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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:第43回放送『軍議』では、決戦前のそれぞれの思いに焦点を当てて〜
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第43回放送『軍議』では、豊臣家と徳川家の決戦を前にして、豊臣側と徳川側の人それぞれの思いを描きました。

豊臣家を滅ぼさんとする家康の思い、豊臣家より去らざるを得なかった片桐且元の思い、弟:幸村が豊臣方についた事を知った兄としての信之の思い。
淀殿、豊臣秀頼、大蔵卿局織田有楽斎、大野治長、木村重成などの豊臣家の中心人物の思いなど。
特に、豊臣方で一軍を率いることになる真田幸村以外の後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親らの思いをより丁寧に描きました。

当ブログでは、これら4将の大阪城入城に至るまでの思いなどについては、既に先んじてご紹介し終わっています。
幸村はこれら思惑の異なる武将たちを、父:昌幸の生前の教えに従うことで、思いを一つにするために懸命に努めていました。
第38回放送『昌幸』で語られた「軍勢を一つの塊(かたまり)と思うな、一人一人が生きておる。一人一人が思いを持っておる。それを、夢々わすれるな。」という昌幸の言葉を。

この幸村の各武将に対してその思いを汲んだ説得が功を奏して、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親のみならず、大野治長、木村重成、豊臣秀頼らの籠城に固執する思いを解き、先ずは打って出ることで徳川に対して先手をとり、その力を削ぐ幸村の作戦が、軍議において一度は決定します。
ところが、淀殿はこの決定を一言で跳ね除けます。「籠城以外にありません。」と。

ドラマ上において淀殿が籠城に固執する理由は、まだ明らかにされていませんが、歴史上において淀殿らが籠城に拘った理由ではないか?とされる点については、既に〜真田丸:豊臣滅亡と幸村の死は、家康の企みに大野治長・治純の兄弟がの中でご紹介しました。

豊臣方が籠城戦を選んだことで、幸村は歴史に名高く、ドラマの題名にもなっている前代未聞の巨大出丸の『真田丸』を築いての激戦が、次回以後に描かれることとなります。

さあいよいよ徳川との決戦、第二次上田合戦での敗戦も自身の力量とは認めない秀忠の思い上がりと、腹黒く豊臣方の武将を次々と罠にかけ、徳川方へと寝返らせた家康の毛の生えた肝を、絶対零度にまで冷やしてもらいましょう。

ちなみに、今回の第43回放送『軍議』では、どうも鼻持ちならない淀殿が、他の武将に対してはともかく、幸村に対してだけは「信じられるのは真田だけ。」との言葉を聞けたのは一つの救いでしたね。
それが幸か不幸かは別にして。

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〜真田丸:大坂夏の陣の裏切り者とされる長宗我部盛親ですが、同情します〜
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第42回放送『味方』では、大坂冬の陣を前にして徳川に対抗するために多くの浪人たちが集まる大阪城において、幸村と相部屋となった髭面(ひげづら)のいかにも厳(いか)つい風体の長宗我部盛親が、幸村に対して自らのことについて、「この顔で誤解されがちだが、わしゃ、肝の小さな男でな・・・・。」と語りました。
この盛親によるドラマ上のセリフは、後に盛親が裏切り行為を行ったことを前提にした言葉で、小心者だから裏切ったという理由づけとして三谷さんが前もって説明を加えたシーンだと思えます。

豊臣秀吉がまだ健在だった時代に遡れば、伊予国河野通直を降伏させ、四国をほぼ統一した長宗我部元親と、天下人となりつつあった豊臣秀吉(羽柴秀吉)の対立は深刻なものとなっていました。
長宗我部盛親の父:長宗我部元親は秀吉による四国平定以前には四国地方の覇者だったのです。
元親は秀吉に伊予一国を割譲して和睦しようと考えたのですが、秀吉はこれを拒否。
秀吉は元親に降伏を勧告するも拒否されたため、長宗我部氏討伐・四国征伐を決意し、まずは弟の豊臣秀長の軍を淡路島経由で阿波方面から、毛利氏傘下の小早川隆景吉川元長の軍を伊予から、宇喜多秀家の軍を讃岐から、それぞれ侵攻させて長宗我部氏を攻めたのです。
その際、長宗我部氏によって四国を追われた三好氏の残党なども秀吉軍に協力していました。
速い話が、『NHK大河ドラマ 真田丸』では元親の子である盛親の代となって大阪城に入城し、徳川との戦いに臨んだ長宗我部氏ですが、元親の代では小牧・長久手の戦いの後の徳川家康との接近を強めようとしていたのです。

