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〜旧我家解体記:外壁のモルタルと野地板を剥がし終わると次は土壁の除去〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
〜旧我家解体記:自力解体を決意した理由と2月14日の段階での解体状況〜や〜旧我家解体記:旧我家の2月12日の段階での解体状況です。〜でご紹介したように順次東西南北面の外壁のモルタルと野地板をはがし終えると、次にとりかかるのは土壁の除去です。
日付けは2月21日になっていました。(冬は本業が暇な時期です。)
住宅の壁を構成する土壁は、土を塗る下地として小舞という竹などの素材を荒縄などにより格子状に編み込んでつくられ、室内の保温や湿度調整に優れているといわれますが、手間と経費がかかるために、近年の民家ではほとんど用いられません。
このように近年では貴重となって来た土壁は、できれば残して家をリホームする出来ればよいのですが、電気・インターネット・電話・同軸ケーブルなどの配線が幾本も壁の中に通される近年の民家では、一般的な張りぼての壁と違ってケーブル配線が容易ではないことも現代建築に馴染みません。
そんな土壁を除去するとなると、その下地が柔軟性に富む竹小舞(一般的には竹巣とも言われる)が柱の脇に開けられた穴の中に差し込まれているために、ハンマーなどで叩いて壊そうとしても竹の柔軟性に吸収されて中々に壊れません。
そこで壁の端の土を取り除いて穴を開け、その穴に手を掛けて引っ張るか、土壁全体を押し込んで一面の壁を柱からちぎり剥がすように全身の力を使って強引に倒すのですが、竹小舞(一般的には竹巣とも言われる)を編んでいる様子の写真を見て分かるように、土壁の下地は竹だけではなく、板も組まれています。
この板をノコギリで切るか、大バールの先で突き折るかした後でないと、どれ程強引に壁を押しても引いても、人力では土壁は柱から引きはがすことはできないのです。
また、一面が一体となっている土壁は隣の家と隣接する箇所では家の内側に向かって倒さななければならず、倒すと酷い土煙が上がります。
当然土壁を壊す時には家の周囲にシートを張って、その土ぼこりがご近所に及ばないようにしての作業です。
密閉された部屋内は一寸先も見えないほどの土ぼこりで充満します。
鼻の穴はもちろん、体中がもう誇りまみれです。
(一言:頭は帽子を被っていますが、鼻の穴は真っ黒、まつげと眉毛どころか、顔全体が真っ白。その姿は玉手箱を開けた浦島太郎以下です。)
やっとの思いで土壁を倒した後は、その土壁の中から下地の竹小舞(一般的には竹巣とも言われる)材の竹を取り除かなければならないのですが、これが荒縄で編まれているために、実際には一本一本の竹を引き抜くように倒した土壁の中から取り出して行く作業になります。
当然土壁は外に接する壁だけではありません。
部屋を間仕切る壁や、襖の上の壁も全てが土壁です。
床から天井にまで届く巾約90センチ、高さ2メートルほどの壁だと2〜3面の壁を壊し、竹小舞(一般的には竹巣とも言われる)を取り除き、残る残土を一所に集積するだけで1日近くかかる誇りまみれの作業でした。
休憩や帰りがけには鼻をかみ、鵜飼を何度もしなければ、口の中が土でジャキジャキです。
中でも特に大変だったのが風呂場・台所・トイレです。
こうした水を使う場所は土の荒壁の上に、白い漆喰壁が塗られ、床の位置から腰辺りの高さまでタイルが張られている上に、風呂場は天井まで白壁が塗られています。
これを下から突き落すのですあから、作業者(私)に降りかかる災難が想像できると思うのですが・・・・。
そんなこんなで土壁を全て取り除くのに5日はかかったかな?いやもっと日にちを要したかもしれないのですが、何しろ休日や暇な日をみつけて飛び飛びの日に作業したのでよく覚えていません。
