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〜直虎:直虎のいいなずけの井伊直親の命を救った南渓和尚とは〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おんな城主直虎編
『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第一回放送『井伊谷の少女』において描かれたように、おとわ・亀之丞・鶴丸の三人は、立場こそ違え、幼馴染として仲良く育ちます。
ところが、鶴丸の父:小野政直が今川義元に対して「直満・直義は武田と通じて今川家に謀反を企てている。その証拠に武具の準備をしている。」と讒言(ざんげん)しために、亀之丞の父:井伊直満は今川義元によって殺害され、亀之丞も今川に身柄を差し出すように通達してきました。
しかし井伊本家は今川の意向に従わず、亀之丞を逃したのです。
直満は裏切り者として殺害されましたが、それは今川家に対してであって、井伊本家に対する裏切りではありませんでした。
従って当時は今川家に従属していた井伊家でしたが、かつては敵対していた今川家に血族を売ることなど考えられなかったのです。
つまり井伊家にとっての裏切り者は直満ではなく、井伊本家の家老でありながら井伊家の直満を今川に売った小野政直だったのです。
従って家臣でありながら井伊家の者を売った政直が今川のスパイだったという見方も生まれるのでしょう。
そして直満の子:、亀之丞を逃す算段をしたのが、ドラマでは南渓和尚として登場していた南渓瑞聞(なんけい ずいもん)でした。
南渓和尚とはいったいいかなる人物だったのでしょう?
南渓瑞聞 - Wikipediaによれば、
南渓瑞聞は、井伊谷城主でありおとわの父である井伊直平の次男もしくは三男として生まれます。ただし、2016年に発見された位牌や、龍潭寺(りょうたんじ)が所蔵する「南渓過去帳」には父実田秀公居士と記載されており、これが直平の法名でなければ父は別人ということになり、その事から養子説も出ているが真偽はさだかではありません。
龍潭寺一世住職として直平に招かれた黙宗瑞淵(もくしゅうたんえん)に弟子入りして出家し、同寺住職を継ぎます。
天文13年(1544年)に井伊直満・直義が今川義元の命により殺害された後、直満の子・亀之丞(後の直親)も殺すように命令があった際、直満の家老今村正実は南渓瑞聞と相談のうえで、師匠・黙宗瑞淵ゆかりの寺であった信濃国伊那郡市田郷の松源寺に書状を送り、そこに亀之丞を匿ったのです。
直平の死後、井伊家は武田家の侵攻により領地および城主国司の地位を失い、また後継者が戦死したり讒言を信じた今川家に討たれたりするなどの危機が続いたが、南渓瑞聞はそのような非常時に当たり、直虎を同家当主に推薦したのです。
葬儀(安骨) - IT坊主のひとりごとによれば、収骨を終えて自宅に帰り遺骨を祭壇に安置し、その前に位牌を置き、水、線香、生花、ローソクを供えたあとに読経をします。
これを、安骨諷経(安牌諷経、安位諷経、還骨勤行ともいう)というすです。
義元は幼かった井伊直親(亀之丞)の命を絶つことを命じ、それに対して南渓和尚は亀之丞を匿ったという経緯もあったというのに。
現世での行いはともかく、仏となったからには、嘗ての敵将をその現世での行いをもって捨て置く事は
僧侶の本分ではないからでしょうか?
恐らく井伊家にとっては好ましくない存在であったにせよ、桶狭間の戦いにおいて当時は小国だった尾張の織田家にあっけなく討ちとられた義元を哀れみ、仮にも井伊家の主君だった義元を、弔うことが僧侶としての指名だったということなのでしょうね。
確かにドラマでも襖に向かって僧侶たちが座禅を組む様子が描かれていましたよね。
イッチ―も。 ![]() 小林薫さん演じる南渓和尚
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2017年01月14日
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〜直虎:小野政直の讒言によって今川義元に殺害された井伊直満の実像は?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第一回放送『井伊谷の少女』では、主人公:井伊直虎がまだ幼い頃のエピソードが描かれました。
直虎の幼名はとわ(「お」がついておとわ) 、分家の嫡男でありながら病弱な亀之丞、井伊家家老の嫡男として知性に優れる鶴丸のまだ幼い三人は、野山を駆け巡り、寺での勉学も共に学ぶ幼馴染として育ちます。
亀之丞と鶴丸は、朗らかで太陽のようなおとわにほのかな恋心を抱きます。
しかし井伊本家存続のために、分家の嫡男:亀之丞は許婚(いいなずけ)となりますが、亀之丞の父:井伊直満が井伊家の所領:遠江(とおとうみ)を含む駿河一帯を治める今川義元に謀反の疑いをもたれて殺害されてしまいます。
ドラマの初回において早くも姿を消した井伊直満とは、果たしてどのような武将だったのでしょうか?
