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〜真田丸:妻の励ましにより徳川方から脱出した毛利勝永はなぜ毛利?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第41回放送『入場』では前ページでご紹介した後藤又兵衛と旧知の仲であるかのように肩を並べて幸村(信繁)の大阪城での動向を見つめる毛利勝永といいう武将が登場しました。
毛利勝永 - Wikipediaによれば、
しかし勝永という諱は一次史料で確認できず、発給文書は全て吉政(よしまさ)と署名しており、史料では毛利吉政(森吉政)。この吉政の「政」は龍造寺政家からの一字拝領であるとされ、本来の名である森吉政から秀吉の命により毛利吉政 → 毛利勝永と改名しています。
(ちなみに:一次史料とは、その当時の生の史料のこと。古文書、当事者の日記、手記、手紙など、その当時の人物が作成した文書類や収集した事物など。その時代のコインや新聞記事なども一次史料になりうる。)
ではなぜ勝永に毛利を名乗らせたのでしょう?
この謎に対して「彼ら(毛利勝信・勝永親子)が秀吉から与えられた“毛利”姓は当時「もり」と読んだときいたことがあります。名家の箔を与えつつ、毛利・森の家の誇りも蔑ろにしない、トンチのような計らいだったのでは??」というベストアンサーが紹介されています。
果たしてそんな安易な計らいにより、毛利勝永という名が定まったのでしょうか?
天正15年(1587年)、九州平定を終えた秀吉は、豊前国8郡の内、黒田孝高に6郡12万石を、吉成に規矩郡、高羽郡の2郡6万石を与えて小倉の領主としたが、この6万石の内の1万石が勝永に与えられた。ただし『慶長4年諸侯分限帳』では、勝永の分を4万8,000石としている。
豊前に封された際に、秀吉の指示によって森(もり)姓から中国地方の毛利氏と同じ毛利(もり)の漢字を変えて改姓したとされるが、翌年正月19日の秀吉朱印状の宛名は「森壱岐守とのへ」となっているので、実際に毛利姓に変えた時期は、肥後国人一揆・豊前国人一揆の鎮圧後のことである。
このことから、本来森という姓であった勝永に、なぜ毛利を名乗らせたかについて謎解きをするために、豊臣家の中で安芸の毛利氏に深くかかわった人物を連想すると、一番に連想されるのは毛利家の分家筋にあたる小早川家の養子となった小早川秀秋ではないでしょうか?
そこで「小早川秀秋」「1588年」で調べてみました。
すると小早川秀秋 - Wikipediaには以下のような記述があります。
天正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。天正16年(1588年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸では内大臣・織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。またこの際、秀吉の代理で天皇への誓いを受け取っている。
天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。天正19年(1591年)、豊臣姓が確認され、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。
諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていた。
さて上記の事実と本来森という姓であった勝永に、なぜ秀吉が毛利を名乗らせたかという謎には関連性があるのでしょうか?
ここからは私の突拍子もない?推論です。
そもそも秀吉が養子として秀次につぐ豊臣家の継承権保持者とされた羽柴秀俊 を毛利家の一員とすることで小早川秀秋としたのは、毛利家を豊臣家が乗っ取る腹積もりがあったからだとされます。
だとすれば勝永を、森吉政 → 毛利吉政 → 毛利勝永と改名させ、天正16年(1588年)に安芸の大名である毛利輝元の接待役とし、能興行で太鼓を披露し、輝元や公家衆との会見に相伴を許されたという出来事は、秀頼誕生以前には勝永を毛利家に派遣して内情を探らせるなどの意図が秀吉にはあったのではないでしょうか?
