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〜真田丸:難攻不落の大阪城に真田丸、しかし鉄壁の守りも西洋の大砲には〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第44回放送『築城』では、エンディングにおいて壮大な真田丸の全容がCGによって描かれました。
真田丸は大阪城に築かれた出城に幸村が(もしくは後世の人が)固有にネーミングしたものです。
これによって真田幸村は、ついに悲願だった?城主となったと言えるでしょう。
そもそも戦国時代に外敵を防ぐために急速に発展した城の構造は、城の外郭に幾重かの堀が設けられており、日本ではそれが当たり前でした。
しかしそうした日本の城の構造が、異民族の侵入が少なかったことや山地が国土の大半を占めることなどの理由による日本固有のものだという事を認識していない人も多いのではないかと思えます。
日本では、大陸に見られるような高い城壁で防御された都市は一部を除いて発展せず、野戦用の防御施設として作られた「柵」や武士の居館を堀や櫓で防備した「館(やかた、たて、たち)」が、中世には山城へと発展して行きました。
ではなぜ日本では城壁都市が発展しなかったのでしょう?
それは日本語に「飛び道具」という言葉があることに象徴されると思えます。
私達世代は、子ども時代のチャンバラゴッコで「飛び道具なんか卑怯やわ!」と言ったような記憶が有るような無いような・・・・。
ようするに当時の日本では、「飛び道具」はほぼ想定外だったのです。
そもそも日本では攻撃者から離れた位置にある敵や標的に対して空中に飛ばす道具としては、手裏剣・苦内(くない)・和弓などしかなく、それこそ手で投げる石礫(いしつぶて・せきれき)の延長でしかなったのです。
ところが西洋ではそうではありませんでした。
古代欧州(シチリア)ではバリスタ式の物が紀元前4世紀初頭に開発され、古代ギリシャでもアレクサンドロス大王の東征において使用されており、旧約聖書でも第2歴代誌26章14節で投石機と見られる記述があのです。
そして中世になると、中央アジアや西アジアで改良が加えられ、オナガーやトレバシェットへと進化した。大型の火砲が登場しても安全性と威力の問題から投石機も併用して使用され続けた。日本においては、応仁の乱の際に「発石木」「飛砲」という投石機が使用された事が、雲泉太極の「碧山日録」に記録されおりますが、西洋のそれに比べれば、見劣りのするものだったようです。
このように海外では、早くから「飛び道具」が発展していましたが、日本では相変わらずチャンバラ全盛の時代が続きます。
例えば弓だけを日本と西洋で比べてみても、和弓と西洋の洋弓やクロスボウとでは、その飛距離において各段に和弓が劣ります。
それでも1543年には種子島に鉄砲が伝来しますが、日本ではこの単なる球形の鉛を銃弾とする旧式の火縄銃が戦国時代に長く使用され、威力・飛距離・使用条件などにおいて実戦に用いるには不便な点が多く、依然として槍や刀で向かって来る敵兵に対処できる城構えであればよかったために、西洋のような強固で高い城壁は発展しなかったのです。
その後、長篠の戦い(ながしののたたかい)頃から鉄砲が大々的に使われるようになりますが、それでも直線的な弾道による攻撃を防ぐには、土壁などによる城壁で十分であり、その射程距離などを保つには、堀(濠)を設ければ十分でした。
大坂冬の陣において前半戦では、真田丸を築き上げた真田幸村によって、徳川軍は大苦戦を強いられます。
ところが、やがて家康は、真田丸への攻撃だけに固執していたのでは戦況が長引くだけだと判断し、かねてより準備していた大砲を大々的に用いることで、あの強気一辺倒だった淀殿の住まう西の丸に砲弾を撃ち込み、その人知を超えた威力に恐れ慄いた淀殿は、徳川との和議に踏み切ったのです。
慶長19年10月2日(1614年11月3日)に、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に入った大坂冬の陣は、
慶長19年(1614年)の12月16日には徳川全軍より一斉砲撃が始められます。
北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられ、また芝辻理石衛門が作った大砲が使われた。この後者は世界的にも珍しい鍛造で作られた鉄製の大砲である。この大砲の実物は現在、靖国神社の遊就館に奉納されている。 その他、6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかったと伝わります。
大坂冬の陣における大阪城の惣構え
備前島から見た大坂城によれば、
「備前島」というのは現在の都島区網島町あたりのことである。現在も寝屋川、第二寝屋川、そして大川(旧淀川)が合流し複雑な地形を織り成すこのあたりだが、戦後の寝屋川水系整備と護岸工事で様相は大きく変わっている。今の地形からはその頃の風景は想像もつかないが、当時、河内平野を流れあがってきた大和川と淀川本流(当時)の合流地点にできた中州状の地形にそのような呼び名がつけられたのだろう。
ここは豊臣時代に石田三成の屋敷があった場所であるが、大坂冬の陣の際、徳川方がここから大砲で大坂城本丸を攻撃したことでも知られている。籠城戦を決め込んだ大坂方との和議交渉が遅々として進まないことに苛立った徳川家康はイギリス、オランダから買い求めた最新式の大砲、十数丁でここから天守閣目指して砲撃を命じたのです。 ちなみに図にある惣構堀の惣構えとは、
総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいいます。
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2016年11月08日
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