カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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『カメラとビデオを棒にくっつけて』という題名のブログ
Attach camera or video to tip of a pole
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棒は高さ9mまで伸びます。だからブロガーネームは『上から目線』です。
My blog name is"The eyes from the top"becauce the pole lengthens to 9 meters.
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下記以後のページ紹介は、− 目 次− ブログ名部門(23)
真田丸:秀吉唯一のキリシタン弾圧(日本二十六聖人殉教)のきっかけとは?
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真田丸:イスパニア船のサン=フェリペ号の漂着で秀吉は全ての積荷を強奪
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真田丸:、淀殿は枯木になった秀吉に散り花を咲かせようと、花咲か爺を・・・
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真田丸:稲の子百助(信政)とおこうの子 仙千代(信吉)の同年誕生はある?
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真田丸:真田丸』第30回放送『黄昏』は豊臣政権のターニングポイントを描き
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真田丸:指月伏見城が実在と確認されたのは『真田丸』直前の2015年
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真田丸:秀吉に伏見に築城を命じられた昌幸は、木幡山に出城を築くことを
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真田丸:慶長伏見地震は文禄5年に起きているのになぜ慶長と?改元とは?
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真田丸:細川忠興は羅刹ではなく名将なのか?ならばなぜガラシャは
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真田丸:聖母マリアの絵札を抱いてキリシタンになるのか?きりタンだけに
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真田丸:プチ信長の細川忠興と逆臣の父を信じる妻ガラシャは苦悩の生涯を
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真田丸:信之はダブルヘッダーでおこうと稲、二人に子をなした。ホントに?
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真田丸:呂宋助左衛門と千利休とルソンの壺と隆清院と信繁はどうつながる
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真田丸:信繁とたかの子 直は秋田の藩主に見い出され、弟と真田家再興を
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真田丸:たかこと隆清院と信繁の娘は真田の方とは名乗れずお田の方と
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真田丸:たかは、信繁の側室となることで難を逃れた?二人はプラトニック?
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真田丸:秀次やその娘たかがキリシタンのように描かれた意味とは
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真田丸:おさらい。豊臣秀次が暴君でもおバカでもなかったという根拠
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真田丸:うーっ、そう来たか。きりは秀次の側室にならず、信繁は春とたかを
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真田丸:秀吉が秀次に対し赤子の拾に九州を望んだ理由、お分かりですね
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真田丸:『秀吉の明国支配があれば、秀次や秀保は関白として』という仮説
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真田丸:ドラマでは病死して隠密裏に葬られた豊臣秀保、しかし実は・・・
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真田丸:昌幸、信之、信繁は官位を得たことで何を得、何を失た?
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真田丸:稲の聚楽第行き拒否。秀吉の人質政策こそ豊臣滅亡の原因かも
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真田丸:秀吉が棄を失い、二度と子を失うまいと第二子を拾としたって本当?
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真田丸:とりは大往生を延期してまで言って聞かせたのに、早くも信之は
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真田丸:とりはあの世への旅立ちを延期して、信之と信繁に真田の未来を
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真田丸:棚ぼた関白秀次は、男子誕生とその死に秀吉を恐れ涙し、きりは
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真田丸:『瓜売』で描かれた茶番で三谷さんは秀吉政権末期の姿を描いた
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真田丸:ドラマでは「明国を攻めるのは仕事を与えるため」と秀吉が語るが
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真田丸:もしも秀頼が秀吉の子ではない事を、秀吉や寧も容認していたなら
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真田丸:秀吉は鶴松の死にしょぼくれて茶々に抱き着き、結果秀頼が
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真田丸:あっ出たわ、秀次が突然側室集団をカミングアウトしてきりに求婚
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真田丸:秀頼の誕生後も秀長が健康で長生きなら、ひよっとして豊臣は
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真田丸:棄の死で豊臣は初代で終わると家康や昌幸は予感して
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真田丸:秀次は多くの側室を迎えました、それは単に女好きってこと?
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上記以前のページ紹介は、−目次−ブログ名部門(21)
〜真田丸:信繁とたかの子 直は秋田の藩主に見い出され、弟と真田家再興を〜
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 