ところが、秀頼が誕生したことで毛利家へのアプローチは豊臣家のイチ家臣に過ぎない勝永に託すより、秀頼が生まれたからには不要な存在となった豊臣家の元後継者候補を毛利家と縁組みさせる方が、毛利家を秀吉の思い通りにするのには、より確実で有効だと秀吉は考えた。
それが「秀吉幕下の黒田孝高から小早川隆景に「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との話が持ち掛けられる。これを聞いた隆景は、弟の穂井田元清の嫡男である毛利秀元を毛利家の後継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められる。文禄3年(1594年)、秀吉の命により秀俊は隆景と養子縁組させられ小早川秀俊となった。」という出来事だったのではないでしょうか。
以上のような、歴史に対して素人(私)の推論はともかく、今ページの主役が毛利勝永という名になって後のことをご紹介しましょう。
毛利勝永は慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍。慶長の役では、蔚山倭城を救援して、明・朝鮮連合軍を撃退した際に戦功を立てた。戦地では朝鮮で入手した犬を豊臣秀次に贈って、秀次から礼状をもらっています。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去で形見分けがなされ、遺物さださねの刀を受領します。
第41回放送『入場』で画面に登場した毛利勝永を見た時、私は長くてとても立派な刀を腰にさしているなあ。」という第一印象がありました。その刀こそ豊臣秀吉の死去で形見分けがなされたさださねという刀なのでしょうか?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦した。領国のある九州に下向していた父に代わり中央で軍勢を指揮した勝永は伏見城の戦いで格別な戦功をあげ、毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受けます。
旧知でもあり親交のあった山内家では1千石の封地をあてがわれ、父子とも手厚く遇されたという。
殊に勝永の弟は山内姓を与えられ、山内吉近を名乗り2千石を与えられますが、慶長18年頃、土佐を去り紀州浅野家に仕えたとされます。
つまり勝永の弟は徳川方になったということですね。
一方、勝永は高知城の北部の久万村で生活をし、折々に登城をすることもあった。
慶長15年(1610年)5月25日、正室の安姫が死去したので、勝永は髪を剃って出家し、一斎と号し、翌年5月6日に父勝信が死去し、7日に白雲院殿好雪神祇と諡して江ノ口村尾戸山喜圓坊に葬り、後に秦村泰山に改葬した。
つまり勝永は、高知で俗世を棄てて一時は出家していたということです。
しかし慶長19年(1614年)、豊臣秀頼よりの招きを受け、土佐からの脱出を計画。その際に留守居役の山内康豊に対して、勝永は「徳川方に付いた藩主山内忠義とは昔衆道の間柄で身命を賭けて助け合う約束をしているからどうか忠義の陣中(つまり包囲側)に行かせてほしい。」と嘘をつき、嫡男毛利勝家を見張り役とし、次男鶴千代(太郎兵衛)を城へ人質として残すことで勝永と共に勝家も船で逃げ去り、大坂方に走ります。
この件については逸話があり、大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励まします。勝永はこの妻の励ましを喜び、一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じたそうです。
のちにこれを聞いた家康は「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたそうです。
一方勝永にまんまと豊臣家へと脱出されてしまった事を知った山内忠義は激怒して、勝永の子:勝家の見張りだった山内四郎兵衛に切腹を命じ、鶴千代と勝永の妻と娘は城内に軟禁されます。
(一言:山内四郎兵衛には気の毒な出来事でしたね。忠義もなにも四郎兵衛に切腹までさせなくても、小っちゃい男やなぁ。)
勝永と共に大阪城に入場した勝永の嫡男:勝家はドラマに登場することはないようですが、
大坂城に入城した毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称されますが、勝永の大坂の陣での活躍は、ドラマでの展開を待つことにしましょう。
岡本健一さん演じる毛利勝永
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2016年10月20日
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〜真田丸:後藤又兵衛は裏切りと殺戮を繰り返した黒田長政から離れ大坂城へ〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第41回放送『入場』では、徳川がいよいよ豊臣の滅亡を視野に入れて大坂攻めの動きを見せる中、豊臣方は諸国に散らばる浪人などを大阪城へと集結させて、徳川を迎え撃つための準備を整えます。
そんな大阪城に集結する侍などの中の一人として後籐基次(ごとう もとつぐ: 又兵衛)も登場し、続々と集結する他の侍を蹴散らすかのように「どけ、どけ!」を連呼しながら大阪城に入場していましたよね。
一見するといかにも高慢な武将として描かれ、老人の姿で後から入城して来た幸村(信繁)に対して敵意丸出しの雰囲気を醸し出していましたね。
これは、後籐又兵衛を演じる哀川翔さんらしいキャラクターとも言えます。
果たして後籐又兵衛とは、ドラマで描かれるような、高慢な武将だったのでしょうか?
