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〜旧我家解体記:屋根部を取り外す工程では太鼓梁外しが超難関で危険〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
〜旧我家解体記:屋根瓦と屋根土を降ろせば、透け透けのスケルトンハウス〜では、壁や屋根材を撤去し終わり、スケルトン状態となた旧我家をご紹介しました。
皆さんは、以下の画像にあるような天井をあえて取り払い、曲がった木材をあえてむき出しにして見せているレストランなどをご覧になったことはないでしょうか?
恐らくそれらの多くは、古民家を改装してモダンな感じにしあげているのだと思います。
この曲がった樹木をそのまま使っているような木材は、太鼓梁(たいこはり通称ゴロンボ)といいます。
そもそも梁(はり)とは、柱や桁などの荷重を受ける部材として水平に設置される建築材です。
このうち梁(はり)には、その使われる場所によって概ね2種類に大別され、屋根の荷重を受けて下の柱に伝える役割を担う小屋梁と、床の荷重を受けて下の柱に伝える役割を担う床梁があります。
梁(はり)の種類を更にその用途によって分類すると、小屋梁、敷梁、二重梁、登り梁、火打ち梁、まぐさ梁などがあります。
建築材の部材名は、建築関係の仕事をされている方以外にはその部材名だけでそれをイメージできる方は少ないでしょう。
なので以下に建築部材の説明画像を紹介しておきます。
建物の部材名を説明する図
このうちの小屋梁や敷梁として使われる木材の内、特に加重が強くかかる箇所には、その形状上の分類名で言えば、主に太鼓梁(たいこはり)と平角梁の二種類が多く用いられます。
つまりこれら太鼓梁(たいこはり)と平角材梁は、垂直に加わる加重を水平に受け止める役目の部材の中でも、特に強度を持つ部材と言えます。
このうち樹木をそのまま使っているようなアーチ型の太鼓梁(たいこはり通称ゴロンボ)については、以下の画像の中の赤丸で囲って分かり易く示しました。
建築中の民家に見える太鼓梁(たいこはり)や平角材梁
赤円で囲んだ部材が太鼓梁、青円で囲んだ部材が平角梁
しかし近年の近代的な木造建築では、この太鼓梁(たいこはり)が使われることは少なく、増してや今日の工期を可能な限り短縮するために、ハウスメーカーで多用されるプレカット工法で使われることは少なくなりました。
プレカット工法とは、パソコン上で設計図寸法を入力するだけで各部材の寸法を算出し、工場の大型加工機で一軒の建築部材を前もって加工することで、建築現場でプラモデルのように図面に従って組み立てるだけで建築物を完成させることができる工法なのですが、このプレカット工法では機械的な計算や加工が難しいアーチ(太鼓)型の太鼓梁(たいこはり通称ゴロンボ)は、殆ど使われません。
ですがプレカット工法が普及する以前の木造建築では、一人前の大工さんは皆、高い経験値と熟練技を持ち、必ずと言っていいほど太鼓梁(たいこはり)を要所要所で用いました。
そしてこの太鼓梁(たいこはり)は、その形状だけでなく、材質にもこだわって、歪や硬度に優れた針葉樹の赤松材を用いるのが一般的です。
この赤松材について更に言えば、寒冷地で長い年月をかけて育つため、他の木材に比べて極めて密度が高く重いという特徴もあります。
前置きが長くなりましたが、50年前に建築された旧我家では、当然のようにこの太鼓梁(たいこはり)が用いられていて、これが一人で持ち上げるには、重すぎる部材でした。
以下に紹介している屋根部の解体が終わった旧我家の画像の中に、取り外した部材の名称も加えましたが、普通の四角い桁や梁、それに巾太の平板梁までは、一人でもそれほど苦労せずに取り外せたのですが、太鼓梁(たいこはり)の取り外しには、大変な苦労がありました。
ただでさえ柱の上に組まれた桁や梁などを外すには、以下の画面の下部に見える脚立の上に上がっての自由の利かない作業なのですが、太鼓梁は余りに重すぎて、その一方を肩に担ぐことすら耐えられるのは、ほんの数秒間だけでした。
解体中の旧我家
分かりにくいかもしれませんが、太鼓梁(たいこはり)・棟木・母屋などが建て掛けられています。
太鼓梁はを一人で地上にまで降ろすには、誤って太鼓梁を落下させてお隣の壁を傷めたり、その落下に巻き込まれて自身も地面に叩きおとされたり、更には自身が落下すると同時に太鼓梁の下敷きになる事故を避けるための下準備が必要です。
まずは外そうとする太鼓梁の片方の端の真下脇に、梁の高さより少し低い脚立を設置し、もう片方には太鼓梁の接合部の脇にハシゴを建てかけてた後に、脚立を脇に立てた方の接合部近くの端と、その端が組み込まれている相手方の梁をロープでしっかりと繋いでおきます。
これは、外した太鼓梁が誤って落下しても、そのまま全体が落下せず、片方だけはロープで繋ぎ止められていることで、大きな事故を防ぐための下準備です。
その上で太鼓梁の両方の継手部を下方から大ハンマーで叩き上げることで浮き上がらせて、隙間の空いた凹部にかまし物を入れます。
これで接合部は外し易くなり、脇に脚立を立て、ロープで繋ぎ止めていない方の接合部の脇に立てかけたハシゴに登ってもう片方の接合部も外して太鼓梁の端を肩に担ぎ、ゆっくりとハシゴから降りて行きます。
この時もう片方の接合部はその凸部が平角梁の凹部から徐々に外れて行き、ハシゴから降り終える以前に完全に外れてしまう可能性もありますの。
その場合ロープで繋ぎ止めているとはいえ、接合部が完全に外れればその繋ぎとめたロ^プの長さ分は落下して、強い衝撃と加重を担いだ方の肩に受けますので、太鼓梁に引き込まれて転落事故にならないよう回避動作が即座にとれるように心構えをしておかなければなりません。
