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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:第41回放送『入場』では、マヌケ半蔵から逃れてジジイ姿で幸村は
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今日の『NHK大河ドラマ 真田丸』第41回放送『入場』では、信繁らが九度山を脱出し、大阪城へと入場するまでと、信之の後継が信吉に決まるまでが描かれました。

信吉は長男ですがおこうの子で、信政は次男ですが正室:稲の子です。
ドラマ上のおこうは信之と離縁して侍女となた身であるのに対し、信政は次男ですが正室:稲の子です。
ですが記録に残るおこうは側室です。
史実にしろドラマ上にしろ、以前より当ブログでは正室の子である信政が後継とならず、信吉が後継となったことを『NHK大河ドラマ 真田丸』ではどのようにして辻褄をあわせるのかについて着目していました。
まさか稲が信吉を推挙するとは思いませんでしたね。
それと、信吉がヘタレというのも三谷さんらしい脚本と言えるでしょうか。

九度山を脱出する頃の信繁は、記録によれば、厳し幽閉生活に歯は抜け落ち、老いさらばえた姿の老人と伝えられます。
ですが今日のドラマでは、その信繁の伝えられる姿は、徳川方の目を欺くための仮の姿として描かれました。

また、幸村(信繁)の九度山脱出については、かつて当ブログの〜九度山町ぶらり:真田幸村 九度山脱出で以下のようにご紹介しました。

真田幸村 九度山脱出
こうした家康の動きを察知した豊臣方は、九度山の真田幸村に対して豊臣方へつくことを要請し、当座の支度金として送られた黄金200枚、銀30貫を受け取り、家族を伴って九度山を脱出します。
 
九度山からの脱出は、当然のごとく隠密裏に行われますから、確かな情報は残っていませんが、2つの説と2つの逸話(作り話)があります。
 
逸話(作り話)1
真田庵の近く(東側)には真田古墳という地面にあいた穴があります。
これは石室型の古墳だということは調査によって確定しているのですが、それ以前には、この穴の中に入って洞窟を進むと、大阪城につながっていて、これを使って幸村は大阪城に向かったと言われていました。
逸話(作り話)2
幸村は、付近の百姓達が幸村の監視役を命じられていたのをよく知っていたため、日頃からいろいろお世話になっているので振舞いをしたいと、彼らを屋敷に招き、散々酒を飲ませて酔い潰し、頃合を見計らって、荷物を百姓達が乗ってきた馬に付け、武装をして揚々と脱出した。
有力説 1
日ごろから幸村は、郷民に礼を尽くしていたので、彼らも恩を忘れず、真田庵から脱出するのを見逃したか、手助けした。
有力説 2
浅野は、豊臣恩顧の大名で、表面上は徳川に忠誠を誓わなくてはならなかったが、心情的には豊臣に傾いていた。また、真田信之信尹徳川幕下の武将の心証を害しないように、わざと監視の目を緩めたという。そのため、幸村は堂々と脱出した。


以上の記述から、今日のドラマで描かれたような酒宴のドサクサに紛れての脱出は、有力説 1逸話(作り話)2をミックスしたかたちで描いたということがわかります。

それにしても九度山を脱出した信繁らの前に現れた伊賀の忍者で、徳川からの追手である二代目服部半蔵が、佐助らに追い詰められて後に行った茶番劇、あれはいただけません。
ドラマにメリハリを付けるためのメリなのでしょうが、蛇足と言い切っていいと思います。
面白くも何ともないですから。

ちなみにメリハリとは、
音声を緩るめることと張り上げること。音の高低で、メリハリの語源は
メリハリは、「メリカリ」が転じた言葉だそうです。
「メリカリ」とは、低い音を「減り(めり)」、高い音を「上り・甲(かり)」と呼んでいた邦楽用語のひとつで、現代では、主に尺八などの管楽器で「浮り(かり)」が使われているとか。
「減り」は、「減り込む」など一般的にも使われていた語であるが、「上り・甲」は、邦楽以外で使われることがなかったため、一般では近世頃より「張り」が使われ、「減り張り(めりはり)」になり、「仕事にメリハリをつける」など、比喩的にも用いられるようになったとのことです。
ちっとも知りませんでしたね。

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クソジジイの姿に化けた幸村

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〜真田丸:方広寺大仏殿の再建において家康の策略は朝廷にも及んだ?〜
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前回のページでご紹介したように、徳川家康が豊臣家を討つ口実とした慶長19年(1614年)、方広寺大仏殿の再建における方広寺鐘銘事件では、且元が方広寺大仏殿の再建に奔走していた当初より、駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っていたにもかかわらず、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていたために、家康は即座に片桐且元にあてて、開眼供養と大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じたことをご紹介しました。
上記の文章の中で今回のページにかかわるのは開眼供養と大仏殿供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていたという点です。

