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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:大坂冬の陣での昌幸、幸村、ウィキぺディアの作戦の違いを比較〜
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第43回放送『軍議』では、豊臣家の主だった者はみな倍以上の数の徳川軍を迎え撃つには、籠城戦が定石と主張しますが、幸村は秀忠軍が到着するまでに打って出るべきだと主張します。
軍議において幸村は、大阪城での籠城は最後の手段であり、その前に城より離れた戦場で敵の力を削いだ後にすべきだとし、籠城戦を主張する者たちを説得すべく自からの作戦を説明します。

ドラマ上で語られた幸村の作戦はこうです。
「今、家康は京にいます。これ以上の好機はありましょうか?まずは伏見城を攻略し、二条城へ攻め込みます。
そして秀忠が到着する前に家康の首をとる。
同時に別の軍勢が大津を占拠し、近江を我がものとします。
更に瀬田と宇治の橋を落とします。
これによって、徳川本軍の行く手をふさぐ。
ここまで来れば、徳川についていた豊臣恩顧の大名たちの中でも、我らに味方する者が出て来る。
更に、伊達や上杉と示し合わせて背後から襲わせる。
負ける気がいたしません。」
この幸村の作戦を聞いた秀頼は、
「伊達や上杉が味方してくれるか?」と幸村に問い直しますが、
幸村は「家康の首をとれば必ず。」と強く主張します。
しかし後藤又兵衛をはじめとする武将たちは「話が大きすぎてついて行けない。」と、幸村の作戦に難色を示し、やはり籠城戦で戦うべきだと主張します。
これは明石全登長宗我部盛親が大野治長に籠城戦に賛成すれば望みを叶えると言い含められていたからなのですが、毛利勝永だけは幸村の考えに賛同し、結局幸村の熱意ある説得の甲斐あって軍議においては幸村の作戦で戦うことを決定します。

ですが第43回放送『軍議』で幸村が語ったこの作戦は、幸村が独自に考えた作戦ではなく、第38回放送『昌幸』において昌幸が他界する少し前に幸村に伝授した作戦を、幸村が現状に合わせて工夫した親子二人の考えが合わさった作戦でした。

さて、昌幸が幸村に対して語った作戦はどういったものだったかを覚えている方はおられますか?
また、史書に残る実際の幸村考案による作戦はどうだったのでしょうか?
見比べてみましょう。

以下にドラマ上で幸村が語った作戦を黒字で、昌幸が生前に語った作戦を赤字で、史書に書かれている幸村の作戦とされるウィキペディアの記述を青字示し、作戦の段階ごとに比較できるように列記します。


【大坂冬の陣における幸村、昌幸、歴料に残るそれぞれの作戦を比較】
(黒字は幸村の作戦/赤字は昌幸の作戦/青字はウィキペディアの記述      
<第一段階>
まず家康のいる京の伏見城を攻略し、二条城へ攻め込み、秀忠が到着する前に家康の首をとる。同時に別の軍勢が大津を占拠し、近江を我がものとする。
まず、手持ちの軍勢をもって真っ先に尾張を制する。徳川が出てきたら頃合いを見て尾張を棄て、一旦近江まで引く。
まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国瀬田川まで軍を進める。
<第二段階>
更に瀬田と宇治の橋を落とす。これによって、徳川本軍の行く手をふさぐ。
更に瀬田と宇治の橋を落とし、敵の追撃を阻む。その間に二条城を焼き払う。
近江国瀬田川で関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃つ。
<第三段階>
ここまで来れば、徳川についていた豊臣恩顧の大名たちの中でも、我らに味方する者が出て来る。
更に、伊達や上杉と示し合わせて背後から襲わせる。負ける気がしません。
一時でも尾張を抑えたという事が、日の本中の徳川に不満を持つ大名の心をつかむ。そうなれば徳川勢は大坂に攻めかかるしかない。その間に各地で徳川に対して反旗が上がる。反旗が上がれば敵は、大坂攻めだけに係ってはおられん。やがては引くしかなくなる。
足止めしている間に諸大名を味方につける
<第四段階>
もしも作戦どおりに行かなければ大阪城に籠城。
なし。(負ける気がせん。)
諸大名が味方につく見込みが無い時に初めて(大坂)城に立て籠もって戦う。

以上のように、最初に昌幸が徳川軍に対して立てた作戦は、家康が江戸にいることを前提にしていました。
しかし大坂冬の陣が起こる直前には、秀忠は江戸にいたものの、家康は京にいるという好機に恵まれていました。
この好機を見てとった幸村は、豊臣軍が打って出る目的地を尾張ではなく、京としたのです。
恐らくドラマにおいて昌幸が第一段階で尾張に打って出るという構想は、三谷幸喜さんが独自に考えたものではなく、石田三成が関ケ原の戦いにおいて当初は尾張まで進軍しようとしていたことを参考にして考えついた昌幸のセリフだったのでしょう。
そして第38回放送『昌幸』において昌幸が語った作戦は、10年をかけて考えたものだと語っていることから、昌幸は万が一にも作戦が失敗することは無いと言う絶対の自信を持っていたという設定なので、もしもの時の大阪城での籠城戦は語らなかったということでしょう。