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豊臣秀次は1595(文禄4)年、秀吉によって自害させられました。
そして秀吉は、豊臣内部での家督争いを防ぐために、8月2日に秀吉は秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首されます。
秀吉の姉であり秀次の母である:智(とも:瑞龍院、秀次の供養の為京都の嵯峨野に瑞龍寺を建立し、菩提を弔いました。
斬首された者の中には、正室:一の台の姿もありました。
しかし、秀次の正室:一ノ台を母に持つたかと姉の2人らは難を逃れ、真田信繁の側室:清院となります。
やがて秀吉は病死し、これを好機とみた家康は豊臣家に反旗を翻し、天下分け目の関ケ原の戦いにおいて徳川軍が勝利し、敗れた豊臣軍は本拠地:大阪城で徳川軍を迎え討つこととなります。

大坂の陣が始まる前の1614(慶長1910月13日、清院は娘:を連れ、信繁(幸村)・嫡男大助らと共に大坂城に入城します。
11月に大阪冬の陣が起こり、その後和睦により収束した後もしばらくの間、信繁、大助、清院田らは大坂城で過ごします。
しかし、翌年の1615(慶長20)年3月には清院大坂城を出、秀吉の実姉であり、がいる京都嵯峨野の瑞龍寺に身を寄せます。
家康が和睦の条件だった大阪城の外濠を埋めると、更に内堀までもを埋めたことで、再び徳川が大坂城を攻めることが目に見えていたからです。

この時、隆清院は2人目の子供である信繁の三男:幸信を身籠もっていました。
瑞龍寺に身を寄せた理由は、出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親:智(とも:瑞龍院隆清院にとっては夫の母、つまり義母だからです。
案の定4月下旬には再び徳川が攻め入り、大坂夏の陣が起こり、信繁は孤軍奮闘しますが、5月7日ついに力尽き、信繁は討ち死にします。
翌5月8日には豊臣秀頼が大坂城で自害し、豊臣氏は滅亡します。
大坂夏の陣が終わり、徳川方によって残党の捜索が行われ、京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、隆清院は姉を頼って梅小路氏に身を隠し、娘のは町人の格好をして居場所を転々とします。
7月、隆清院弟となる幸信を産みます。
町人の格好をして居場所を転々としていた捕らえられて、身柄を江戸へ送られますが、伯父である真田信之が幕府に掛け合ってくれたのでしょうか、人質として大奥勤めをするというもので、比較的軽い処分でした。
は十五、六歳の少女だったが、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。菊亭大納言晴季の血筋と言った方がよいのかもしれない。

一方、母:隆清院は梅小路氏と結婚した姉のもとで匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで左馬之佐(幸信)を産んで育てていました。
大奥に入ってから3年が過ぎた頃、は大奥を出ることを許されます。
そしては、江戸から京へと向かい、母:隆清院と再会を果たします。

京についたは大奥勤めの経験を買われて、四条のある屋敷に給仕人として入ることになりました。
その頃京には出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主の佐竹義宣が1626(寛永3)年6月の大御所徳川秀忠、または同年8月の将軍徳川家光の上洛に随行しましたが、弟である宣家も行動を共にし、3ヵ月近く京都にいました。
ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、義宣が目を覚ますと勇ましい掛け声が聞こえてきました。義宣が掛け声がしている方に行ってみると、屋敷の裏庭で大勢の下女達が長刀の稽古をしていました。
そこでは、鎧兜に身を固めた一人の女性が指南をしていたのです。
よく見ると、その女性は毎日義宣たちの身の回りの世話をしている給仕人でしたが、その姿に義宣は由緒ある家の出身ではないかと思い、その女性に尋ねると真田信繁(幸村)の忘れ形見であることが分かります。
義宣は共に将軍家に随行していた弟:宣家が正室と不仲であることを日頃から心配していたこともあり、宣家を元気づけるためにお田を宣家に紹介します。
結果的に宣家を大変気に入り、側室として、桧山の多賀谷氏に嫁ぐことになりました。
京都で宣家と出会ったは1627(寛永4)年に多賀谷氏が治める桧山を訪れ、宣家の側室になり、お田の方と呼ばれます。
お田24才、宣家46才のことです。
翌年の1628(寛永5)年、宣家との間に長男の庄次郎(重隆)を生みます。
お田は宣隆を支える良き妻であり、子供に対しては教育熱心な母親だったと伝わっています。

