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〜真田丸:本当に幸村は戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いだった?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の最終回では、ついに幸村(信繁)が家康の目の前まで迫り、今正に廻りで家康を撃たんとした時、家康は周辺の家臣に対し、 「手を出すな!」と一喝すると、
今度は幸村(信繁)に対し、
「・・・・わしを殺したところで、何も変わらぬ。・・・・戦で雌雄を決する世は、もう終わった。お主のような、戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いは生きて行くところなど、何処にもないわー!」と言い放ち、
幸村(信繁)は「そのような事は百も承知、・・・・」と声を荒げました。
ですが家康がドラマの中で言ったように、果たして幸村(信繁)は「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」だったのでしょうか?
戦国時代が終わりを告げ、大平の世では、幸村(信繁)は生きて行けない男だったと。
私はそうは思いません。
そうした事をドラマではなく家康も実際に幸村(信繁)に対して抱いていたとしても、それは昌幸・幸村(信繁)の親子二代に渡って苦しめらた家康の、主観にしか過ぎないと私は思います。
むしろ幸村(信繁)は、太平の世にこそその知力を生かせる武将だったと思えるのです。
ではなぜ幸村(信繁)は、一見「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」に見えるような、修羅の道を選んだのでしょうか?
兄:信之がかつて「心優しく、物静かで言葉少なく、腹を立てる事も少なかった」と称した程に、幸村(信繁)はおよそ戦いに生きる人物ではありませんでした。
それを「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」にしてしまったのは、他ならぬ家康だったと皆さんは思いませんか?
これまでに当ブログで何度も記したよに、幸村(信繁)の父:昌幸は、戦国時代随一の知将でありながら、天下や領地の拡大などは望ます、真田一族とその里を守るためだけのために、時の覇権を握っていた信長・秀吉・家康らに抗い続けた人生でした。
にもかかわらず、長年に渡って真田の里を再三脅かし続けたのが家康だったと言えるでしょう。
真田一族とその里を守るためだけのために戦い、その安堵を得んがために豊臣方に付いた昌幸・幸村(信繁)親子を、家康は徳川に背いた大罪人として九度山に幽閉し、ついにその地で昌幸は、失意の中で哀れに生涯を閉じます。
そんな勇猛だった父が惨めに生涯を閉じる有様を、どうすることも出来ずに13年間に渡って見続けた幸村(信繁)は、そうさせた家康を撃つ事だけに執念を燃やす阿修羅となったのです。
言い換えれば、「心優しく、物静かで言葉少なく、腹を立てる事も少なかった」幸村(信繁)に、烈火のごとき怒りを与え、悪鬼・羅刹のごとき武将に変えたのが、家康だったのです。
そうは思いませんか?
もしも太平の世に信之と共にあったとしたら、幸村(信繁)は嫡男:信之を生涯を掛けて補佐し続け、幸せな人生を歩んだに違いありません。
そして今日の人々が真田幸村(信繁)という武将に強く引かれるのは、「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」ではなかったにもかかわらず、そう生きなければならなかった彼の思いを、知らずし知らずの内に理解しているからだと思えるのです。
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2016年12月21日
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