方広寺鐘銘事件が且元を介して供養の延期を求めるかたちで表面化したのは慶長19年(1614年)の7月26日のことですが、
事件が表面化する以前の5月、家康は且元に対して方広寺の供養の導師(法要に際して中心となり,願文,表白などを述べて人々を導引する師)に真言宗仁和寺門跡覚深法親王の指名を言い渡していました。
ところが、事件が表面化する7月には、後水尾天皇政仁親王より大仏開眼法要天台宗妙法院門跡常胤法親王を指名する勅命が下されます。
つまり天台宗・真言宗の間でかねてより宗派対立が有った中で、方広寺大仏殿の再建において家康は且元を介して真言の僧を推薦していたにもかかわらず、供養が行われる直前に後水尾天皇後の政仁親王)の勅命により天台宗の僧を指名したのです。
これは家康にとっては後水尾天皇政仁親王によって面目を潰されたことになります。
当然家康の機嫌が良いわけがありません。
その怒りは且元に向けられ、且元を豊臣家を討つための道具とすることで鬱憤を晴らすことを思いついたとも考えられます。

もちろん家康の怒りは且元のみに向けられたのではなく、後水尾天皇政仁親王)に対しても怒りを覚えたにちがいありません。
そもそも後水尾天皇(政仁親王)は、家康の推挙があって天皇の座についたという経緯がありましたから、尚更怒りは強かったと思われます。

政仁親王が後水尾天皇となる即位の経緯はこうです。

後水尾天皇(政仁親王)の父であり先代の後陽成天皇(第107代)の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたがります。
ただし、後水尾天皇(政仁親王)は先代の後陽成天皇の第一皇子ではなく、第三皇子です。
生前の豊臣秀吉は、支配の権威として関白太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要から朝廷の威信回復に尽力しました。
また、天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇皇帝として北京に遷し、その第一皇子である良仁親王八条宮智仁親王を日本の天皇にしようとする考えがあったという説があります。
ただし、二人の親王の父である後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭じ、海外進出について意見の相違があったようです。
(ちなみに、秀吉と後陽成天皇との意見の相違があったからかどうかはわかりませんが、秀吉の死後、家康を征夷大将軍に任じたのがこの後陽成天皇です。)

ですが皆さんご存じのように、結果的には秀吉は明の征服に失敗しましたので後陽成天皇皇帝となることは実現せず、秀吉の死によって明を征服ための出兵そのものが中止となります。

そして日本における後陽成天皇からの王位継承は、広寺鐘銘事件が起こる慶長19年(1614年)から遡ること20年前の文禄3年4月29日1594年6月17日)、次期天皇即位を前提に第三皇子が親王宣下を受け、政仁親王となり、次期天皇として2年後(1596年)には亡くなった第106代の正親町上皇御所を将来の東宮御所にすべく与えられています。
慶長3年(1598年)秀吉が死亡すると、突如、後陽成天皇は生前の秀吉が次期天皇と望んだ第一皇子の良仁親王皇位継承者から外す意向を示します。
この時は生前の秀吉の意向に沿い、朝廷豊臣政権ともに強く反対して中止されるものの、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いに勝利して政治の実権を握った徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃して、天皇正室である女御近衛前子が生んだ第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇を代わりに立てることを条件に、第一皇子の良仁親王皇位継承者から外す意向を朝廷を豊臣家に納得させたのです。

ではなぜ朝廷や豊臣家は第一皇子を外す代わりに、政仁親王(後の後水尾天皇を立てるという条件を渋々ながらでも了承したのでしょう?

それは政仁親王(後の後水尾天皇)を生んだ女御近衛前子は秀吉の猶子(ゆうし:養子のようなもの)として後陽成天皇に嫁いだ女性であり、失礼ながら下世話に言えば、秀吉の息のかかった女性と言えます。
ちなみに第一皇子である良仁親王の母は典侍中山親子という身分の低い女性でした。
言い方を変えれば女御近衛前子が、支配の権威として関白太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要から朝廷の威信回復に尽力した秀吉の猶子だったからこそ高位の妻として天皇に迎えられ、朝廷と豊臣家はWin-Win関係を保って支配的な立場を補填しあったのです。
このことから人道的には、たとえ秀吉が亡くなり、天下の実権を家康が握るようになったとしても、朝廷は秀吉から受けた恩、ひいては豊臣家に対する感謝の念を忘れてはならないと言えるでしょう。

にもかかわらず、後陽成天皇は秀吉の押す良仁親王の皇位継承を拒み、これに家康の仲介が入って第三皇子の政仁親王を次期天皇として立て、後水尾天皇としたのです。

ではなぜ秀吉は、自身が猶子とした女御近衛前子が生んだ子である政仁親王を次期天皇として推挙せず、第一皇子だとは言え、あえて身分の低い女性の子である良仁親王を推挙したのでしょう?

