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〜真田丸:真田幸村(信繁)の息子の大助と大八には、なぜ「大」の字が?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第46回放送『砲弾』では、大坂冬の陣において徳川家康が、真田信尹に対して「真田左衛門助を調略せよ!」と命じます。
当初は家康の命令に応じなかった信尹でしたが、結局家康の言葉に押し切られる格好となり、信尹は大坂城?(いや、真田丸かな?)に入り、幸村(信繁)と久々の対面を果たし、しばしの語らいの中で、信尹は「源三郎の息子たちに合うてきた。」と語り、信之の息子たちの話に及びます。
この時幸村は、「私の息子たちにも会っていただきとうございます。・・・・・大助と大八でございます。」と自身の息子の名を口にします。
ということで、今回のテーマは、真田幸村(信繁)の二人の息子、大助と大八の名前についてです。
皆さんはこの二人の名を聞いて、何か思うことはありませんでしたか?
それとも、何も思うことなく聞き流したでしょうか?
私はこう思ったのです。
「なぜ幸村(信繁)の二人の息子には、『大』の字が使われているのだろう?」と。
この戦国時代の武士には、親からの同じ一文字を受け継いだ兄弟たちの例がよく見受けられます。
例をいくつか挙げましょう。
といった具合に。
にもかかわらず真田信繁(幸村)の子は大助、大八なのです。
「信繁の子ならば『信』か『繁』の文字を使った名をつければいいのに。」と思ってしまいますよね。
ですが『信』の字は真田の嫡男:信之の子らに受け継がれています。
なので次男である信繁(幸村)が、その子に『信』の字を使うことははばかられたと想像がつきます。
であるならば『繁』の字を使えばいいと思いますが、『信』でも『繁』でもない『大』の文字を使っていることに疑問を持つのです。
そこで改めて考えてみると、上記した戦国時代の武士で、親からの同じ一文字を受け継いだ子らの例として挙げた親たちは、次男である信繁(幸村)とは違って、彼らは本家の嫡男だからではないかと思ったりもしますが、これがハズレで、織田信長・北条氏政・武田信玄・毛利元就らは嫡男ではなく、いずれも次男なのです。
信長の兄は側室の子だというので家督相続権がなく、北条氏政・武田信玄・毛利元就らの兄は幼くして、もしくは若くして亡くなっているために、次男らが次期当主として家督を相続したのです。(大阪の陣に参戦した長曾我部盛親は4男にもかかわらず、家臣らによりお家再興の希望を託された。)
ということで、真田信繁(幸村)がその子に自身の名の一文字を与えなかった理由を、別の観点で見つける必要があるようです。
そこで当初の考えを棄て、改めて信繁(幸村)の父:昌幸の例で考えてみると、昌幸は真田家の三男であり、その子である嫡男:信幸(後に信之)には『幸』の一文字を与えるものの、次男には『幸』の字
を与えず、二人の兄弟には共通の『信』の一文字を与えました。
この『信』の一文字を与えた理由を考えた時、以前にも私の考えを記したことがありますが、「昌幸の兄であり、真田家本来の嫡男であった信綱の『信』を我子に与えたと思われます。」という内容の記述をしたと思います。
じゃあ信繁(幸村)は自身の子に誰からの?それとも何からの?一文字をもらって『大』の一文字を我子らに与えたのでしょう?
大きく逞しく育ってほしいと思ったから?
それともいずれは大名となってほしいから?
それともそれとも、九度山に幽閉中にかつての大坂城での華やかな生活を思い焦がれたから?