そんな勇猛な父を持っていた盛親でありながら、ドラマでは小心者として描かる理由とはなんでしょうか?
その理由となる出来事は、恐らく今後ドラマの中で描かれると思いますが、結果的には盛親が豊臣家を裏切ったという史実から、三谷さんは盛親を小心者として描くことにしたのでしょう。

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、天王寺・岡山の戦いにおいて大坂方の敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を図って逃亡します。
ですが運は盛親に味方せず、5月11日に京都八幡近くの男山に潜んでいるところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられます。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられさらし者にされます。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原にさらされます。享年41歳。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。
一言斬首される前にさらされ、斬首されて後に家族ともどもさらされます。なぜ盛親だけがここまでの仕打ちをうけたのでしょう?逃亡したから?武士にあるまじき?ということでしょうか。)
と盛親についてご紹介しました。

そんな裏切り者として一族と共に斬首された長宗我部元親の半生は、どういったものだったのでしょう?
ご紹介します。

長宗我部元親の4男として生まれます。
戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の後押しがあり[6]、天正16年(1588年)に世子に指名された。この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。
一言:随分第42回放送『味方』で描かれた盛親とは様子が違いますね。でも4男で粗暴な性格でありながら、父には好かれていたようですね。)
元親が少年の頃の盛親を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系を既に継いでいたこと、何よりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには上の2人では年齢差がありすぎたためともされている。豊臣氏の一門ではなく増田長盛を烏帽子親として元服し、「盛」の一字を授かって盛親と名乗ったことから、豊臣政権下において長宗我部家の格付けは低かったとされる。
一言:秀吉の代での長宗我部家は、冷遇されていたんですね、だから元親は家康に近づいたんですね。)
盛親は長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として二頭政治を行い、豊臣氏による天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。
また、文禄3年(1594年)以降、知行宛行権が盛親に移譲されたが、これ以外の大名当主としての権限は変わらずに両人が共有していた。更に慶長2年(1597年3月24日に父の元親と共に制定した「長宗我部元親百箇条」を発布している。
だが、こうした流れの一方で、家督継承の経緯の異常性からか、豊臣秀吉及び豊臣政権は盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見方がある。武家官位を重要視する豊臣政権は大名およびその後継者に一定の官位を授けていたが、盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであり(「土佐守」などは非公式な通称とされる)、これは大名当主としては異様である。 慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。だが、その後も盛親の長宗我部氏の家督と土佐の国主の継承を豊臣政権が承認したことを示す記録は存在せず、この異常な状況は翌年の関ヶ原の戦いまで続くことになる。
これに対して、慶長2年に盛親が単独で豊臣秀吉に拝謁していたことから、次期当主として承認されていたのではないかとする説もある。
一言:盛親は豊臣家が徳川家との対立を深めた頃から、味方を増やす意味合いだけで長宗我部元親をようやく次期当主として認めたということでしょうか?酷い話ですね。可哀そうに。)

その後関ヶ原の戦いにおいて盛親が西軍に加担したのは、元親の代より増田長盛や垣見一直との縁があったからとみられ、盛親参戦の動機は当主として豊臣政権から認知されることにあった。
一言:盛親は秀吉に冷遇されながらも、それでも豊臣政権に認められるために、西軍として徳川と戦ったんですね。可哀そうに。)
しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。
一言:盛親は関ケ原の戦いの前哨戦では武功をあげながらも、本戦では出番なく豊臣方の敗北で関ケ原の戦いは終結してしまったんですね。これまた可哀そうに。)

西軍壊滅後、盛親は西軍の壊滅を島津義弘の知らせと吉田重年の偵察で知った。
盛親は池田輝政軍や浅野幸長軍の追撃を受けて多羅尾山に逃れ、伊賀から和泉に逃れて小出吉親の追撃を受けて大坂の天満に引揚げて、土佐へ帰った。
その後、盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが、その前に家臣・久武親直からの偽りの報告を真に受けて、兄の津野親忠を殺害してしまいます。
そしてこのことが家康の怒りを買って領土没収で改易となったのです。
大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、一領具足で鳴った勇猛な家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、浪人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。
一言:悪い家臣を持ったがために、兄弟殺しの汚名をかった盛親、それが家康に知られるやお家断絶に至ったとは、これはまた悲惨、可哀そうに。)

