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〜旧我家解体記:ほぼ更地になりました。誰か堺市中区に住みませんか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
今年の1月7日から堺市中区八田北町333-5にあった旧我家を、暇を見て自力で解体していましたが、ようやくほぼ更地になりました。
これから売りに出したいと思います。
解体した旧我家は約70平方メートルの平屋、画面右の倉庫は16平方メートルほどだったでしょうか。
土地は107.33平方メートルあり、前面の道巾は約4メートルの私道。袋小路です。 前面が公道ではないので、財産として持つ土地ではありませんが、固定資産税が安く、通り抜ける車もありません。小さなお子さんがいる方には、とても住みやすい環境だと思います。
あっそうそう、これを言っておかやきゃ、土地は正面が南向きですよ。
駅近とは言えませんが、近隣に幾つもスーパーがあり、買い物は極めて便利です。
この旧我家から歩いて5分もかからない所には、焼肉 味楽 (みらく) - 深井/焼肉 [食べログ]があり、現在住んでいる和歌山県でも知る人がいて、安くて美味しいと評判です。
小ぎれいな店とはいえませんが・・・・。
この土地に興味のある方は、現地を直接見に行ってください。
連絡先が立て看板に記してあります。
ちなみに柱や梁などは出来る限り綺麗に回収して、とりあえずそれを使って現在の我家でガレージを建てています。抜け目ないでしょ。
それにしても基礎コンクリートを大ハンマーで割っての掘り起こしや、土壁や外壁のモルタルのはつり、一人ではやっと引きずれるだけのごろんぼの梁を解体するのには手こずりましたが、なによりも廃材の分別が大変で、廃材の処分代がとても高いのが一番苦になりました。
(一言:今時、重機も使わずに一人で解体するなんて、おバカというより狂気のさたとしか・・・・。)
それでも解体業者に頼んだら百万円以上かかることを思えばと思っての強行ですが、皆さんは真似しないでくださいね。
て言うか、真似する奴おらんやろう。往生しまっせ。
無理してケガしたら何にもなりませんからね。
旧我家のあった土地からグルッと周囲を撮影
在りし日の旧我家です。
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2016年10月18日
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〜真田丸:明石全登はキリシタンだったために大坂の陣において豊臣方に〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第39回放送『歳月』で、豊臣家への加勢を要請するために蟄居生活を送る信繁の前に現れ、第41回放送『入場』では、大阪城へと入場した幸村(信繁)を迎えて城内での引率及び他の武将への紹介役を務めた宇喜多秀家のもと家臣:明石全登(あかしてるずみ) は、十字架を首から提げていることからお分かりのように、キリシタンです。
それも明石全登 - Wikipediaによれば、宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈な信者だったそうです。
ドラマの中ではきりも「細川ガラシャ様のお屋敷で何度かお見掛けした明石様でしたっけ・・・・」と語っていましたよね。
ただ九度山に現れた豊臣家からの使者が明石全登(あかしてるずみ) だったとう記録は残っていないようです。
だとすればなぜ三谷幸喜さんはドラマにおいて全登を、信繁を迎えに来た豊臣家からの使者としたのでしょう?
それは恐らく全登がキリシタンであったために浪人から栄達を図るには、大坂の陣に際しては徳川家とは距離を置き、豊臣家に加担するしかなかったという立場だったからだと思えます。
ではなぜ全登は徳川方とは成り得なかったのでしょうか?
明石全登 - Wikipediaによれば、
この明石全登(あかしてるずみ) は主君であった宇喜多秀家と共に関ケ原の戦いでは西軍として戦いますが、その敗戦後に岡山城に退きます。
しかし城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま宇喜多家を出奔しました。
ただしこの時期の消息については諸説あり、ハッキリしません。
ここで重要なのは「全登は信仰上の問題で豊臣方として参陣した。」という記述です。
この記述から、浪人だった明石全登が大坂の陣において徳川方に加担しなかったのは、当時の徳川家のキリシタンに対するスタンスが影響したことが想像できますよね。
禁教令 - Wikipediaによれば、
キリシタンに対する時の政権下での扱いは、秀吉晩年の豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)は例外として、江戸幕府初期でもこれまで(豊臣政権まで)と同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていませんでした。
その証拠に1602年にはドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師達が来日して日本に本格的な布教をし始めており、1596年に秀吉の弾圧を受けたフランシスコ会も、1603年に代表ルイス・ソテロが徳川家康や秀忠と面会し、東北地方への布教を行っています。
しかし、日本の情勢に詳しかった古参のイエズス会は秀吉の時代の時と同様に慎重な対応を求めましたが、新参の修道会には受け入れられず、日本との貿易権を狙うイギリスやオランダの忠告や、神仏勢力の暗躍もあって、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、かつ活動は活発化していったキリスト教に対して幕府は次第に態度を硬化させて行きます。
そんな中で1609年にマードレ・デ・デウス号の事件が発生する。それ自体はキリスト教と何の関係もなかったが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった有馬晴信と目付役で同じくキリシタンであった岡本大八の収賄事件が発覚する岡本大八事件が起こります。
この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始めたのです。
これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られたそうです。
特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されています。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落します。
また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消します。
そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げ、合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、徳川秀忠の名で23日に公布させたのです(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。そして以後はこれが幕府のキリスト教に対する基本法となります。
この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいました。公的にはキリスト教は禁止になりましたが、幕府は信徒の処刑といった徹底的な対策は行わず、依然としてキリスト教の活動は続いていたそうです。
例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たちませんでした。
幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、宣教師は南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためだそうです。
つまり1612年の禁教令の発布以降、明石全登のような熱心なキリシタンが徳川方となることは許されない状況だったのです。
ですがそれでも幕府がキリシタンに対して徹底的な対策を取れなかったのは、貿易による利を失いたくないというそろばん勘定を棄てられなかったためだったのです。
そして1614年、大坂冬の陣が勃発します。
小林顕作さん演じる明石全登
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