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられるそうです。
後藤又兵衛が大坂冬の陣を前にして大阪城に入城する以前に仕えていた主君は、戦後武将の中でも最も有名な武将の一人である黒田長政です。
この後藤又兵衛の主君であった黒田長政は、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉などに活躍した戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男で、九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名でした。しかし、家康がキリスト教に対する禁教令を発するや、ただちに棄教したことから、真の信仰心を持つ人物ではなかったと言えるでしょう。
天正15年(1587年)の九州平定では、長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて孝高に豊前国中津に12万5,000石が与えられた。しかし豊前の国人勢力を懐柔するのは困難であった。その中の有力領主の一人・城井鎮房(宇都宮鎮房)は秀吉の出陣要請に対して、病気と称して自身は出陣せず、息子の城井朝房に僅かな手勢を付けて参陣させた。このような鎮房の態度に秀吉は不信を抱き、以後の豊前国の治世の困難を憂慮して九州平定後、鎮房に伊予国への移封を命ずる。移封は加増を伴ったものであるが鎮房は先祖伝来の地に固執して朱印状の受け取りを拒否し、秀吉の怒りを買うに至る。
この手こずっていた城井鎮房に対して長政は、鎮房自身を攻め落とすことが困難と知るやその周辺の勢力を各個撃破して勢力の優位性を確保すると、鎮房は長政に対して13歳になる娘・鶴姫を人質に差すことで恭順を誓いますが秀吉の鎮房に対する怒りは変わっていなかったために、秀吉の承認を得ることは出来なかった。
そこで長政は秀吉に対する忠義を示すために城井家の完全消滅を図り、黒田勢は鎮房を謀殺した後もその父をはじめとして一族を謀殺して行き、最終的には人質として差し出されていた幼い鶴姫を侍女と共に河原で磔(はりつけ)にして処刑します。
(ちなみ:朝鮮での加藤清正のトラ退治は、実際には黒田長政とその家臣によるものだそうです。)
その後秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老の徳川家康に接近し、先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女・栄姫(保科正直の娘)を新たに正室に迎え、家康に対する恭順を明確に示した長政は、外様ながら文字通り徳川家の重臣となり、慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派(いわゆる七将)と共に石田三成を襲撃しました。
慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として、52万3,000余石の大封を与えられ、子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをも得て、戦後豊前国より海外貿易の大湊、博多の津を要する筑前国に入府し、初代福岡藩主となります。
このように黒田長政は、戦国武将として歴史のキーポイントで活躍した名高い猛将ですが、その生き様は、常に時代の覇者(秀吉や家康)に身を寄せるためには、およそキリシタン大名という現代の私達がイメージする信仰心に厚い人物像とはほど遠い裏切りと殺戮を繰り返した人物で、私的には最も嫌いな人物像です。
(ちなみに:後に長政は徳川家第二代将軍秀忠の側近となり、松平を名乗ることを許されたそうです。松平は時代劇などで主役となる人物が多く居ますが、その人物が長政の血を引く者だと考えれる時、それだけでイメージとしてかなり悪い印象に変わってしまいます。)
そんな主君に仕えていたのが後藤又兵衛です。
これでやっと本題の後藤又兵衛についての話となります。 後藤又兵衛については諸説あり、定かではありませんが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門)の次男として生まれたという説が有力なようです。
後藤又兵衛が当時の記録に残る具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からで、戸次川の戦いにおいてそれまで仕えていた仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高(官兵衛・如水)の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで討ち取る武功を挙げ、戦後は黒田家重臣の一人として筑前六端城の一つ、大隈城(益富城)の城主となり、10,000石〜16,000石の所領を与られたとされます。
以上の記述から、又兵衛が歴戦の猛将であることは一目瞭然ですが、
これは基次(又兵衛)が他国の細川氏や池田氏と頻繁に書状を交わしていたことに原因があったとされます。
黒田長政嫌いの私は思うに、恐らく又兵衛は、主君であった黒田長政の非道な生き様に反感を抱いていたために、黒田家を出奔したのではないでしょうか。
一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えますが、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになったのです(浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも)。
慶長16年には基次の黒田家への帰参問題が起こり、長政は幕府を通して交渉を行いますが、基次と連絡がうまくとれず実現することはなかった。
やっぱり又兵衛は長政が嫌いだったんじゃないでしょうか?
以上の事柄を見る限り、後藤又兵衛という武将は決して高慢なだけの武将ではかく、むしろ好感の持てる武将だったと思えます。
後藤又兵衛を演じる哀川翔さん
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