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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜旧我家解体記:基礎を掘り起こしてから更地にするには、だやることが
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もう今日で今年も終わりです。ですが世間の動きに合わせることなく、旧我家解体記の続きをご紹介します。

前回の旧我家解体記では、基礎コンクリートを掘り起こすまでをご紹介しました。
そしてその後日に更地になった旧我家跡地を、〜旧我家解体記:堺市中区深井の旧我家跡地が1080万円急いで売れちゃうよにてご紹介しました。
そのページでご紹介したのが以下の画像です。年初からたった一人での旧我家の解体を始めて、この画像を撮影したのはもう季節は秋となった10月18日のことでした。
コンクリート片や瓦などの残材はまだ残っています。
それは廃棄物処理代をくめん出来なかったためなのですが、この土地をどなたか気に入っていただいたなら買って頂くために、ネット上の不動産査定サイトたったの60秒 不動産の売却査定 - home4u.jp‎
に旧我家の所在地と種類などを入力してみたところ、福屋不動産販売さんから土地の売り主である私にとって最も好ましい回答を頂きましたので販売をお願いしました。
契約が成立したことで、以下の画像に写る残材などを全て撤去したのです。
その処理代を個人ローンで借り入れてね。

〜旧我家解体記:堺市中区深井の旧我家跡地が1080万円急いで売れちゃうよで紹介した画像

この10月18日の時点では、土地に草は生えていませんでしたが、その後の12月1日に撮影した以下の画像では、もう随分草が生えて来ています。
来年の年初には、草引きに行かなければなりませんね。

ところで、基礎コンクリートや、地面に埋まった水道管や下水管の掘り起こした後には、ポッカリと穴が・・・というか、溝が残ります。
当然この溝は土で埋めなくてはなりません。
その埋めた痕跡が、画面の中で色の濃い土の部分なのです。
なのですが、特に画面左側隣りとの境にある路地には、水洗トイレの下水管が埋まっていました。
元々家が建てられた時から水洗トイレだったなら、下水管は我家の敷地内に設置されているものですが、なにせ築50年の古い家ですから、その新築当初は汲み取り便所、いわゆるポットン便所で、それは私が中古物件としてこの家を購入して約20年近く経ったついこの前まで、ポットン便所だったのです。
その後ようやく堺市中区でもトイレの水洗化が進行し、水洗トイレにしたのですが、家が既に建っている以上、水洗化のための下水管の設置には、路地に敷設する他ありません。

ということで、この下水管を掘り出すにあたっては、お隣との間にある路地のコンクリートを境界線でサンダー(グラインダーカッター)を使って切って後、コンクリートを剥がしてから掘り起こす必要があります。
この時お隣の領域となるコンクリートを割ったり、ヒビを入れないようにしなければならず、神経を使いました。

ちなみに、今回私の旧我家はとても古い家だったので人力で基礎コンクリートの掘り起こすことができましたが、近年の新築の基礎コンクリートには、耐震性の強化などから多くの鉄筋(鉄骨)が入って入ます。
なので今の住宅の基礎コンクリートを大ハンマーで打ち砕くことなどとてもできません。
それでも鉄骨の入っていない基礎コンクリートを掘り起こす内に、最後にはつるはしの柄が折れてしましました。
そのことだけでも、重機を使わずに人力で基礎コンクリートを掘り起こすことの無謀さを物語っていると思います。
こんな無謀な行為を他にも行う人は一人としていないとは思いますが、このブログを見て、解体代に何百万円も支払うくらいなら、自力でやってみようなどとは決して思わないでくださいね。
大ケガをしたり、腰を痛めてしまいますよ。
私は幸い年齢のわりには強靭な足腰だったからいいようなものの。
レンタル重機を扱える人ならアリだとは思いますが、それでもたった一人では・・・・お勧めできませんね。
以上、経験者は語るでした。

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完全な更地となって、草も生えだした旧我家跡地(人目線)

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完全な更地となって、草も生えだした旧我家跡地(4mの高さから)

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完全な更地となって、草も生えだした旧我家跡地mの高さから)

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旧我家跡地からお向かいの家を望むmの高さから)

福屋不動産販売での当物件のページ
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分
 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!