思うに家康は、政仁親王に対して「太閤殿下の縁戚であり、高位の妻である女御近衛前子の血筋である政仁どのこそ次期天皇になるべきですぞ。」などと焚き付けたのかもしれません。
そして政仁親王に家康が接近していることを知った秀吉は、政仁親王が次期天皇では豊臣家に災いをもたらす恐れのあると考えたのかも知れません。
しかし秀吉は良仁親王の皇位継承を見届けることなくこの世を去り、後陽成天皇は、秀吉の息のかかった良仁親王への皇位継承を拒みます。
後陽成天皇は、秀吉が亡くなったことで落ち目の豊臣家より、実質的に政権を握っていた家康を当主とする徳川家に乗り換える方が得策と考え、家康と結託して政仁親王を次期天皇としたのかもしれません。
また家康にしてみれば、秀吉が望んだ良仁親王が天皇となることを阻止し、家康の助力があって即位した後水尾天皇ならば、きっと徳川の意向に沿ってくれると考えたに違いありません。

そうした思惑があったかどうかの裏付けはありませんが、結果として第一皇子の良仁親王はを強制的に出家させられ、覚深入道親王(かくしん/ かくじん にゅうどうしんのう)となり、政仁親王後水尾天皇となります。

さて、ここでの史実と推察を踏まえて再び方広寺大仏殿の再建についての話に戻りましょう。

再建された大仏殿の棟札の書には三井寺の長であった興意法親王(こういほうしんのう)が、例にない銘文を手掛け、,悪魔・怨敵 (おんてき) を下す意味合いのある調伏(ちょうぶく/ じょうぶく)を行ったとして蟄居(ちっきょ)を言い渡されます。

後にその疑いははれたとされていますが、そもそも調伏(ちょうぶく/ じょうぶく)を行ったという疑いが疑わしいですよね。
ただ豊臣家を討つための口実の一つとして大仏殿の棟札の銘文にもイチャモンを付けただけで、興意法親王が豊臣家に従っていたという事実がなかったために、蟄居は解かれたのでしょう。

そもそもこの興意法親王(こういほうしんのう)は誠仁親王(さねひとしんのう)の第5王子で、誠仁親王後陽成天皇の兄であり正親町天皇の嫡男でしたが、皇位につくことなく34歳で亡くなりました。
そのため弟の和仁親王が皇位につき、後陽成天皇となったのです。
本来は天皇となるはずだった、後陽成天皇の兄の子である興意法親王(こういほうしんのう)に、豊臣家は大仏殿の棟札の銘文を依頼し、家康が且元を介して後陽成天皇の第一皇子である覚深法親王を方広寺の供養の導師にとの推挙は受け入れられ、後水尾天皇政仁親王より大仏開眼法要天台宗妙法院門跡常胤法親王を指名する勅命が下されます。


また家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出しますが、18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とします。
ここでも家康の意向は殆ど通らなかったことになりますね。

7月末、
慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺文英清韓臨済宗の僧)に選定させます。
且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。
7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じたのです。
8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた[3][4]。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。
これが世に名高い方広寺鐘銘事件です。

ところで最も重要な梵鐘銘文については、
文英清韓が漢詩文に秀で、慶長19年(1614年)4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草しますが]、この銘文に不吉な語句があることを徳川家康は問題視し、大仏開眼供養の中止を求めた(方広寺鐘銘事件)。同年8月には且元に同行して駿府へ弁明に向かい、清韓自身は家康の諱を祝意として「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しているが、五山の僧の答申はいずれも当時の諱の扱いに対する常識や礼儀として問題視し、諱を避けなかったことについて五山僧から非難されますが、この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が以心崇伝らと画策して問題化させたとの通説もあるが、近年の研究では問題となって然るべきものと考えられているそうです
だからドラマでは文英清韓が銘文の内容について徳川家康の文字を意図をもって使ったことについて説明するシーンが描かれたのですね。
ですが銘文が問題となって然るべき内容だったとしても、家康の豊臣家に対する攻撃を正当化できるものではないと思います。たまたま問題ととなって然るべき内容が梵鐘にあったというだけで、それをさせたのは、やはり家康だったと。

その後事態は鐘銘問題から徳川家と豊臣家との対立に発展し、大坂の陣の遠因となった。文英も連座し、南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあいます。
文英は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されますが、蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許されます。
没年は1621年です。

最後に天皇の妻についてですが、上記の文中に後陽成天皇の妻とし女御近衛前子が登場しますが、女御、更衣、中宮はいずれも天皇のお妃で、位の高さは、更衣<女御<皇后≦中宮、
側室というのは正式な妻(第一夫人)以外の人々のことだそうです。

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