更にドラマにおいて語った幸村の作戦にあって、ウィキペディアにない記述と言えば、瀬田と宇治の橋を落とすという戦法でしょう。
果たしてこの橋を落とすという戦法が三谷さんの考案なのか、それともウィキペディアには記述がなくとも、史書には記されていることなのかについて私は知りません。
橋を落とすという戦法が史書に書かれている事をご存じの方がおられれば、ご報告頂ければ幸いです。
また、伏見城を落とした後で、二条城を攻めるという戦法については、歴史的に見れば過去に信忠が、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治京都所司代村井貞勝らと共に儲君皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せたことで知られます。三谷さんはこの史実を参考に昌幸と幸村が二条城の制圧も作戦の中に入れたという設定にしたと思えます。

ちなみに最初から籠城戦を戦おうとする豊臣家の考えは、二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針でした。
一言:最初から豊臣家の者には、徳川軍に勝つという考えや、家康を討つつもりはなかった?いや、徳川に勝てる自信がなかったのですね。幸村は家康を討つつもりだったし、家康は豊臣家を滅ぼすと決めていた。そうでなければ豊臣と徳川のどちらかが存続し続ける事は出来ないと考えていたにもかかわらず。そんな覚悟のなかった豊臣家は、甘ちゃんとしか言いようがないですね。)

軍議において幸村が語ったとされる作戦は以上のようなものですが、結果的には幸村の作戦は淀殿らによって却下され、籠城戦となります。
そこで幸村が改めて考え出した戦法が、真田丸を攻防の要とした戦いでした。

次回の第44回放送『築城』では、真田丸が築かれる様子やそのことを巡っての人間ドラマが描かれるようですね。楽しみにしましょう。

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〜真田丸:真田幸村の義兄弟 大谷吉治は、幸村と共に大坂夏の陣で散り〜
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第43回放送『軍議』では、大坂城に集結した武将として真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親が登場しました。
しかし、登場すべき武将がいま一人いました。誰だと思いますか?
ヒントとして、真田幸村(信繁)の義兄弟と言えばお分かりでしょうか?

幸村(信繁)の正室は春(竹林院)です。その兄弟は大谷吉継の子どもたちである吉治木下頼継泰重です。
このうち木下頼継は、関ケ原の戦いにおいて父:吉継が自害する直前に戦場から落ちるようにとの指示を受け、戦場を離脱して越前国で潜伏したが、同年のうちに病死した。もしくはは関ヶ原で戦死したとも言われます。つまり大坂の陣の時にはこの世になかったのです。
次に大谷泰重ですが、兄である吉治木下頼継。らの動向から推測すると、大坂の陣後に美作国に移ったと思われるそうですが、息子重政が越前藩に出仕した後の動向は定かでないとのこと。
つまり泰重の動向は不明だということです。

ということで、大坂の冬の陣において登場すべき武将というのは、大谷吉治のことなのですが、本ページのタイトルに大谷吉治と書いてあるので、はなっからチョンバレですね。

大谷吉治 - Wikipediaには以下のような記述があります。
慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が大谷家を訪問した時、病状の悪化した吉継の代わりに接待役を務めた。
翌慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると形見分けとして「鐘切りの刀」を受ける。
慶長4年(1599年)には家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは吉継と共に西軍に与し、北陸で前田勢を足止めした後、関ヶ原に移動。小早川秀秋の軍勢が西軍を裏切り、大谷隊はその攻撃を受けて奮戦するが、部隊は壊滅して父の吉継は自害した。吉治は敦賀に落ち延び、その後は各地を流浪。
慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると招きに応じて大坂城に入城。吉治は豊臣方から100名の兵士を担当する隊長に任命されたという。



つまり真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親らと同様に、大坂冬の陣を前にして大阪城に入城し、一軍の将として徳川軍と戦ったのです。

慶長20年(1615年)5月、道明寺の戦いに参加。天王寺・岡山の戦いでは、真田信繁隊と前線で戦うが、越前福井藩松平忠直軍との戦闘中、忠直家老の本多富正の配下により討たれ、戦死したそうです。
真田信繁隊と共にその義兄弟の大谷吉治が戦ったのであれば、真田幸村(信繁)の生涯を描く『NHK大河ドラマ 真田丸』には、欠くべからざる武将だと思えるのですが、ドラマでの登場は無いようです。
なぜでしょうね?

吉治の父:大谷吉継は、関ケ原の戦い以前、豊臣家の重臣でありながら、晩年の秀吉の蛮行に反発してか、徳川家康に近づきます。
吉継がそのまま家康側についたまま関ケ原の戦いに参戦していたなら、吉治は大坂の陣においても徳川方の武将として豊臣家と戦ったかもしれません。
しかし父:吉継は旧知の友である石田三成のためとの思いもあって家康と決別し、三成と共に関ケ原の戦いに豊臣方として参戦し、討死します。

父と共に徳川と戦った吉治は父の命に従って落ち延び、流浪の末に大阪城へと入城したのです。
そんな吉治の胸中には、「父の無念を晴らしたい。家康憎し。」という思いに満ち溢れていたに違いありません。
妹の婿と共に倒すべき敵と戦い、冬の陣では勝利を目前にしていました。
しかし、淀殿らの判断による徳川との早まった和睦交渉により、父の無念を晴らす事は叶わず、家康の強かな謀略により大阪城の堀は埋め尽くされ、再び開戦となった夏の陣の道明寺の戦いに参加し、天王寺・岡山の戦いで幸村(信繁)と同様に討死します。
またしても家康の策謀に屈し、その生涯を閉じなければならなかった吉治。
その境遇には、共に父を家康によって失い、無念を晴らすことが出来なかったという点で、幸村(信繁)と共通点があります。
吉治の断末魔の胸中に去来したのは、幸村(信繁)と同じ思いや父の姿だったのでしょうか?

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大谷吉治の画像はこんなのしか見つかりませんでした。

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