〜旧我家解体記:基礎コンクリートの掘り起こしに1週間かかり、6月20日には
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ここに来てブログの更新が滞っていますが、晦日ともなると、色々ありまして・・・・もうあした一日で今年も終わりですね、ですが世間の動きに合わせることなく、旧我家解体記の続きをご紹介します。
本当は大河ドラマ真田丸についてもまだ記すべきものがあるのですが、新年になってしまいそうです。

前回の旧我家解体記では、柱・梁・桁が解体されたところまでをご紹介しました。
柱・梁・桁が解体し、土台の角材を取り除けば、残るは基礎コンクリートの掘り起こしです。
たった一人の人力で旧我家を解体するには、なにかにつけて困難なことがあるのですが、もう立体的な構造物がなくなり、地に足をつけて作業するようになれば、高所から落下することや、上から構造物が頭上に落下して来るという危険性はなくなります。
ですがそれでも最後の難題ああるのです。
それは基礎コンクリ―トを砕き、掘り起こすという作業です。
その作業の何が大変かと言えば、基礎コンクリートは地上に見えている部分は全高さの1/3であり、基礎の下部は、スカートのように広がっているために、人力で掘り起こす場合に大変な力がと手間が必要になるということです。
大ハンマーで基礎コンクリートを砕き、それを掘り起こすのはつるはしという工具なのですが、パワーショベルなどの重機が発展した現代では、殆ど使われなくなった工具です。

皆さんは、往年の名アニメ:『巨人の星』をご存知でしょうか?
そのアニメの主人公:星飛馬の父:星一徹は、息子を巨人のエースピッチャーに育て上げるために、大リーグボール要請ギブスを幼い頃より飛馬に装着させて、それこそ鬼のような猛特訓を強いるのですが、星家はボロ長屋に住むとんでもない貧乏でした。
そのため父:一徹は、普段は土木工事で収入を得ます。
その仕事現場でいつも一徹が遮二無二(しゃみむに)地面を掘り起こす作業に使っているのがつるはしという工具です。
この道具を工事現場の第一線で使っていたのは、昭和初期〜中期の頃だったでしょうか?
今でもこのつるはしの小型のものを使う事はあるようです。例えば竹の子掘りなどで。
ですが私はこの道具の本当の使い方を知りませんでした。
地面に埋まっている基礎コンクリートや石を掘り起こすには、ただこのつるはしつるを掘り起こそうとする物の地面の下に埋まっている下面に突き入れるよう振り下ろしてこじるように起こせばよいというものではありまえん。
しっかりと地面に埋まっている物を堀り起こすには、掘り起こすべき者の下に突き刺さったつる部の反対側、つまりはし部に乗ることで体重とテコの原理を使って掘り起こすことで、少々のものなら、楽に掘り起こせるものなのです。
こうした正しいつるはし合理的な使い方は、教わったのではなく、使っている間に気づいたことでした。
それはそれとして、何より基礎コンクリートを掘り起こすには、まずは四角く繋がっている一角をまず最初に大ハンマーで打ち砕くことが、最も困難なことでした。
これをまず試してみた時、何度大ハンマーを打ちつけても、基礎コンクリートは中々打ち砕けず、「これは腰を痛めてしまって、最後まで体がもたんぞ!」と真剣に思いました。
ですがこの事態は、はなっから予想していたことで、ダメなら重機を扱える業者か知人に頼まざを得ないと思っていたのですが、何とか基礎の一角を打ち崩して縁を切ることができ、つるはしの扱いを知るにつれ、何とか基礎コンクリートも全て自力で打ち崩せると確信しました。
基礎コンクリートを掘り起こし終えれば、今度は庭などの一面に塗られたコンクリートを剥がし、最後に地下に埋まった水道管や下水管を掘り起こして初めて、解体作業は終了です。
この基礎コンクリートを全て打ち崩して掘り起こすだけに、約一週間を要したのです。
我なら「ようやる。」と思いましたね。

廃材を貨物車に積み上げて処分することは別にして。

以上のような文章で、基礎コンクリートを人力で打ち崩し、掘り起こすことの困難さが、今の人に理解できたでしょうかね?
星一徹の偉大さも。

ちなみに、以下の旧我家の跡地の像の右側に写る白いテントシートの中には、まだ解体した柱・梁・桁などが積み上げてあります。

イメージ 4 
イメージ 5
アニメ『巨人の星』の定番のシーン

つるはしを使った作業の様子

イメージ 1
基礎コンクリートの殆どを掘り起こした旧我家跡地(人目線)

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基礎コンクリートの殆どを掘り起こした旧我家跡地(6mの高さから)

イメージ 3
旧我家跡地にまだ残る基礎コンクリートなどの残材

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所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分
 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
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南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
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〜旧我家解体記:5月31日には柱・梁・桁は解体しましたが、それでも色々と
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旧我家解体記の前回は、5月17日までの、柱・梁・桁を解体する状況を、ご紹介しました。
5月17日の作業では大変なことがたくさんあったのですが、なんとか無事に乗り切り、5月31日には柱・梁・桁の解体は全て終了しました。

