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〜真田丸:家康に裏切者にされ、淀殿に知恵無しと罵られた?片桐且元は〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第40回放送『幸村』では、片桐且元によって語られる豊臣家の窮地に追いやられる様子が描かれ、それが本編の主要内容となっていました。
そこで本題ですが、片桐且元の豊臣から徳川への裏切りは、どのような力学が働いた結果の出来事だったのでしょう?
そして且元は、三谷さんが描くような人物像だったと思っていいのでしょうか?
大坂の陣の前後で、何を思って生きたのでしょうか?
これが前ページからの課題でした。
徳川家康は秀吉が他界し、関ケ原の戦いで勝利した当初、幼かった秀頼を当主とした豊臣家などもはや恐れるに足らない存在として、あえて逆臣の汚名を追いかねないリスクを冒してまでも豊臣家を滅ぼす必要もないと考え、実質的には征夷大将軍を世襲して行くことで政権の掌握は徳川家が担い、前政権の豊臣家はお飾り的な存在として残すつもりでいました。
ところが、関ケ原の戦いから13年の歳月を経て成長した秀頼に二条城で会見した家康は、自身の思惑に反して非凡な威厳を身にまとう秀頼の姿を目の前にし、改めて自身の老いと徳川家内にある三代将軍の座を巡る家督争いを顧みた時、強い危機感を覚えます。
「何とかしなければ。」と。
ちなみに追善供養とは、生きている人が亡くなった人に対して行う供養のことです。
故人の命日に法事を行い、冥福を祈って供養することをいい、追善の文字があらわすように、生きている人が行う善行を持って、亡くなった人の善行になる、それがまた自分に戻ってくるという考え方です。 これについては第40回放送『幸村』でも描かれましたよね。
ドラマでは家康が片桐且元に対して
「死者の供養こそが生き残った者の務めでござる。方広寺はもとより、京・大坂の寺社の修復は、大いにおやりなされ。」ともっともらしい言葉で。
そしてこの家康の言葉を且元の話として聞いた信繁は、こう答えましたよね。
「読めました。家康公の目論見は、大阪城に蓄えられている金銀を、秀頼公に使わせようというのでは?」と推察をのべました。
この考え方についてウィキペディアでは、
「これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が幕府に没収されている。」
と記されています。
現在ではどんどん簡略化されている仏(故人、使者)に対する供養としての法事は、田舎ではまだその風習が残っていますよね。
その行事を見ていくと初七日(本当は七日おきにあります)・四十九日(忌明け)・百日日・一周忌(満一年目)・三回忌(満二年目)・七回忌(満六年目)・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌((弔い上げ))となりますが、これは仏教が伝来する以前は神道の国であった日本ならではの独特の風習で、人は亡くなって後に親戚・縁者が仏(故人)を所定の回忌で弔うことで、仏は神へと昇格して行き、三十三回忌の弔い上げで生前の全ての罪が許され、神になるという意味合いがあるそうです。
秀吉は晩年、特に非道な処刑を罪なき人々に行いました。
その罪多き秀吉の供養を財などに拘ることなく弔うことで、豊臣家の安泰を淀殿や秀頼は願ったと言えます。
亡くなってから満16年目の17回忌は弔い上げとなる三十三回忌までのほぼ中間の供養として大きな意味合いがあります。
だからこそ淀殿と秀頼は、17回忌に向けて秀吉が亡くなってから16年目の慶長19年(1614年)3月には、方広寺大仏殿がほぼ完成し、秀頼の名において全国から鋳物師を集め、梵鐘(ぼんしょう)を完成させたのです。
豊臣家にとって極めて重要なこの事業にあたり、その筆頭となる奉行を任された片桐且元は、さぞや誇らしく思ったに違いありません。
実際にその梵鐘に刻まれた銘文には、自身の名も「片桐東市正豊臣且元」と刻み込んでいます。
しかし、且元の思いとは裏腹に、この銘文を口実とした家康によって、且元個人のみならず、豊臣家は窮地に追いやられてしまう結果となったのが、有名な方広寺鐘銘事件だったのです。
改めて言うまでもないのかもしれませんが、この事件は最初から家康があからさまに豊臣家を滅ぼそうとする明確な意思を持って動いた日本史上超有名な事件です。
家康はなぜ方広寺再建を豊臣を討つための口実として利用しようとしたのでしょう?