いずれの『大』も自身の願望を子供に押し付けたような一文字ということになり、武将として褒められない命名動機だと思えます。
ここで一つ言っておかなければない事実があるのですが、大助・大八の両者とも彼らが幼かった頃の名、つまり幼名であり、大人としての二人の名については、大助は幸昌、大八は守信という名に改名されました。
なので信繁の二人の男の子の名は、幼名において『大』の字が共通するということになるのです。
そこで子供が幼い時に大きな存在となるのは、母です。つまりドラマ上の春こと竹林院の存在が『大』の一文字にかかわっていると思えなくもありません。
思い出して下さい、春の父は誰でしたか?そうです、大谷吉継です。
思うに私は、信繁(幸村)は自身が嫡男ではないことから、妻の血筋であり、関ケ原の戦いで子供たちを戦場の場から逃して散った大谷吉継の血筋の子供たちとして、自身の子らに大谷の『大』の一文字を引き継がせ、妻:春(竹林院)もそれを望んだのではないかと。
しかし、大坂の陣での活躍の後に日の本一の武士(もののふ)と称されたことで、信繁(幸村)の子らは、母の血筋(大谷吉継の血を引く子)とするのではく、父である真田信繁(幸村)の家(真田家)の子として、一族の中でも有能な武将だった昌幸の名の一字?だけではなく、『昌』と『幸』の二文字全部をもらった大助は、昌幸ではなく幸昌となり、大八は、叔父である信之や大叔父である信綱の名の『信』をもらって守信と改名したのではないかと。
結論です。
真田信繁(幸村)の子である二人の男子の幼名、真田大助と真田大八の『大』の文字は、大谷吉継の『大』の一文字を受け継いだ名、だった!!・・・・・・のではないか?と。
昨今は何だか紗理奈・真理亜・麗奈・譲二・拓斗などの、それって大和ナデシコや日本男子の名か?と思える名を我子につける親が多すぎる!
それってオシャレか?グローバル化か?・・・・実に嘆かわしい!と、思えます。
そこで提案です。
これからパパ?ではなく父となる男子諸君!!これから生まれ来る我子がもしも男子なら、「我家の長は俺だ!我子には俺の名の一字を与えるのだ!」という気概を持ってほしい。
ねっ、そうしてあげて、お母さん。お願いだから。
敵前で高砂を踊る真田大助(演者:浦上 晟周 (うらがみ せいしゅう) さん)
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2016年11月26日
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〜旧我家解体記:大型の出窓サッシを壊さずに一人で外した方法をご紹介〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
以前ご紹介した〜旧我家解体記:自力解体を決意した理由と2月14日の段階での解体状況〜では、以下のような旧我家の台所に大型の出窓があることをご紹介しました。
出窓に限ったことではないのですが、アルミサッシは建築部材の中でも思った以上に高価なものです。
普通の民家で一番高価なアルミサッシと言えば、普通は玄関サッシで、その次くらいに高価なのが、出窓サッシです。
旧我家の台所に設置されていた大型の出窓サッシで言えば、
価格は約15万円、寸法はおよそ巾190㎝×高さ100㎝×奥行50㎝の大型のものでした。
普通はこれを壊すことなく再利用しようと考える人は少ないと思いますが、なにせ高価なものですから、私はこれを壊さずに外したいと考えました。例によって一人で。
そうなると普通のガラス戸を外せば、軽いアルミ枠だけになる窓サッシとは異なり、出窓サッシは庇部や棚部などが一体となった立体的なものであることと、玄関サッシとは異なり、床面より約1m前後の高い位置に設置されているものです。
旧我家の出窓サッシは、巾190㎝と大型であったことと、本体の底部が床面から約140㎝ほどの高い位置に設置されていたために、これを一人で損なわずに取り外すには工夫が必要でした。
どうすればこれを一人ではずせるだろうか?と数日間考えた結果、脚立と幅広で厚みのある板をそれぞれ2つ用意すればなんとかなると思いたったのです。
旧我家台所の出窓サッシ