ということは後は土台と基礎だけになったのかと言うと、それがそうではないのです。
画面中央から左の部分に白いテントシートが掛けられた下には、まだ土壁がしっかり残っています。
とにかく燃えない残材、つまり土やガラ、コンクリート片の処分代が2トンダンプ大盛り1車で3万円もするので、どうしても資金的に後回しになっていたのです。

以下の画像でお分かりのように、処分は堺市市営のクリーンセンターで安価に処分できる木材を優先したのです。
木材の量、すごいでしょ。

見ていただければお分かりのように、極力材木を綺麗な形で解体しています。
もちろん再利用するためにです。
とりあえずガレージ小屋の柱・梁・桁・筋交いなどにいくらか使いました。
おかげで車は雨ざらしではありません。
現在はこれまでに幾度となく画面に映っていた軽トラックを入庫していますが、6m×6m×高さ3m以上のガレージ小屋なので、積んだままの2トンダンプが楽々入ります。

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〜真田丸:木村重成らが奮戦した八尾・若江の戦いは徳川の圧勝ではなかった
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、幸村らは家康率いる徳川の本隊は奈良大和路より攻め込んで来ると考えていたために、奈良・大阪の境界にある生駒山を挟んで奈良大和路と平行するようにある大坂側の東広野街道には、秀忠軍が進軍して来ると見て、長曾我部盛親と木村重成らがこれを迎え討つこととします。
ところがこうした豊臣側の動きを内通者(台所頭 大角与左衛門)を通じて知った家康は、秀忠と共に本隊を東広野街道から進軍します。
果徳川本隊と木村・唐曾我部隊は、若江・八尾でぶつかります。
戦いでは木村重成が討たれ長曾我部盛親はもはやこれまでと逃亡します。

豊臣方は、大坂城大坂冬の陣ののちをすべて埋められてしまったため、夏の陣ではを出て戦わざるをえない状況になっていました。
幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。河内方面隊は藤堂高虎井伊直孝を先鋒とし本多忠朝前田利常松平忠直など総勢55,000の兵で構成されており、立石街道から道明寺へ向かっていた。そのあとに徳川家康秀忠ら本隊が続いたのです。
一言:家康・秀忠は、自らが先頭に立って軍を率いていたのではなく、大軍の先鋒隊の後に隠れるようにして進軍していたのですね。)
一方の豊臣軍では、5月2日に河内口から来る幕府軍に対し、大坂城東方、大部隊の機動には適さない低湿地帯で迎撃することにし、木村重成の兵6,000が大坂城を出発します。
一言:この記述を見る限り、ドラマで描かれたように幸村の作戦で平野川の堤を何か所か切って湿地帯にしたのではなく、もともと低湿地帯があったのですね。)
加えて長宗我部盛親増田盛次の兵5,300もそのころに出発したらしいのですが、豊臣方は木村・長曾我部などの両軍を合わせても11,300で、徳川の先鋒隊55,000に遠く及びません。

5月5日、木村重成は大坂城の北側にある今福方面を視察し、こちらに幕府軍が来襲する可能性は低いと見ます。
そこで徳川家康・秀忠本営に側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。
5月6日、木村重成は午前0時頃には出発したいと考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。途中道を間違え沼地で立ち往生するなど、木村自身や兵の練度に問題があり、進軍は順調にはいかなかった。
一言:ドラマでは、徳川勢のみが実戦を知らない兵が大半だったように描かれましたが、豊臣勢の兵にも実戦なれしていない兵が多く存在していたのですね。)
一方徳川勢は、午前1時、井伊直孝は部隊に命令して食事させ、進軍の命を待たせたます
午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見した。幕府軍は勝手な戦闘は慎むよう命令されていたが、藤堂高虎は良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言をうけ開戦を決断、各隊に進撃を命じたのです。
一言:この藤堂良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言は半分当たっていて、半分ハズレていますよね。つまり、確かに豊臣勢は家康・秀忠の本隊への攻撃を企てていましたが、その役目を担っていたのは、この若江に進軍していた木村重成らの軍ではく、道明寺へと進軍した後藤又兵衛・真田幸村らの軍が本隊でしたから。)

