信之:「父上という手本がああったではないか。」
信繁:「私はほったらかしでした。」
信之:「何を言うか、あれほどお前は父上に愛されておったのに。」
信繁:「(父が)愛しておられたのは兄上です。」
信之:「幼い頃は、わしは叱られてばかりであった。」 信繁:「愛されていた証です。」
信之:「大人になってからは、事有るごとにお前は面白くないと言われ、事が起きた時には、いつも蚊帳(かや)の外だ。」
信繁:「兄上に何かあっては困るからです。そんな兄上が羨ましかた。」
ここで矢沢三十郎が口を挟みます。そうです、兄弟水入らずの会話ではなかったのです。
三十郎:「私に言わせれば、大殿は、どちらも愛しておられたと思いますよ。大殿は、大殿なりにお二人を育て上げ、お二人とも立派にお育ちになられた。大殿が立派な父親であったかは、何とも言えませんがね。」
信繁:「口が過ぎるぞ。」 三十郎:「「失礼しました。」 信之:「子育ては人それぞれ、自分に有ったやり方をみつけるしかないのかもしれんな。」
親と子についての話はこれで終り、信繁は兄に対してここから本当の本音(弱音)を語り出します。
信繁:「兄上、一つお願い事があるのですが・・・・・。」
信之:「申してみよ。」
信繁:「ここでの暮らし、何の不自由もないと申しましたが、あれは嘘です。借金がかさみ、かなり暮らしはきついです。」
信之:「仕送りが足らぬか?浅野家からもお手当があると聞いておるが・・・・。」 信繁:「父上が生きておられる間は、みじめな思いをさせぬよう、暮らしぶりだけは無理をしてきました。」
信之:「そうであったか。」 信繁:「そのつけが回って来ました。きりは北政所様の世話をしていた腕を生かして村で縫物を教え、佐助も若い衆を相手に、忍びの小技を指南して小遣い稼ぎを、しかし焼石に水。」
信之:「わかった、なんとかしよう。」 信繁:「こんな事をお願いして申し訳ありません。」
信之:「これ以上、ひもじい思いはさせん。」
信繁:「にさん日泊まってゆかれますか?」
信之:「明日の朝発つ。急ぎ、京へ上らねばならんのだ。北政所様に取り次いでくれる者を、三十郎が見つけてくれてのう。」 信繁:「どうかその件はお忘れください。」
信之:「やらせてくれ。いつになるかは分からんが、また皆で暮らすのは、私の願いなのだ。」
こうした信之の温かい言葉に、信繁は黙ったまま、しかし心から頭を下げます。 ということで、九度山で暮らす信繁らは、9万5千石の立派な大名となった信之を前に気遣い、信之も弟たちの暮らしを気遣い、互いに思いやりを持って語り合いながらも、別れ際には本音で話す事もできたという、心温まる真田家の家族愛が描かれました。
ですが実際はそうではないようです。
1611(慶長16)年6月4日、真田昌幸が九度山にて逝去。65才。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/function-reinforcement/text-head-marker-img/thm-s-img/thm-s-02-go1.gifこの時、兄信之は昌幸を弔おうことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得されてやめました。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/function-reinforcement/text-head-marker-img/thm-s-img/thm-s-02-go1.gif昌幸が亡くなった翌年の1612(慶長17)年、昌幸の家臣は一周忌をすませ、少数の家臣を信繁(幸村)のもとに残し九度山から信之がいる上田へ帰りました。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/function-reinforcement/text-head-marker-img/thm-s-img/thm-s-02-go1.gif1612(慶長17)年、信繁(幸村)は出家して「好白」を名乗り始めました。
と紹介されています。
つまり信之はその思いとは裏腹に幽閉生活をおくる信繁らのもとへに訪れることも叶わず、約11年間を信繁と共に九度山で過ごした家臣たちも、昌幸の一周忌をすませると、ほとんどが信之がいる上田へと帰ってしまいます。
この時の信繁の思いはどのようなものだったでしょう?
勇猛だった父が無念の思いを残したままこの世を去り、家臣たちの多くが信繁を九度山に残して去って行った時、恐らく信繁の胸に去来するものは、惨めさと寂しさと、口惜しさの入りまじった絶望感でいっぱいだったに違いありません。だからこそ出家して「好白」と名乗った。
そんな中、思いがけず信繁の屋敷に現れたのが、大坂へ是非来て頂きたいという豊臣家からの使者だったのです。
それは再び徳川との一戦を予期しての信繁に対する招集依頼でした。
これまで父:昌幸のもとでの働きはあったものの、自らの武勇を示す機会すらなかった信繁にとって、例えその先に死が待っていたとしても、戦国武将としての最後の花を咲かせてみたいと思うことは、極めて必然的な思考だと思えます。
我が和歌山の地を早くも離れる信繁のドラマ展開には寂しさを覚えますが・・・・・・。
さあ決戦の地:大坂へ行くがいい信繁よ!真田幸村となって!
|

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組
全1ページ
[1]