大型の出窓を一人で外す方法をご紹介する前に、先ず出窓サッシがどのように設置されているものなのかを説明しておきます。
以下の家の内側jから設置済みの出窓サッシを見た設置されている出窓サッシを室内から見た画像をご覧頂くと、出窓と言ってもその底面は、壁の厚みの内側にまで入り込んでいることがわかると思うのですが、いかがでしょう。
以下の旧我家から取り外した大型の出窓サッシの画像を見て頂くと分かるのですが、出窓サッシはサッシ枠の内、底面だけが出張っている構造で、この底面を柱(もしくは間柱)と柱(もしくは間柱)の間に水平にはめ込まれた平割材の上に乗せる格好で設置されます。
設置されている出窓サッシを室内から見た画像
旧我家から取り外した大型の出窓サッシ
以下の画像は出窓サッシの周囲にある木材がどうなっているかを説明するものです。
そしてその設置施工は、サッシの外枠の寸法に組まれた木材の開口部に外側からはめ込むかたちで設置されます。
ということは、これを外側に引き出すことで外すことが出来るということです。
もちろんそれ以前にこれを固定しているビスや釘を抜き取ることは当然必要ですよ。
ここまで理解して頂いて初めて、出窓サッシを一人で外す方法をご紹介することができます。
出窓サッシの周辺にある木材を説明する画像
さてやっと、大型の出窓サッシを一人で取り外す方法ですが、旧我家の場合、裏側にはブロック塀で北側にあるお隣さんと隔てられていました。
このブロック塀を利用することで、出窓サッシは一人でも取り外せます。
以下にのその方法を図解で示しているのですが、文章説明を加えます。
外壁を構成するもの(モルタル・土壁・間柱・筋交い)などを取り除くと、室内からブロック塀の天部に向かって木材などを掛け渡すことが出来るようになります。
そこで【大型出窓サッシを一人で外す手順】です。
手順1 出窓サッシのガラス窓を取り外します。
手順2 出窓の底面の巾寸法の内側になるように脚立を室内に二つ立てます。
手順3 室内の脚立と室外のブロック塀の上面の間に、出窓サッシの底面の下の位置に来るように
丈夫な平板を掛け渡します。
手順4 出窓サッシの外枠の、これを固定しているネジや釘を抜き取ります。
手順5 出窓サッシを、底面下に掛け渡された平板に乗るように外側へと真っ直ぐに外します。
手順6 ブロック塀は背丈ほどの高さがあるため、平板の上に乗った大型の出窓サッシを外で降ろす
ことは、高すぎ不可能なため、室内へと引き込むために邪魔な、出窓サッシが乗っていた
平割材を外します。(ブロック塀は背丈ほどの高さなので、そこに掛け渡された平板の上に乗
る出窓サッシを室外で地面へと降ろすことは不可能。室外の地面は室内より基礎コンクリー
ト分以上低いこともあり。)
手順7 出窓サッシを室内に引き込むには、これがはめ込まれていた両側の柱が邪魔なので、出窓
サッシの左右のどちらか片方だけを更に外へと押し出して左右斜めした上で平板の上を滑ら
すように引き込み、柱の間をすり抜けさせます。
手順8 平板は、出窓の底面下の位置に室内から掛け渡されているので、室内に引き込んだ時点で
設置されていた高さより低い位置、旧我家の場合は背丈ほどの高さのブロック塀から平板が
徐々に低くなるかたちで室内の脚立に掛け渡されていたので、室内に引き込んだ時点で
90㎝ほどの高さにまで降りてくるので、これを平板の上から降ろします。
手順9 後は車の荷台へと運ぶだけ。で、取り外し完了。
以上の説明と以下の図解でご理解いたけるでしょうか?
こんな情報、どなたか参考にされて自身で実行される方がおられるんでしょうか?と、我ながら思ってしまいます。
現在の我家には、解体した柱類やサッシ類などが持ち帰ってあり、現在それらの部材を使ってガレージ倉庫とその二階部に部屋を建築しています。
今回取り外した出窓サッシも、どこかで再利用する予定です。
ちなみに私の職業は、大工さんではありません。あしからず。
大型の出窓サッシを一人で取り外した方法の図解
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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