井伊直親 - Wikipediaには以下のような記述しかありません。
井伊氏は遠江の国人であるが、父の直平と共に今川義元に仕えた。兄・直宗の嫡男で甥にあたる直盛に男子がいなかったため、自身の子の直親を養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感を買ったため、天文13年(1544年)、弟の直義と共に小野政直の讒言で今川義元によって殺害させられた。
ですが井伊直満とは? 赤鬼・井伊直政の祖父は非業の死を遂げる【 …にはより詳しい記述があります。
直虎から見れば、大叔父(父の叔父)にあたる井伊直満は、側室の子であった可能性が高いとされることと、長兄:直宗に嫡男の虎松(後の直盛)が生まれたために、当初から井伊本家の当主となる資格がなかったとされているそうです。
しかし、本家の嫡男:直盛が跡を継いて後、直盛には姫:とわ(「お」がついておとわ)だけで、なかなか男児に恵まれなかったために風向きが変わりはじめます。
直虎ことおとわにとっては曾祖父にあたる井伊直平は、平家以来の名門・井伊家をつなぐために、分家となっていた次男の直満の子:亀之丞(後の直親)をおとわの許婚(いいなずけ)とし、いずれは二人を結婚させて亀之丞(後の直親)に井伊家を継がせることを決めます。
この時おとわはまだ2〜3歳の時だったそうです。
我が身は井伊本家当主としての資格を許されなかった直満にとって、嫡子:亀之丞(後の直親)の本家への養子縁組は、どれほど喜ばしいことだったでしょう。
(一言:にっぽん!歴史鑑定『言い直虎はなぜ女城主になったのか?』では、井伊家がまだ小国ならがら独立国として今井家として戦っていた頃に右目を失明して眼帯を付ける風貌となったとの印象を持つ映像が放映されました。つまり当然の務めと言ってしまえばそれまでですが、直満は井伊本家のために決死の覚悟で戦国の世に生きた武将だったのです。)
本家当主となるはずない井伊分家の自身の子が、次期本家当主となる可能性がほぼ確定した直満は、もはや我を失うほどの有頂天な思いがあったことでしょう。
その心の隙が、不幸にして行動に現れます。
直満はこの後本家の方針に度々口を挟むようになったそうです。
この直満の増徴ぶりを苦々しく思ったのが当時の井伊本家家老の小野政直です。
前回のページでご紹介したように、政直は井伊本家の家老でありながら、今川家のスパイだったとも言われ、自らは今川の力を借りて井伊本家の乗っ取りすらも目論む野心家だったと考えられています。
そんな政直にとって直満の増長ぶりは、もはや我慢の限界を超えたものだったと想像されます。
なぜなら小野政直は、我が子鶴松(小野政次)をおとわの嫁として本家の当主とする思惑があったからです。
そんな1541年、武田の兵が井伊領北部へ侵入してきたため、直満と直義の兄弟に武田兵討伐を命じます。
直満と直義は主命に従い、出陣の準備に追われます。
そんな中、小野政直は今川義元に対して「直満・直義は武田と通じて今川家に謀反を企てている。その証拠に武具の準備をしている。」と讒言(ざんげん)したのです。
実際『井伊家伝記』には、
1541年の頃より甲斐国の武田信玄の指図で、武田軍がしばしば遠江国の国境に位置する井伊家の領地を少しずつ横領し始めた。
これにより、井伊彦次郎直満と井伊平次郎直義の二人は、井伊信濃守直平功の命令で、武田信玄の家来と戦う準備をしていたのを、井伊直盛公の家老である小野和泉守は、亀之丞(井伊彦次郎直満の実子。井伊肥後守直親の幼名。井伊侍従直政公の実父)の養子の儀(亀之丞を直盛の娘:おとわの婿養子にして井伊家を継がせる事)について不満があったので、密かに駿府へ行き、今川義元に直満・直義の二人が、「私的に武田軍と軍謀密策を企てている」(井伊家とは関係なく、二人の意志で武田信玄と内通している)と讒言(ざんげん)したので、なおすぐに「駿府に来るように」との召喚状が直満・直義兄弟に来た。
直満・直義の二人とも駿府へ。
そして、1544年12月23日に殺害された。
殺害の後、井伊彦次郎直満の屋敷や山林は、残らず龍潭寺の末寺の円通寺(昭和31年(1956)、円通寺と明円寺は合併して晋光寺となった)に寄進された。
という内容が記されているのです。
直虎ことおとわにしてみれば、小野政直が今川義元に対して井伊直満を死に至らしめる讒言がなければ、おとわと亀之丞(直親)が離れ離れとなることはなかったのです。
そして亀之丞(直親)は、今川義元の追手から逃れれるために南渓 瑞聞(なんけい ずいもん)によって龍潭寺(りょうたんじ)に匿われて長きに渡り渡り隠れ住むこともなく、そうなってからも、その行方を密かに知らされていれば、次郎坊という法名を得て出家することもなかったでしょう。
その場合、おとわはいずれは許婚となった亀之丞(直親)とめでたく結ばれ、二人して井伊本家を守ることとなったはずです。
女性としての幸せを小野政直に奪われ、直親と結ばれることもなく、その忘れ形見の井伊直政が立派に家督を相続するまで、男名の直虎として井伊本家を守り抜くなどという姫には酷な生涯を貫く必要もなかったものを・・・・これを哀れと思ってはいけないのでしょうか?
しかし歴史に残る運命をおとわが受け入れたからこそ、やがて井伊直正は彦根城主となり、幕末には井伊大老を輩出し、大坂の陣においては真田幸村と井伊軍が対峙する場面もあり、現代にはひこにゃんを世に送り出すきっかけを作ることにもなったのですから、見事な生涯だったと言うべきなのでしょうね。
直虎の頃の井伊家系図
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