とにかく、とにかく誇りまみれでクタクタになった工程でした。
庭先は残材やゴミやガラクタでもうゴチャゴチャです。
外壁の中の土壁を除去しはじめているのに、玄関の近辺に外壁が残っていますが、
これは、玄関に向かって右の壁にガスと電気のメーターがあるために、これを各会社に依頼して取り外してもらった後でないと、壁を剥がすことが出来ないからです。
ガスや電気は怖いですからね。
外から見た土壁
土壁をブチ抜いて土だらけの室内から前庭側を見る
土壁の下地となる竹小舞(一般的には竹巣とも言われる)を編んでいる様子
土壁を壊した残土が床一面に残る室内
この画像から玄関を開けた途端に目の前に見えるお風呂場の入り口という
ありえない最悪に間取りがお分かりいただけると思います。
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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2016年11月18日
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〜真田丸:今福の戦いは鴫野の戦いの後、その戦場を現在の地図上で示せば〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』では、大坂冬の陣の前哨戦となった明石全登軍の守る木津川口の戦いに次いで、今福の戦いでも豊臣方が敗北しました。
【今福砦】今福は大坂城の北東にある水田地帯で、堤(自然堤防)以外は人馬が行動しづらいという地形だったそうです。
豊臣軍は東や京街道方面からの攻撃に備えて、その堤(今福堤や蒲生堤と呼んだ)に四重の柵(便宜上、敵にもっとも近い柵を第一柵と呼び、大坂城に近づくごとに第二・第三・第四柵と呼ぶことにする)を設け、守備隊600を置きました。
古い道筋として名高い京街道は、豊臣秀吉が文禄年間(1592年〜1597年)に淀川左岸の堤防を改修し、堤防上に陸路を開いたことに始まります。
当初は、大阪城の京橋口から出て相生町(現在の片町1丁目)を通り、野田町で鯰江川を渡って、現在の京阪モールの南側から鯰江川に沿ってさかのぼり、野江、内代、関目、森小路、今市を通って淀川南岸に達し、北河内を経て京の羅生門に至っていました。
この11月に放送されたブラタモリ「大坂城・真田丸SP」の放送の中で、この京橋辺りを当時通っていた京街道は、川が運んできた砂が堆積して細長く形成された自然堤防という地形の上に道が造られているために、敵方はこの堤の上の細い道を使って大阪城へと攻め込む場合、隊列を細くして進まなければならず、迎え討つ豊臣方としては、大軍が押し寄せたとしても、先頭の限られた数の兵から順次撃退すればよかったことが、大坂城を難攻不落としていることが解説されていました。
この今福方面に当時向かった徳川方の軍が、佐竹義宣軍です。兵1500を率いて1614年11月17日に大坂に着いていましたが、25日に今福に移動します。
そこに徳川家康から「明朝に鴫野(しぎの)方面に向かう上杉景勝と同時に攻撃を開始し、豊臣軍を撃退せよ」という命令が下ります。これは今福に付城(つけじろ:攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城)を築くためでした。
11月26日早朝、佐竹軍は渋江政光・梅津憲忠が兵を率いて堤を進み、第一柵に向かって激しく鉄砲を撃ちかけます。これを京街道から見ていた豊臣軍の部将・矢野正倫(やの まさとも)は兵を率いて仮橋を渡り防戦しますが、佐竹軍の勢いは止まらず、豊臣軍は仮橋を壊す間もなく撤退させられてしまいます。 正倫は奮戦しますが、撤退する途中に部下と一緒に討死してしまい、同じく守備隊を指揮していた飯田家貞も戦死してしまいます。 (一言:この今福の戦いの前に起こった戦いは、鴫野の戦いと言われます。)
