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『NHK大河ドラマ 真田丸』第39回放送『歳月』では、宇喜多秀家のもと家臣:明石 全登(あかし てるずみ) が九度山の真田屋敷に訪れ、「左衛門助様をお迎えに参りました。」というシーンで締めくくられました。
全登は言うまでもなく、豊臣家と徳川家との最終決戦を前にして、豊臣家が信繁に対して参陣を促すための使者でした。
ではなぜ信繁に対する大阪城への招集は1613年だったのでしょう?
言い方を変えれば、家康による豊臣家に対する最終決戦の動きがなぜ1613年に開始されたのでしょう?
その答えを簡単に言ってしまえば
1. 秀頼が周囲も認める豊臣家の当主に成長した。
2. 豊臣家を支える土台に陰りが生じた。
3. 海外からの日本に対する開国圧力(外圧)がこれまでになく高まった。
4. 徳川家内部に家督をめぐって亀裂が生じた。
5. 幽閉地である九度山も領地である紀州藩の藩主:浅野幸長が病死した。
という5つの要素が重なった結果、最晩年期にあった家康は、国内統一を急いだ。と、言えるのではないでしょうか。
ただ、これら5つの要素の概略的な内容は、あまりに具体性に欠けていて、ご理解していただけないでしょう。
なのでもっと具体的な記述をご紹介しましょう。
まず1.についてですが、
第39回放送『昌幸』でも描かれたように、秀吉亡き後の豊臣家の当主となった秀頼は、1611年3月に二条城において徳川家康との対面を果たします。
そしてこの会見の意義については、歴史家の間でも見解が分かれ、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあります。
ですがこの会見はたとえ家康がこの会見を豊臣家の徳川家への臣従を誓わせる意図があったとしても、豊臣家にしてみれば、家康の意図を承知した上でのものではなかったと思えます。
ウィキペディアによると、二条城での家康と秀頼の会見は当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽斎を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり、慶長16年(1611年)4月12日に西国大名らに対し三か条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれます。
ですが、どうなんでしょうね。天下統一が概ね成ったのなら、大坂の陣に動く必要はなかったのではないでしょうか。成っていないから豊臣を滅ぼしにかかったと私は思います。 2.の件についてはこうです。
関ケ原の戦い以前には、北政所(寧)や淀殿も、家康に対してむしろ好意的だったと思われます。
それは石田三成襲撃時家の後、家康は三成を討とうとする武闘派の加藤清正や福島正則らの決起を抑え、仲介に動いたことは以前ご紹介しました。そのおり、清正らの気を静めるために、三成は五奉行筆頭の座を奪われ、失脚しましたが、三成は家康が会津征伐に出陣した隙をついて内府ちかひの条々を諸大名に送り、味方となる大名を集結し、関ケ原の戦いに臨みました。
合戦の後、家康は合戦の責任を豊臣家に向けるのではなく、石田三成、宇喜多秀家らのごく少数の者を首謀者として断罪しました。
このことで、北政所(寧)や淀殿らは、家康は豊臣に敵意なしと思ったのかもしれません。
家康もまたこれに習ったのです。豊臣家存続のまま秀頼を担ぎ上げ、天下を手中にしようと。
しかし家康はその後征夷大将軍となり、次にその座を秀忠に譲ることで徳川が政権を担うことを世に知らしめたことで、家康の思惑に豊臣方も漸く気づきます。
つまり豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより、次第に家康を警戒するようになったのです。
そこで豊臣家は、徳川家との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れる動きを見せます。
しかしこの豊臣家の動きが、天下に乱をもたらす準備であるとして、今度は幕府側(徳川方)の豊臣方に対する警戒を強める(or早める)結果となります。
そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていったのです。
家康、いや徳川にとっての政権独占の好機は、ここに整ったのです。
3.の件についてですが、
秀頼と家康が二条城で会見した同年(1611年)、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セバスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。
これらの政策は家康が思うかたちで海外との接触を深めたと受け止められますが、海外の大国を知れば知るほど、キリスト教圏の大国などがいかに高度に進んだ文化と軍事力を持っているかを思い知らされたに違いありません。
そして家康は思うのです。「禁教としたキリシタンの動向は無視できない存在だ。小さな島国の派遣争いをいつまでも続けている場合ではない。一刻も早く、日本を完全なる徳川の国としなければならぬ、でなければ、いずれ先進国の属国となってしまう。」と。
4.の件については、徳川家内の内的要因です。
この頃の徳川家には内部問題として将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していました。
この対立を最晩年の家康が大御所として目の当たりにした時、家康はこう思ったかもしれません。
「万が一徳川家が分裂することも有り得なくはない。そうなって徳川家が弱体化し、その時我が身もこの世に無かったなら、あの見事な秀吉の後継者:秀頼がいたのでは、諸大名らの人心は、再び豊臣になびきかねない。一刻も早く豊臣を無きものとしなければ」と。
5.の件については危機にひんした豊臣家からの要請を受けた信繁側の環境変化です。
「真田父子には監視役もつけられたのだが、それは紀州藩(のちの和歌山藩)の藩主である浅野幸長(よしなが)が担った。だが幸長は真田父子に敬意を示したのか、多少のことには目を瞑り、また屋敷を立てる際などには資金援助なども行った。もし監視役が浅野幸長でなければ、真田父子はもっと苦しい生活を強いられていたかもしれない。」と記されています。
昌幸の夫人である寒松院(信之と信繁の生母)が逝去して大輪寺に葬られた1613(慶長18)年
の8月、和歌山藩である浅野幸長が38才で病死しました。
ちなみに浅野幸長(よしなが)は石田三成と同様に五奉行の筆頭となったことのある浅野長政の嫡男でした。
そして真田氏の理解者だった幸長に変わって、その弟の浅野長晟(あさの ながあきら)が家康の特命により和歌山藩主となります。これは、幸長に嫡子がいなかったためですが、これ以後は真田氏に対する監視は厳しくなったものと思われます。
嫡子のいない浅野家の存続が認められ藩主となった長晟は、家康の恩に報いるためにも、家康の意向を酌み、信繁に不穏な動きをさせてはならぬと。
この時の信繁は父ばかりでなく母までも他界し、ままならぬ幽閉の日々の中で老いて行くだけの己の身の上に忸怩(じくじ)たる思いがつのるばかりだったはずです。 この家康が長晟を特命により浅野家の後継としたのは、豊臣打倒を決意した時に豊臣方に信繁が要請されて加わることを強く恐れ、それを阻止するための先手だったとも思われます。
そこへ徳川の脅威を強く感じ始めていた豊臣家からの使者が信繁の前に現れ、来たるべき最終決戦のために是非にと望まれたのです。
信繁がこの誘いを受けないはずはありませんよね。
かくして家康・豊臣家・真田信繁の三者の思いが、ある意味決戦前夜の予感を共有することが出来た年、それが1613年だったのです。
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2016年10月08日
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