夫:宣家宣家の兄である佐竹義宣は、佐竹氏の宗家として久保田藩(秋田藩)を治めていましたが、子供が居なかったため弟義継を後継者にしていましたが、訳あってそれを撤回したため、同じく弟である貞隆の息子、つまり甥っ子である岩城吉隆を後継者にしました。
しかし亀田藩の藩主であった岩城吉隆が保田藩(秋田藩)の後継者となったために、亀田藩の藩主の座が空席になってしまいます。
だからと言って亀田藩主となる人物は他家の者でもいいというものではなく、同じ佐竹氏の家系で固める必要がありました。
そこで1628(寛永5)年8月、お田の息子である庄次郎(重隆)が亀田藩の藩主に任じられます。
なぜなら岩城吉隆は宣家にとって甥だったからです。

この時代、家督は下の立場である甥から上の立場である叔父へ移る事は好ましい事ではありませんでした。そこで、まだ乳児だった庄次郎(重隆)に変わって、番代として宣家は岩城藩を取り仕切る事になり、実質的には宣家が藩主の仕事をする事になります。
宣家は岩城氏のしきたりに従って、名前に偏諱(へんき)として「隆」の字を入れて宣隆に改名しましす。
この時、お田は正室になり、久保田(秋田)城下にある亀田藩邸に行きます。
1629(寛永6)年10月、お田真田氏の菩提を弔うために、越後の妙勝寺から円乗院日砌上人を招いて久保田(秋田)に妙慶寺を建立、真田家の再興を願ったとも言われます。
妙慶寺はその後、亀田に移され、岩城氏の準菩提寺として10石を与えられています。
お田妙慶寺に鬼子母神の像を奉納し、自らお百度参りをします。
お田は大名の妻でありながらオムツ替え・食事・母乳など育児を給仕人だけに任せず自らも行います。
庄次郎の礼儀作法・読み書き・武術などの教育もお田自ら熱心に指導したそうです。
1633(寛永10)年、重隆が6才の初めて将軍に拝謁した時には、江戸まで随行します。
 夫:宣隆宣許しを得て、京都から弟である左馬之助幸信を呼び寄せます。
左馬之助は真田幸信として岩城氏の家臣になります。
一言:現在妙慶寺に納められた甲冑は、1953年に県の有形文化財に指定されました。戦国時代に信繁が作らせた甲冑とみられています。少女用の甲冑とあって、高さは150センチに満たない。亀田地区の真田伝承のシンボルだが、歳月を経て劣化が進み、かぶとを結ぶ「忍び緒」や、「小札」という短冊型の部位をつなぐ糸の傷みが激しい。 胴丸の漆は剥離、藍色もあせている。 )

重隆の参勤交代に毎回随行していたのかは不明ですが、1635(寛永12)年6月11日、重隆が参勤交代で江戸いる最中に江戸柳原にある亀田藩邸でお田は病気となり、32才で亡くなり、江戸・下谷の宗延寺で葬儀が行われました。
お田の長女(不詳)は物心が付いた頃に母であるを亡くし、その悲しみに耐えきれず心の病にかかってしまい、出家して妙慶寺の菩提を弔う生活を送りました。
1646(正保3)年、お田の長女(不詳)が妙慶寺で亡くなります。
墓は妙慶寺にあり、法号は寂寥院殿心月日證大姉です。
1656年7月25日、夫:宣隆が番代を退いて、その子である重隆が本格的に亀田藩藩主になりました。(宣隆73才、重隆29才)
妙慶寺にはお田の方、:隆清院幸信の位牌と大小刀があります。

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お田の方の甲冑

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