これら大坂方の軍を排除した佐竹軍はそのまま片原町まで進み大坂城付近にまで迫ります。
この様子を城内で聞いた豊臣方の木村重成は一人で出撃し、その途中で部下の名前を呼びながら佐竹軍のいる片原町へ向かいます。
それを聞きつけた部下達は急いで重成の元に駆けつけ、佐竹軍に対峙します。
つまり木村重成は、出撃しながら自身の兵を呼び集めて行ったのです。
豊臣軍の数が次第に増えていくのを見た佐竹軍は不利と見て第二柵に後退。木村軍はそこに付け込もうとしたが、対岸の鴫野にいる上杉軍が射撃してきたので先に進めず、堤の下に伏せてしまった。この時、豊臣秀頼は後藤基次らと共に菱櫓に登り、これを見ていたが、基次が「今福での戦いは敗れようとしています」と言うと「重成を助けろ」と彼に命令した。
(一言:ドラマで描かれたように、幸村の指示により、木村重成と後藤基次が一緒に出陣したのではなく、豊臣秀頼と後藤基次が大坂城から戦況を見て後から基次が援軍に向かったのですね。) 基次が遊軍を率いて堤に駆け付けると、兵は3000にもなり士気が上がったそうです。
基次は木村軍の兵士達が敵の弾を恐れて伏せているのを見ると「戦いはこうするものだ」と、自ら堤の上に立って上杉軍に射撃をします。
(一言:ドラマでは出陣する前に、基次が重成に「戦の仕方を教えてやるよ。」と言っていましたね。)
これを見た兵士達は勇気づけられ一斉に堤の上に立ち射撃をしたため、上杉軍が逆に堤の下に隠れてしまいます。
ここで基次は重成に「秀頼様の命令なので自分と交代しよう」と言ったが、彼は「交代すれば足並みが乱れ敵に付け込まれるだろう。それに私は初陣なのでどうしても戦いたい」と譲らなかったそうです。
これを了承した基次は「木村軍はこのまま上杉軍を射撃してくれ。私は堤の下から攻撃する」と言い、船で水上を進撃します。 そして佐竹軍の前線が疲れた者を交代させようとして兵を堤の上に集めた時、その隙を突いて豊臣軍は突撃を開始。佐竹軍はこれに耐えきれず第一柵の向こうまで後退してします。この時、上杉軍からの銃弾の一発が基次の左腕を負傷させますが、命に別状はありませんでした。
(一言:ドラマでは出陣する前に、基次が佐竹軍から左腕に銃弾を受けますが、「撃たれてねえ。俺が撃たれてねえって言ってんだ。」などと言っていましたね。つまり命に別状はないと主張したんですね。)
佐竹軍は本陣の柵前で態勢を立て直し、部将・渋江政光が前線に立ち兵を励まし、その指揮により豊臣軍の進撃は一時止まりますが、基次が兵300を突撃させると、佐竹軍は再び後退し、政光も狙撃されて殺されてしまいます。
前線が崩れたことを知った佐竹義宣は大いに怒り、自ら刀を揮って指揮しますが効果はなく、旗本まで崩れ始めてしまいます。
そこで義宣は、やむなく上杉軍へ伝令役をよこし、助けを求めます。鴫野の戦いで豊臣軍を撃退させていた上杉景勝は同じ鴫野方面にいた堀尾忠晴らと共に救援に駆け付け、側面からの攻撃を開始。そのため、豊臣軍は支えきれないと判断し撤退を決め、城へと戻ったのです。 ところで、上記の文章の中に出て来る片原町という地名は現在では残っていません。
大阪地名の由来によれば、
京橋からはじまった京街道は東へ、旧相生町を進み、JR片町駅辺りから北に曲がる。
この相生町(現在の片町1丁))は昔は京橋片原町と呼ばれたそうです。 道の北側のみに人家があったからで、片町という名はこれに由来しているらしいのです。 参考のため以下に今福の戦いの後半の動きを、現代地図上での地名と位置関係を比較して示してみました。
今福の戦いの前半の動き
今福の戦いの後半の動きと現代地図上の地名との比較
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