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〜真田丸:濠の埋め立てなどの和睦が無くとも豊臣の勝利は無い!ホントに?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第47回放送『反撃』において、徳川軍による砲撃により、大坂城に立てこもる豊臣方は、家康からの和睦の申し入れを受け入れ、濠や真田丸はことごとく破壊されるというストーリーが描かれました。
この大阪冬の陣においての和睦により、まんまと家康の術中に入った豊臣方に、もはや常識的には勝ち目はなくなったと言えるでしょう。
ただしその後の夏の陣では、幸村の捨て身の戦法により、家康を土壇場まで追いつ詰め、あわやという瞬間もあったことも確かなようです。
そして冬の陣においても、もしも豊臣方が和睦に応じず、濠や真田丸が無事であったなら、豊臣方にも十分な勝機があったと私達大阪方の者は考えます。
ですが世間一般には、例え和睦がなかったとしても、徳川方の勝利は揺るぎなかったというのが大方の見方です。
その理由の根拠は、
1. 仮に何らかの方法で徳川方の大将である家康を討ったとしても、既に将軍の座は秀忠に移行している。
2. 日本の(いや世界の)籠城戦において、籠城側が勝利したという実例が皆無に等しい。
というものです。
そもそも日本の戦国時代において、籠城戦で勝利した事例は、真田昌幸率いる、真田軍が、徳川軍に勝利した2度に渡る上田合戦のみ!と言っていいでしょう。
しかしその勝利にも、特定の理由があったからこその勝利だというのが、一般的な見方です。
以上の理由から、大坂城籠城による豊臣方の勝利は100%無い!というのが常識となっています。
果たしてそうでしょうか?
ということで、今回は、
大坂冬の陣で豊臣方が和議に応じなかったとしても、豊臣の勝利は無い!それってホント?
についてじっくりと考えてみたいと思います。
まず最初に籠城戦において勝ち目が無いとされる理由について触れておきます。
多くの場合、籠城を選択する軍は、なぜ打って出る選択をとらないのか?というと、それはもう戦力において明らかに敵方が優っているために、そうせざるを得ないというか、そうするより選択肢がなく、打って出ることは自殺行為だからです。
更に言えば、戦力に明らかな差が有る以上、長期戦になれば籠城側が戦力・戦闘意欲・食料などの消耗により、いずれは敗北となる。
これは私としても認めざるを得ない事実と言う他はありません。
ただし、両軍の間に新たな戦力(例えば援軍や旧豊臣家家臣の徳川方からの離反)・不可抗力(例えば第三勢力の発生、この場合では伊達政宗がこの期に乗じて天下取りに動く。無防備な家康や秀忠本陣を背後から浅野軍の一派が攻めるとか)などが発生した場合は、例外的に籠城方が勝利することがあるのです。
(一言:例えば冬の陣の最中に大地震が大坂を襲ったとしたら、それは大坂城に大打撃を与えるだけで、豊臣方に有利には働かないでしょうが、関東で大地震や大津波が襲ったなら、湿地帯を埋め立てた地域の多い江戸には大打撃となり、徳川軍はひとまず帰還し、休戦となるでしょう。そんな有り得ない設定が戯言と言い切れない程、当時の日本では大地震が多発した時期でした。)
真田昌幸が徳川軍に勝利した2度の上田合戦には、正にそうした因子があったからだと分析されています。
まず第一次上田合戦においては、徳川軍7,845の兵に対して上田軍は2,000でした。
家康はこの第一次上田合戦の前に秀吉軍と対峙した小牧長久手の戦いにおいて、後方の敵(北条)と和睦し、勝利に近い戦果をあげます。
その和睦条件として家康が提示したのが、真田の城であった上田城の北条への引き渡しを、真田に無断で約束し、それに激怒した昌幸との間に起きたのが第一次上田合戦でした。
戦力において3倍以上の徳川軍は、大名ですらなかった小国の国衆だった真田を虫けらほどにも思わず、力攻めで一気に大軍で攻めれば負けるはずがないと侮り、昌幸はその徳川軍の驕りと地の利を生かして自陣深くまで敵軍を誘い込み、一気に殲滅したのです。
もしも徳川軍が昌幸の軍略による誘いに乗らず、長期戦となっていれば、まず真田軍の勝利は無かったでしょう。
更に、関ケ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦では、秀忠率いる徳川軍(秀忠軍)38,000に対し、真田軍はわずか2,500〜3,000でした。
一次上田合戦のおりの戦力差など比べることも出来ないほどの10倍以上の戦力差がありながら、それでもなお真田軍が勝利できたのは、敵方の大将である秀忠が初陣であったために、戦術や実戦における鉄則を全く理解できず、昌幸の恐ろしさを父の敗北から学び取ることなど考えもしなかったために、一次上田合戦での家康以上の過ちをおかし、多大な兵を失うはめになります。
この真田軍の勝利には、徳川軍にあった真田信之の存在も多きかったでしょうが、それでもやはり長期戦になっていれば、秀忠が大将であるにしても勝てたかもしれません。
ですが秀忠軍は家康からの関ケ原の本戦への参戦を催促する伝令に応じなければならないという時間的制約もあって、真田軍への反撃も出来ぬまま、上田を経ちました。事実上の敗北です。
以上のことから、大坂冬の陣においても、例え豊臣軍が徳川軍による砲撃に屈して和睦に応じず、濠の埋め立てや真田丸の破壊がなくとも、長期戦となれば、徳川軍の勝利は間違いないとされるのです。
果たしてそうでしょうか?
