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〜真田丸:ドラマのキャラとは異なり血筋も栄誉も一級の片桐且元がなぜ〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第40回放送『幸村』では、幽閉生活をおくる信繁の前に現れた片桐且元の語る言葉で、家康により豊臣家が窮地に追いやられて行く経過が語られました。
それはまた、且元自身が家康により貶(おとし)められてゆく経過でもありました。
もちろん片桐且元が豊臣家を離れ、九度山に現れたという歴史はあるはずもありません。
ですが且元が信繁の前に現れたとすることで、彼の口を借りて豊臣家のその後を主人公の存在を消すことなくドラマ上に展開させたのです。
そもそも片桐家の血筋は信濃源氏の名族でした。
且元の父:直貞の代から戦国大名化した浅井氏に仕えるようになります。
浅井氏の本拠地・小谷城の南側の斜面にある須賀谷には、浅井家家臣の館が立ち並んでいたようで、その中に片桐氏の館もあり、小谷城の支城の一つとして機能するとともに、温泉が湧出するために湯治場としても利用されていたそうです。
しかし元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落し、17歳の且元は幼き頃の浅井三姉妹(茶々、初、江)や大野治長兄弟らと共に、落城を経験したようです。
そしてこの時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に3千石を与えられました。
つまり且元のサクセスストーリーがここから始まったのです。
少なくともこの頃までは、『大河ドラマ 真田丸』で描かれているような気弱で、自らの信念を通すことが出来ないような不甲斐ない武将ではないように思われます。
にもかかわらず、ドラマ上にあのようなキャラクターとして且元を描いたのは、家康の策略によって大阪冬の陣を前に豊臣家を離れ、心ならずも?徳川家の家臣となり、豊臣家を滅ぼすことにも加担した武将に対して、三谷さんは決して本意で裏切り行為を行ったのではなかったと考え、賤ヶ岳の七本槍のひとりという猛将のイメージとは裏腹に、精神的な弱さも併せ持っていたからという設定のもとに、片桐且元という武将の人物像を象徴的に具現化したのでしょう。
天正12年の羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた小牧・長久手の戦いに従軍し、陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として150人を率いて本陣を守っていたと考えられます。
そんな絶頂期の年、方広寺大仏殿の建設で作事奉行を務めますが、その完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により大仏殿は倒壊を免れたにもかかわらず、大仏は倒壊し、秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられます。
天下人として驕り高ぶっていた秀吉のことですから、大仏倒壊に対する怒りは、作業奉行であった且元にも当然向けられ、激しく叱咤(しった)されたに違いありません。
且元にとって最初の大きな失点です。
そして且元の人生は、この方広寺の大仏の倒壊から狂い始めます。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)には秀吉は他界すると、家康の台頭により関ケ原の戦いを経て石田三成・大谷吉継らもこの世も去り、秀頼を当主とする豊臣家の立場が貶められて行く中、気がつけば豊臣家の中枢に残る小谷城以来の重臣は、且元だけになってしまいます。
それでも且元は引き続き秀頼の側近として豊臣家に仕え、慶長4年(1599年)に再び、豊臣秀頼は木方広寺大仏(銅造)の復興を図ります。
ところが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰します。
慶長13年(1608年)より大仏殿の再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成しますが、
第40回放送『幸村』で描かれたように、慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった時、家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じます。
上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる方広寺鐘銘事件が起こり、且元は家康に図られて豊臣家を去るととになったのです。
そこで本題ですが、片桐且元の豊臣から徳川への裏切りは、どのような力学が働いた結果の出来事だったのでしょう?
そして且元は、三谷さんが描くような人物像だったと思っていいのでしょうか?
大坂の陣の前後で、何を思って生きたのでしょうか?
豊臣家の重臣であったにもかかわらず、その居場所を追われ、敵方の武将として生きなければならなかった戦国武将の思いを現代人が推し量ることは簡単ではありません。
なので家康に貶められた後の且元について記す本ページに続くお話は、次回とします。
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2016年10月11日
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