浪人となった盛親は京都の町人に預けられ、上立売の柳ヶ逗子で蟄居生活を送る事になった。大岩祐夢と称して、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれるが、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある。また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川の火種になり得る危険人物として京都所司代板倉勝重の監視下に置かれていた。
一言:この点については徳川に2度の敗北をもたらしたがために九度山に幽閉されてしまた昌幸・幸村親子に共通する境遇がありますよね。可哀そうに。)

そして盛親の大坂の陣に向けての動きです。
『古城伝承記』によると、盛親は当初は東軍に味方しようと決め、十市新左衛門・町三郎右衛門の二人を使者として家康に派遣しようとしたが、近江水口で西軍に道を閉ざされ、西軍に味方をすることに決めたとされるが、山本大によると、盛親と(関ケ原の戦いにおいて盛親が西軍に加担するパイプ役となった)増田長盛の関係を考えると、この話の真偽は疑わしいのではないかとしている。

慶長19年(1614年)秋、大坂方と徳川方との間が風雲急を告げる中、盛親は豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出する。わずか6人の従者と共に出発したが、土佐時代のかつての旧臣や浪人などと合流し1000人もの軍団となり、10月6日に大坂城に入った。
9月に京都所司代の板倉勝重は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいると答えて勝重を油断させ、10月6日に大坂入城を果たした
さらにこれに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った盛親は、真田信繁後藤基次毛利勝永明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった。
一言:盛親はもう二度と徳川に背くことはないと、かねてから浅野長晟との約束があると言いて見張り役の京都所司代を騙して幽閉地を抜け出し、大阪城に入城したんだ。ここまでは幸村の行動とうり二つだ。なのに、なのにその後はねー・・・・。可哀そうに。それに浅野長晟、考えてみれば彼は秀吉時代の豊臣家において旧知の仲だったがために、結果的に派幸村と盛親の二人に偽られて敵方の豊臣家に走られたことになるのですから、これはこれで可愛そうですね。)

こうして大坂の陣が始まり、籠城戦となった冬の陣では豊臣家重臣の木村重成、後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った。
12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させた。しかしこれ以外に大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立する。
野戦となった夏の陣では木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣し、徳川方の藤堂高虎隊と激突する。八尾・若江の戦いである。
慶長20年(1615年)5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。
鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。
一言:ここまでは盛親の隊も大健闘したんだ。それなのにねー・・・・。可哀そうに。)
しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。

5月11日に京都八幡京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された。
その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして5月15日に京都の六条河原で斬られた。享年41。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した。
一言:これはもう悲惨で可愛そうという言葉では足りないものです。盛親は頑張ったんです。頑張ったし再起を期すために戦場を逃れた。それだけなんです。なのに今の世にまで裏切り者としての汚名が伝わるとは、超可哀そう!何とかしてあげたい。だからこのページを記しました。)

長宗我部盛親 - Wikipediaには参考資料として以下の記述も紹介されています。

大坂の陣で、盛親は復活の最後のチャンスとして参戦したが敗れている。
大坂夏の陣で敗れ、徳川方に捕らえられ白州に引き出された際、「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝、大坂方敗戦の因は八尾で敗れた長宗我部盛親」と答えたと言われる。
大坂の陣の敗北後、潜伏場所の目の前には街道があり、兵を引き上げこの街道を通る家康の命を火縄銃で狙っていたと言われる。
同じく白州において、自刃もせずに捕らわれたことを徳川方の将兵が蔑むと「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と言い、「出家するから」とまで言って命乞いをしている。しかし盛親の胸中を知る徳川家康はこれを許さず、死罪に決したという。
同じ逸話として秀忠の側近が「何故自害しなかった」と尋ねると「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」と答えた(『常山紀談』)。
一言:素晴らしい。捕らわれの身となってもはや風前の灯火となった身の上でありながら、敵方の総大将の側近に対してこのような減らず口が言える。私は、盛親の武将として最後のこの有り方はいいと思います。過去のページで盛親のことをどう言ったかはもう忘れましたが・・・・・・・。)

ちなみに当ブログでは過去に長宗我部氏について以下のようなページを記しています。
興味があったらご覧ください。


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阿南健治さん(54)演じる長宗我部盛親

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