慌てず、急がず、ゆっくりと、太鼓梁の重さに耐えて、地上までハシゴから降りきったなら、ロープで繋がっている方の端に近づいて行くようにしながらゆっくりと肩に担いだ方の一方を地面へと降ろして行き、残る平角桁に立て掛けるようにするのです。
きっとこのプロセスは文章では理解できないでしょうから、太鼓梁を一人で外す方法を図解で以下に説明しておきます。
一人での太鼓梁(たいこはり)の外し方を図解
以上のように太鼓梁(たいこはり)は大変重くて直線的な木材ではないために、一人だけの作業でなくても、建前(上棟)にしろ解体にしろ、その扱いには難攻しがちです。
結果的には事故もケガもなく太鼓梁(たいこはり)を外すことができましたが、普通は、クレーンが無ければ出来ない作業と言えます。
なぜなら例え旧我家のような比較的小さな平屋の太鼓梁でも、その重量は大変なものだということを、地面に降ろして見て初めて実感したのです。
この後太鼓梁を寝かせて移動させようとした時、私はこれを完全に浮かせて持つことができず、片方を両手で提げて後ずさりしながらもう片方の端を、やっとの思いで引きずることしかできなかったのですから。
これで一人きりの解体作業は峠を越えたと言いたいところですが、残念ながらまだまだ難関作業が残っているのです、これが。
屋根部を解体し終わった旧我家(人目線で撮影)
屋根部を解体し終わった旧我家(高さ4mから撮影)
屋根部を解体し終わった旧我家(高さ7mから撮影)
屋根部を解体し終わった旧我家(高さ9mから撮影)
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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2016年11月24日
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〜真田丸:標高78mにある?豊臣期の大坂城天守の鯱に、砲弾は届くのか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第46回放送『砲弾』では、徳川方の大筒から撃たれた砲弾が、大坂城天主の鯱(しゃちほこ)に着弾したことで、撃ち落とされた鯱(しゃちほこ)が淀殿の前を行く侍女たちの頭上の屋根を突き破って落下し、絶命してしまうという衝撃的なシーンが描かれました。
その映像から想像するに、砲弾は以下の図の赤色矢印ように飛来し、それによって撃ち落とされた鯱(しゃちほこ)が黄色矢印のように落下した後に屋根を突き破り、侍女の上に落ちたと言うのが、ドラマ上のシーンだったのではないでしょうか?
豊臣時代の大阪城に砲弾が飛来する図
豊臣時代の大阪城に砲弾が飛来する図の本丸を拡大
果たして当時の大筒は、大坂城天主の鯱(しゃちほこ)に着弾することが可能なのでしょうか?
備前島からの大阪城.には、
「大坂冬の陣の際、徳川方が当時、河内平野を流れあがってきた大和川と淀川本流(当時)の合流地点にできた中州状の場所にあった備前島(現在の都島区網島町あたり)から大砲で大坂城本丸を攻撃したことでも知られている。」との記述があります。
つまり大坂冬の陣において徳川方の大筒の砲弾が、大坂城北側にある大和川と淀川本流(当時)の合流地点にできた中州状の地形という低い標高の場所から放たれたことにより、上町台地の上に築かれた大坂城本丸の淀殿の居住間に居た侍女8人を殺傷したのです。
しかし〜真田丸:大坂冬の陣での着弾した砲弾の重さ・大きさ・射程距離を具体的に〜 でご紹介したように、その大筒の砲弾は、重さ約4㎏、直径わずか9cmほどの金属球であることから、ただ砲弾が命中しただけでは、8人が死傷するような被害になるということが考えにくいことから、
第46回放送『砲弾』では、その砲弾が大坂城天主の頂上にある鯱(しゃちほこ)に命中したことで鯱(しゃちほこ)が侍女の頭上に落下して侍女が死亡したという想定が描かれたのだと思われます。
これを図で示すと以下のようになります。
しかし大和川と淀川本流(当時)の合流地点にできた川の中州から上町台地の上の大阪城天主の鯱(しゃちほこ)までは、700mの距離ばかりではなく、相当な標高差があったと思われます。
いったい大和川と淀川本流(当時)の合流地点にできた川の中州から上町台地の上の大阪城天主の鯱(しゃちほこ)までは、どれほどの標高差があるのでしょうか?
上町台地 - Wikipediaによれば、
「(上町)台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、・・・・・」と記されています。
「昭和34(1959)年、大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社は、「大坂城総合学術調査団」を組織し、大阪城の謎の解明に乗り出しました。その調査のなかで、・・・・・地下7.3mの位置で石垣が発見されました。。」という記述と、以下のような図が紹介されています。
このことから上図にある豊臣時代の大阪城天主の建つ地盤が、上町台地 - Wikipediaに記されているところの上町台地の最も高い標高38メートルの大阪城天守閣跡だとするならば、豊臣時代の大阪城天主の頂点にある鯱(しゃちほこ)は、標高約78mの位置にあったということになります。
果たして当時の射程距離1km前後の大筒には、その砲弾が放物線の弾道を描いて、700m離れた標高差78mの標的に当てうる性能があったのでしょうか?
大筒設置にあたっては、砲台を築いたようですが、恐らくその砲台の高さは、20mに達することはなかっと思われます。
残念ながら砲弾の性能を科学的に知りうる能力の無い私には、少なくとも豊臣時代の大阪城天主より約20m高い、徳川時代の大阪城天主の鯱(しゃちほこ)よりは届きうる可能性は高い。
としか言えません。残念!
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