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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:大坂冬の陣に30万の兵が押し寄せるとどんな光景になるの?〜
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前回のページでは、大坂冬の陣前の大阪城に浪人が10万人集まったというのは、現代の東京ディズニーの人ごみ状態なのかなぁ?というお話をしました。

しかし大坂冬の陣を前にして大坂に集まったのは豊臣方の浪人だけではありません。それを攻める徳川方の武将は、ドラマの中で約30万人と語られていました。
甲冑をまとった武将・馬・篭・旗印・荷車・大砲などなど、それはそれは賑やかな光景だったと思われます。
それとは逆に、大坂の人々は逆に、他国に避難する動きがあった?(それは出来なかった?)かもしれません。

今回はこれを当時の人口から現代とも比較して考えてみましょう。

大坂の陣 - Wikipediaによれば、大坂冬の陣での両軍の数は、
徳川方 :約200,000 豊臣方 :約90,000
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人としています。
一言:浪人の数が10万人ではなく、豊臣方の総兵力が10万というのが正しいのでしょうか?)

10月23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こったようです。
一言:何十万もの兵が大坂に集結すれば、混乱が起こらない方が不思議です。)

ということは、大坂冬の陣前に集結した両陣営の人の数(兵の数ではなく)は、50万人以上だったのかもしれません。
また、近代以前の日本の都市人口統計 - Wikipediaによれば、1609年(慶長14年)に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロは、京の人口を30万〜40万人(本人の目算では80万人以上)、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人、堺の人口を8万人と伝えていますので、現在の大阪府の地域で言えば、兵とそれにかかわる人々や大坂の民を合わせれば100万人くらい?

仮にそうだとすれば、推計人口・世帯数 堺市に現在の人口が838,184人(2015年)と紹介されている大阪府堺市(政令指定都市)以上の人が現在の大阪府にあたる地域に集結していたのかな?
立体的なビルの無い時代のこれほどのボリュームは、今の感覚以上のものがあったと想像されます。
一言:ラッシュアワーにオフィスビル街を歩く人数くらいでしょうか?)

近代以前の日本人口統計 - Wikipediaによれば当時の日本の総人口(琉球以外)は1450万人〜1940万人と言いますから、日本の総人口の1/20(二十分の一)の人が大坂に集まっていたと考えられるのかな?

豊臣方の兵の数が、現代で言えば大阪府河内長野市(総数:108,680人)に匹敵し、両陣営の人の数と大坂の町民を合わせれば、現在の堺市以上の人数が大坂に集中し、戦いが行われたのが大坂冬の陣と言っていいのかもしれません。

因みに我が町橋本市の人口は 66,361人(参考:旧橋本市 52,539人・旧高野口町 13,822人)ですので、豊臣方の兵の七割にも満たないことになります。

兵力だけで比べても、関ケ原の戦いが両軍合わせて約15万人に対して、大坂冬の陣では約40万人、
文字通りとんでもない人数を巻き込んだ戦いだったんですね。

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〜真田丸:大坂冬の陣前の大阪城に浪人10万人って現代のディズニー状態?
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『NHK大河ドラマ 真田丸』』第43回放送『軍議』の中で淀殿は初(常高院)に対して徳川との最終決戦を前にして「今、この城に浪人たちが10万人いるのですよ。」と語りました。
ドラマの中でも雑兵は雑魚寝状態で、真田幸村を含めた名のある武将ですら相部屋であったことが描かれました。
この当時の大坂城に10万人の浪人が集まるということはどのような光景だったのでしょう?

例えば現代で言えば、東京ディズニーランド、シー合わせて一日の ...- Yahoo!知恵袋によれば、2013年度の東京ディズニーランド(面積51万m2)、シー(面積49万m2)合わせて一日の来場者数は、1日平均8万人以上とされています。
対して敷地面積が東京ディズニーランド+シーに比べて狭い大坂のUSJ(面積39ha=3万9千m2では8万人入った事は過去に2〜3度しかありません。
ゴールデンウィークやハロウィンなどの混雑する時で約6万人です。5万人を超えてくると入場制限かかるそうです。
しかし
現在の”大坂城”域は東が環状線大坂城公園駅〜森の宮駅に沿っていて、北は平野川沿い、西は大阪府庁の東、南が法円坂沿いに囲まれた東西1138米・南北923米の範囲とします。
この平面積は約1,05平方Kmです。
豊臣期の大坂城の最大範囲は、慶長19年(1614)の{大坂冬の陣}で徳川家康軍が包囲した範囲、いわゆる”惣構え”の範囲と考えますから、この東は環状線に沿って”玉造駅”まで、北は平野川・堂島川の左岸域・西は天神橋から南に向かう筋・南は玉造駅南から西に向う筋に囲まれた範囲となります。
この範囲は概算で2千米平方ですから4平方Kmであり、現在の城域面積で割れば、おおよそ3・81倍が大坂城であったと考えます。
ということは大坂冬の陣の頃の大阪城の惣構えの面積は、約40万m2ということになります。

つまり大坂冬の陣前の大阪城惣構えの面積約40万m2)には、
約10万人の浪人。
現代(2013年)の東京ディズニーランド+シー(面積約100万m2)には、
1日に平均約8万人以上の人。
大坂のUSJ(面積39ha=39万m2)には
混雑する日で約6万人の人。
ということになります。

しかもこれらを単純には比較できません。
大阪城には浪人だけではなく、その親族も供っていた者もいたでしょうし、浪人を慰める芸人や女性の存在もあったでしょう。加えて城内には女性や子供の姿もあったことでしょう。
それに比べて東京ディズニーランドや大坂のUSJの入場者数は老若男女を合わせた人数であり、一日を通して全ての人数がいたわけではありません。
その事を考えれば、これらの人数を比較するには少なくとも大坂冬の陣前の大阪城には、浪人の人数の数倍(20万人以上)の人が居たと思えます。
一言:単純に言えれば、大坂冬の陣前の大阪城には現代の普段の東京ディズニーランドの人数がひしめいていたと考えていいのでしょうか?ディズニーランドに行ったことないけどね。

当時は現代のテーマパークのように多数の飲食店などもちろんありません。
現代ほど豊食の時代ではないにしろ、この途方もない人数の食料(兵糧)や嗜好品(酒、菓子など)を確保するには想像を絶する周辺地域(あるいは全国)からの食料調達(略奪?)があったことは容易に想像できます。

『NHK大河ドラマ 真田丸』』の中では、幸村が到着するや堺の港を押さえ、大坂周辺の徳川方の兵糧を押さえるように進言していましたし、その後豊臣家の大野治長らは2年でも籠城できるなどと言ってましたが、そんなわけがないことは、これで想像できると思います。

皆さんは、大坂冬の陣前の大阪城内の人の密度を想像できますか?その武具の数を。

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