大坂冬の陣における徳川軍の兵力は豊臣軍のおよそ2倍(10万対20万)ですから、上田合戦に比べれば大した兵力差ではありません。
豊臣方は浪人の寄せ集めかもしれませんが、勝利の暁に大望(お家再興やきりシタンの安堵など)を望む意気を持つ者の集まりであるのに対して、徳川方は実戦の経験がない兵が大半を占める素人集団です。
ですが籠城側にとっての問題は、兵粮や武器の枯渇と、城内に女・子供も多数存在するということでした。
特に真田丸によって手痛い目にあった徳川軍が戦法を変えて、砲撃を開始したことで、女・子供の心理は大きく揺れたのです。
もしも城内には男子の兵しかいなかったとしたら、例え敗北が決まっている戦いにおいても最後まで和睦には応じなかった可能性も大いにあります。
ですが籠城には女・子供は付き物です。
家康はそのことも当然わかっていたからこそ、大坂城に向けて激しい砲撃を加え、豊臣方の弱い存在に精神的ダメージを与えようとし、更に悪いことに淀殿の近くに砲弾が命中してしまったために、家康の目論む和議は成ったのです。
従ってその意味においては、残念ながら、大坂冬の陣における和睦は必然と言っていいのかもしれません。
しかしここで問題にしているのは、
大坂冬の陣で豊臣方が和議に応じなかったとしても、豊臣の勝利は無い!それってホント?
というものです。
もしも淀殿が砲弾の脅威など解せず、「わらわに家康がごとき者による砲弾など当たるはずもない。」と言い切るほどの女傑であったとしたなら、城内の動揺を抑え込み、濠や真田丸の消滅もなく、戦闘は続けられたと言えなくもありません。
ただしその場合でも、豊臣方が勝利を得るには、「一定以上の長期戦に縺れ込むことなく、敵の中枢を叩くことが出来たなら、あるいは・・・・」の限定条件が付くことは間違いありません。
ですが徳川方にも戦況を長引かせたくない理由がりました。
大坂冬の陣での徳川方は、豊臣方との戦いだけではなく、冬の寒さもまた大いなる敵であり、戦況が長引けば長引くほど、寒さは徳川軍の指揮を低下させて行く大きな要因になっていたのです。
そこで大きな意味を持って来るのが豊臣方の真田丸の戦いにおける大きな戦果です。
大坂冬の陣の開戦当初、幸村による「家康のいる伏見城へと打って出るべきだ。」という策を受け入れなかったのは、幸村の兄:信之が徳川方にいたがための幸村に対する不信感(徳川方の内通者ではないか?)からでした。
しかし、真田丸の戦いにおける大勝利は、その不信感を払拭するものになっていたはずです。
だとすれば、例え砲弾がその後も大坂城へと撃ち込まれ続けたとしても、早急に大坂方の武将が一丸となって策を講じ、夜襲なり、奇襲なりを図って家康本陣に至る可能性は十分有り得ると思えます。
で、仮に家康を討てたとして、その後徳川方は一時の混乱は生じるものの、秀忠を大将として態勢を整えることが出来るのかが最大の問題となります。
そこで次回は、
真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?を記したいと思います。
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2016年11月29日
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