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八尾・若江の戦い

八尾の戦い長曾我部盛親の戦い
萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒吉田重親は、藤堂勢中備藤堂高吉の攻撃をうけて応戦しますが壊滅、吉田も戦死する中、本隊に対し攻撃を受けていることを長曾我部本隊に伝令を出します。
藤堂高刑桑名吉成は東広野街道を進んで道明寺へと向かう徳川本隊の中でも藤堂隊の左先鋒として最も先頭でしたが、右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見したとの伝令を受けて急きょ転進、玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫り、高虎の旗本藤堂氏勝もそれに続きます。

こうした徳川勢の進撃に対し、壊滅した吉田重親からの伝令を受けていた長宗我部盛親は、長瀬川で迎撃の体勢を整えます。
騎馬武者もすべて下馬させ、を持たせて堤防の上に伏せ、藤堂勢の進軍を待ち、藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせます。
これにより 藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は負傷、退却中に死亡します。その後藤堂高吉も来援しますが、長宗我部勢はこれを圧倒し、撃退します。
こうした戦闘は正午頃まで続き、小康状態になったところで長宗我部勢は長瀬川堤で陣を整え、休息していたところへ、若江の木村重成が敗れたとの報が届きます。
敵中での孤立を恐れた盛親は直ちに大坂城へと撤退したのです。
一言:ドラマでは木村重成の討死を知った盛親は、家臣の制止を振り切って大将だけが逃亡したかのように描かれましたが、実際には盛親の判断により長曾我部隊壊滅の危機を避けるための行動だったと言えます。)
若江の戦い木村重成の戦い
午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えていた所へ、その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけますが、藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死します。
 その後木村勢は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃する戦略をとります。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させます。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列です。
川手勢は、玉串川東側堤上から玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置していた木村勢を発見し、一斉射撃後、敵に突入します。
玉串川の西堤上にいた木村勢は堤の西に後退し、堤の両岸は井伊勢が占拠します。
川手勢はさらに木村勢に突進しますが、結果的に川手良列は戦死します。
しかしそこに庵原勢も加わり激戦となります。
木村重成は自身も槍を取って勇戦しますがやがて戦死し、山口弘定内藤長秋も戦死となり木村本隊は壊滅します。
ですがこのような豊臣・徳川両軍が激戦を繰り広げる中、ずるく立ち回る奴は何時の世にもいるもので、それまで戦闘を川の向かう側から傍観していた幕府軍の榊原康勝丹羽長重らは、味方有利と見てから進撃し、木村勢左先手木村宗明を攻めます。
宗明は本隊が敗れたため大坂城へと撤退します。

八尾・若江の戦いによるその後の影響
藤堂勢および井伊勢はこの戦闘で大きな被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえなくなり、この八尾・若江の戦いに参戦せず、戦闘を傍観していた松平忠直は、家康に叱責されます。結果的に、これが翌日の天王寺・岡山の戦いでの抜け駆けの誘因になったといわれる。
一言:松平忠直にしてみれば、勝手な戦闘は慎めという命令を素直に守っていたと言えるのですが・・・・。) 一方の豊臣方は、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかったことからも、長宗我部盛親は八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅状態だったと考えられます。

以上のような八尾・若江の戦いを分析すると、 当時の大坂は、大坂城のある上町台地の東側が、古代には河内湖という海へとつながる巨大なな内陸湖でした。 湿地帯の中に延びた小道の意味の「」という言葉があります。 戦国時代には、かつて河内湖だった大阪の東側一帯も陸地となっていましたが、古代の湖の名残を残した広大な湿地帯が広がっていたようで、現代においても四条と言われる地名が残ります。
従って八尾・若江の戦いは低湿地帯で行われたため、自ずと各種足軽鉄砲)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などで構成され、独立した作戦行動を採れる基本単位である単位での戦闘が中心となり、結果として消耗戦とも言うべき経過をたどりました。
また、榊原康勝・丹羽長重らが事態を傍観したのも、畦道を木村宗明に固められ迂闊に手を出せば、その昔両軍が大軍を持ちながら畷という特殊な戦場であったがために小隊による消耗戦を強いられ、両軍共に多くの犠牲を出した沖田畷の戦いの様な展開になることを恐れたためだとされます。
事実、無理に突撃を敢行した井伊勢は勝利こそ収めたものの、大損害を被っています。
ですがこうした徳川方の各陣営の対応は、後に井伊家は徳川家筆頭の地位に上り詰めたことからも分かるように、戦後の家康による評価に大きな影響を残しすこととなったようです。

ということで、八尾・若江の戦いにおいて5月5日 に京を出陣した家康・秀忠本隊が係ることはありませんでしたが、5月5日 に家康・秀忠の本隊が十二万余の軍を率いて京都を出陣し、河内星田に着陣した際、家は自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたと言います。
一言:つまり家康は、冬の陣の後に濠と真田丸をことごとく排除した大坂城に残る豊臣方など、もはや何一つ恐れる要素のない存在であり、アリの群れを踏み潰すが如く容易いことと侮っていたということです。)

