『NHK大河ドラマ 真田丸』『最終回』で描かれた真田幸村らの徳川軍に対する最後の決戦は、天王寺・岡山の戦いと言われます。
豊臣方はこの決戦にあたり、敵を四天王寺の狭くて大群では攻め難い丘陵地に誘引した敵を順次叩きながら、これにより敵の陣形が伸びきって本陣が手薄になったところで、別働隊の明石全登を迂回して家康本陣に突入させか、あるいは別働隊が敵本陣の背後にまわったところで狼煙を上げ、それを合図に前後から敵を挟撃し)、家康を討ち取る作戦でした。
その後豊臣方が優位に戦いを進める中、大将の豊臣秀頼に出馬を請い、全軍の士気を高めれば、大軍勢の徳川勢に対しても勝ち目あると考えたのです。
しかしドラマの中でも描かれたように、現実は事前の作戦通りに戦況は進みません。
伝えられる史実?によれば、天王寺口の戦い(よりき)と言いますから侍大将・の騎士、つまり勝永配下の騎士が、正午頃、豊臣方を攻めるためではく物見に出ていた幕府方本多忠朝勢を銃撃してしまうというアクシデントが発生しまい、これをきっかけに幸村らの豊臣方の各隊が作戦通りの体制を整える前に合戦が始まってしまったそうです。
ドラマでも豊臣方の陣にて戦の手順を確認しあう中、松平忠信勢が毛利勢に鉄砲を打ちかけると、それに応戦して毛利勢も鉄砲を打ち返すという想定に反したかたちで戦いの火ぶたが切られると、止む無く幸村(信繁)と勝永は戦場へと打って出るというストーリだったので、伝えられる史実とほぼ同じですね。
その後の戦況はドラマでは、当初は毛利勝永軍や真田軍の進軍により、戦況は豊臣軍の圧倒的優位に動き、毛利軍の後を進む幸村(信繁)が、家康本陣へと斬り込みますが、家康は既に逃走した後でした。
途中幸村(信繁)は徳川方の真田信吉の陣を通る際、決起にはやる信之の次男:信政の率いる軍と交戦状態となり、信政に従う三十郎は、行きがかり上やむなく幸村(信繁)に斬りかかるのですが、幸村(信繁)はその切先を交わし、「小物にはかまうな!」と、真田信吉・信政の陣脇を駆け抜けて行きました。
一方別動隊の大野治房軍も徳川秀忠の本陣に攻め入りますが、これまた秀忠は慌てふためいて逃走します。
ところが後から出陣するはずだった秀頼を、大蔵卿局が強硬に引き留めてしまいます。
そこで幸村(信繁)は秀頼の出陣が勝敗を決するとして、大助を秀頼出陣の要請に向かわせますが、
幸村(信繁)が出陣前に裏切り行為を攻めたことで自害したはずの大角与左衛門が、自らが刺した腹に包帯を巻き、秀頼の前に現れ、傷を負わせたのは幸村(信繁)だと語ったために、幸村(信繁)の命で戻った大助の出陣要請を秀頼は、大蔵卿局の「真田源次郎は裏切り者でございます。」との言上と、淀殿の「生きよ。」との制止により、出陣を思い止まってしまうというストーリーでした。
ですが伝えられる史実における戦況はもっと複雑です。
毛利勢の発砲という形で始まった戦いは、これまでに例を見ない兵力と火力がぶつかり合う戦場となり、混乱に陥ります。
毛利勢は、本田忠勝(真田信之の正室である稲の父)の次男である本多忠朝を討ち取り、幕府方先鋒本多勢を壊滅させます。
徳川方は苦戦する本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩勢が駆けつけたが、毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等による側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱後に死亡してしまいます。更に援軍二番手の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵が雪崩込んだ援軍の三番手も大混乱をきたしてしまい、結果的に家康本陣は無防備状態になってしまいます。
この頃真田幸村(信繁)は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦してましいたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出ます。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返したのです。
(一言:ドラマでは時間の都合上か、幸村の家康本陣への突撃は、2度でしやが。)
こうした豊臣勢の攻勢によって家康本陣は混乱状態に陥ります。
三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる家康自身も切腹を口走り、文殊院勢誉に制止されたという(一説には平野方面に逃げたともいわれます)。
(一言:ドラマでは家康が徒歩で本陣より逃亡して山上で切腹しよとしたシーンが描かれましたが、実際は騎馬に乗っての逃亡途中で切腹を口走ったというのですから、より切迫した状況だったんですね。)
しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る幕府方に次第に追い詰められてゆきます。
大和路勢や一度は崩された諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始め、
信繁は安居天神で休息をとっていたところを討ち取られ、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷を負い、豊臣方で唯一組織的な戦闘を続けていた毛利勢も真田勢が壊滅すると四方から集中攻撃を受けることになり城内に撤退します。
別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が敗れたことを知ると松平忠直勢に突撃した後姿を消したそうです。
(一言:一般的には自決が宗教的に許されず、討死をも恐れないというイメージのキリシタンの部隊も、意外にいざとなれば保身を優先するのですね。細川ガラシャは屋敷を襲撃されて捕らわれる前に死を選んだというのに。)
以上の戦いは天王寺口の戦いです。
一方の岡山口の戦いでは、
徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞き進撃命令を出します。
徳川勢の立花宗茂は、秀忠本陣が突出しては敵の突擊を誘うため後退すべきと建言しますが聞き入れられずに戦闘が始まると、先鋒の前田勢は大野治房勢に崩され、これを支援するために二番手井伊直孝、藤堂高虎勢が動きます。
この陣立ての乱れに乗じた豊臣方の大野勢は秀忠本陣に殺到し、旗本先手の土井利勝勢が崩れ一時大混乱とります。
秀忠自身が鑓を手に取り戦おうとするのを、本多正信が大局的に見れば味方は勝っており将軍自ら手を下す必要はないと諫め止めたと言います。
その後秀忠は黒田長政、加藤嘉明勢によって敵を防ぎつつ本陣を後退させようとしますが、立花は敵は疲態でこれ以上の攻撃できず、また後退すると士気が下がると再び建言します。
そうこうするうちに旗奉行三枝昌吉が旗を立て直すと散っていた将兵が集まりだし、次第に秀忠軍は攻勢をはね除け反撃に転じ始めます。
(一言:秀忠自身は大局的に戦況を判断する能力がなく、凡庸な大将でしたが、補佐官に恵まれていたということですね。)
大野治房は、敗兵を収容しつつ城内に撤退します。
この間、後詰大野治長、七手組は秀頼の出馬を待っていたが、淀殿の説得に手間取り秀頼が出馬した頃には家康、秀忠本陣に突撃した豊臣方の軍勢はすでに撃退されていた。体勢を立て直した幕府方の圧倒的兵力と火力の前に豊臣方の陣立ては15時頃には崩れ、毛利勝永指揮の殿のもとに城内へ総退却してしまいます。
他にも小田原征伐・文禄・慶長の役などでも経験がないほどの野戦一箇所での大軍密集によって、徳川軍に統率・機動の混乱がみられたことがあった上、冬の陣から間を置かぬ再度の動員での財政逼迫を懸念した家康が早期決戦を急いだ事が挙げられるそうです。
(一言:そんなケチ臭いことを家康が思っていたなら、豊臣家を早急に討ち滅ぼすなどという暴挙など起こさなければいいじゃない。)
無論、豊臣方の完全に後が無い事による背水の陣ともいえる奮戦振りも、ここまで徳川方が苦戦した理由の一つに数えられるとか。
(一言:いわゆる窮鼠猫を噛むってやつですね。)
家康の合戦の中で、人的被害(討死)が一隊の将にまで及んだのもこの合戦のみだとか。
(一言:つまり家康は敵方の者をたぶらかし、調略などによって見方に引き入れることや、最新鋭の大筒を使っての砲撃による心理的攻撃や、約定を破って大阪城の外濠を全て埋めつくしたり、罪のない者に濡れ衣を着させて宣戦の理由とするなどの悪賢さには長けていたものの、実戦での指揮能力の実力は大したことがなかったということでしょう。)
なお本合戦は正午の開戦から大坂方が総崩れしたのが15時頃というわずかな間であり、それだけ短時間で激しい戦いが行なわれていたことを物語っていると分析されます。
それはつまり、兵力において圧倒的不利にあった豊臣方が、一か八かの決死の特攻により、徳川方の大将である家康や秀忠の首を討ちとる以外に、この戦いでの勝利はないと端っから覚悟していたということです。
ちなみにドラマで家康が幸村の突撃によって今まさに撃たれようとした時、秀忠勢が駆けつけて幸村の腕を撃って馬上宿許筒を落とさせたシーンは、三谷幸喜さんが徳川びいきであることを如実に示したものだと私は思っています。
その後の徳川政権が続く始りとなった秀忠の存在を英雄化するためのものだったと。
全く持って納得できない結末を描いたのが『NHK大河ドラマ 真田丸』だったと。
それでは皆様良いお年を。来年もよろしくご訪問下さい。
家康の神格化ほどではないにしろ、秀忠の英雄化も私は反対です。