ご存じのように人の魂に係る寺院の再建には、政治・宗教など各分野から多くの人材が携わり、
願いや祈りを込めた銘文が梵鐘や棟札などに施されます。
一見しただけではその真の意味を理解しえないかたちでの銘文は、逆の言い方をすれば、その内容はどうにでも解釈できうるものです。
家康は、それを利用すれば豊臣の上げ足をとることなど、造作もないことと思っていたことでしょう。
梵鐘が完成した1614年4月から三ヶ月後の7月、徳川家の家臣:板倉勝重は、家康に対して再建された方広寺についての報告をし、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられます。
家康は直ちに以心崇伝(いしんすうでん)と本多正純を中心に調査を行わせ、板倉勝重により大仏開眼及び供養は、家康の命により延期が決定されます。
当然豊臣家にとっては寝耳に水の延期命令だったでしょう。
8月13日の夜、1ヶ月を経ても延期決定に対する反響が静まらない大坂城下から、且元、大野治長、清韓などが駿府へ派遣されます。
且元にとっては、何としても家康による延期決定を解かなければらないという決意を持っての出立だったはずです。
17日に鞠子宿にて清韓が駿府奉行に囚えられ、
8月18日に銘文に対して崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺及びその下位に属する京都五山の7人の僧侶に検証が命じられ 清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬とみなされ、更に林羅山より呪詛などと批難されたのです。
「国家安康」について五山の僧の各見解はこうです。
国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。
家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。
銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない。
何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。
銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。
銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。
こうして京都五山の見解を個別に見てみると、家康の存在に対しての恐れを感じての見解であることが容易に見てとることができ、必ずしも豊臣方の不備を一刀両断するもではなく、それどころか、豊臣家に対しても配慮した言い回しをしている寺があることがわかります。
19日に入府した且元は、崇伝らへの弁明に務めますが、家康との会見も無いままでした。
しかしドラマでも描かれたように、且元に対する態度とは真逆に、29日に駿府入りした大蔵卿局]は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われ、家臣の山本豊久は「騙(だま)し合い」と評します。
且元が家康との会見を拒否された半月ほど後の9月8日には、崇伝(臨済宗の僧)より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」と伝えられ、何の問題もなかったかのように9月12日には大坂への帰路につきます。
つまり家康は且元と大蔵卿局に対して真逆の対応をすることで、且元を陥(おとしい)れ、豊臣家の中枢に不協和音を生じさせたのです。
実際には徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝(臨済宗の僧)らに半ば言い含められたものかは不明だそうですが、
ドラマでは家康の不興を治めるための条件として家康から提示されたと且元が独断で考えた架空のものとして、3ヶ条を秀頼・淀殿・大蔵卿局らに
1.秀頼の駿府と江戸への参勤。
2.淀殿を江戸詰め(人質)とする。
3.秀頼が大坂城を出て他国に移る。
この中からひとつを早急に選ぶことを提案します。
秀頼や木村重成からこれを調停する動きがあったものの、28日に高野山に入るとして城を出ることを決め、秀頼側からも不忠者であることを理由に改易が決められてしまいます。
そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎを済ませると、10月1日に300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去した。
且元は自ら大坂城を出た限りは、もはや徳川を頼るほかはないと考え、貞隆の茨木城へ入り、徳川家臣の板倉勝重に援兵を要請します。
しかしこの日は、既に勝重から且元の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受け、家康は大坂の陣の宣戦布告をした日でした。
つまり家康の企みにより豊臣家から離脱する他はなかった且元が、やむにやまれず徳川を頼って救援を求めるより先に、家康は即断をもって豊臣家を滅ぼしにかかったのです。
これは家康にとってはお膳立てが揃えば直ちに実行に移すことを決めていたかねてからの決定事項だったのです。
そのことは、且元が方広寺大仏殿の再建に奔走していた当初より、駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っていたにもかかわらず、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていたために、家康は即座に片桐且元にあてて、開眼供養と大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じたことからもうかがえます。
ドラマ展開とは係わりのない出来事ではありますが、家康と朝廷及び豊臣家の間にあった対立については、次回のページで触れたいと思います。
天下を手中にしつつあった家康が、いかに驕った心境に至っていたかを知る上でも。
いずれにせよ家康の罠にはまり、長きに渡って仕えた豊臣家を追われるように離れた片桐且元は、生き残るためにやむなく徳川に救援を求めるも、それより先に家康は、豊臣家に対して戦線布告を行っていたことを知った且元は、恐らくここで初めて家康により豊臣家への攻撃を可能にするための道具として自身が利用されたことに気づいたと思えます。
豊臣家の安泰を願う方広寺再建という秀吉に対する供養の総指揮を任され、誇りをもって事にあたっていた且元のプライドは、木っ端微塵に打ち砕かれてしまったのです。
ここで且元は居直っって徳川に忠義を果たす気になったのでしょうか?
それとも、自暴自棄になって訳も分からず操られるままに徳川に仕えたのでしょうか?
その答えはまた、大坂の陣での且元の行動などを元に、今後のページで考えてみたいと思います。
それにしてもドラマの中で、家康の意向を汲んで嘘の報告をしたことについての弁明を秀頼、淀殿、大蔵卿局の前で求められ、大蔵卿局から3ヶ条について「あなたが考えたのですか?」と言われ、且元は「これは何かの策ではなかったのか。」と答えた時、その息子からは「徳川に寝返り、策を弄したのはお主ではないのか?」と追及された時、それを聞いていた淀殿が、「私は且元のことをよー知っておる。この者はそのようなことをする者ではありませんよ。且元にはそのような策を立てる度胸も知恵もない。悪く聞こえたらあいすまぬ。」と笑って言い捨てた淀殿の言葉は、何と酷い言葉でしょう。
演者の竹内結子が大嫌いになってしまいそうでした。
私がもしも且元の立場であったなら、その場で逆上し、豊臣家はここで滅んでいたかもしれません。
何てね。思うんですよ。マジで。
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2016年10月13日
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