豊臣方の将:木村重成が入浴の際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせます。
一言:現代人の感覚で言えば、出陣する前に入浴し、その際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせるなど、「木村重成ってナルシスト?」なんて思う人も多いことでしょう。ですが、時代劇などでも、武士が切腹するおりは、部屋でお香を焚き、身を清めた上で白装束となり、白木の三方に乗った諸刃の短刀の柄部分を和紙で包み、あいた三方をお尻に敷いて、仰向けに倒れて醜態を晒さないようにしてから自害するというシーンがよく見られます。お香は血の匂いを消すものです。つまり重成の入浴して兜に香を焚き込めさせた上での出陣は、敵に首を討たれることをいとわぬ並々ならぬ覚悟で出陣した事を物語っています。ちなみに重成は幼少から豊臣秀頼の小姓として仕えたといわれ、秀頼の信頼が厚く、豊臣家の重臣でした。大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い、その名は天下に知られるようになります真田丸の戦いにも参加し、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞賛されます。夏の陣にて打たれた重成の首実検で、その首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったことで、家康はその覚悟に感嘆したたという逸話が残っているそうです。)

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真田丸:本当に幸村は戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いだった?〜
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編          
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『NHK大河ドラマ 真田丸』の最終回では、ついに幸村(信繁)が家康の目の前まで迫り、今正に廻りで家康を撃たんとした時、家康は周辺の家臣に対し、
「手を出すな!」と一喝すると、
今度は幸村(信繁)に対し、
「・・・・わしを殺したところで、何も変わらぬ。・・・・戦で雌雄を決する世は、もう終わった。お主のような、戦でしか己の生きた証を示せぬような手合は生きて行くところなど、何処にもないわー!」と言い放ち、
幸村(信繁)は「そのような事は百も承知、・・・・」と声を荒げました。

ですが家康がドラマの中で言ったように、果たして幸村(信繁)は戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」だったのでしょうか?
戦国時代が終わりを告げ、大平の世では、幸村(信繁)は生きて行けない男だったと。

私はそうは思いません。
そうした事をドラマではなく家康も実際に幸村(信繁)に対して抱いていたとしても、それは昌幸・幸村(信繁)の親子二代に渡って苦しめらた家康の、主観にしか過ぎないと私は思います。
むしろ幸村(信繁)は、太平の世にこそその知力を生かせる武将だったと思えるのです。

ではなぜ幸村(信繁)は、一見「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」に見えるような、修羅の道を選んだのでしょうか?

兄:信之がかつて心優しく、物静かで言葉少なく、腹を立てる事も少なかった」と称した程に、幸村(信繁)はおよそ戦いに生きる人物ではありませんでした。
それを「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」にしてしまったのは、他ならぬ家康だったと皆さんは思いませんか?

これまでに当ブログで何度も記したよに、幸村(信繁)の父:昌幸は、戦国時代随一の知将でありながら、天下や領地の拡大などは望ます、真田一族とその里を守るためだけのために、時の覇権を握っていた信長・秀吉・家康らに抗い続けた人生でした。
にもかかわらず、長年に渡って真田の里を再三脅かし続けたのが家康だったと言えるでしょう。

真田一族とその里を守るためだけのために戦い、その安堵を得んがために豊臣方に付いた昌幸・幸村(信繁)親子を、家康は徳川に背いた大罪人として九度山に幽閉し、ついにその地で昌幸は、失意の中で哀れに生涯を閉じます。
そんな勇猛だった父が惨めに生涯を閉じる有様を、どうすることも出来ずに13年間に渡って見続けた幸村(信繁)は、そうさせた家康を撃つ事だけに執念を燃やす阿修羅となったのです。

言い換えれば、心優しく、物静かで言葉少なく、腹を立てる事も少なかった」幸村(信繁)に、烈火のごとき怒りを与え、悪鬼・羅刹のごとき武将に変えたのが、家康だったのです。
そうは思いませんか?
もしも太平の世に信之と共にあったとしたら、幸村(信繁)は嫡男:信之を生涯を掛けて補佐し続け、幸せな人生を歩んだに違いありません。

そして今日の人々が真田幸村(信繁)という武将に強く引かれるのは、「戦でしか己の生きた証を示せぬような手合い」ではなかったにもかかわらず、そう生きなければならなかった彼の思いを、知らずし知らずの内に理解しているからだと思えるのです。

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